2016年8月21日 (日)

なぜ、戦争が起きたのか?

1.まえがき

 

「なぜ、戦争が起きたのか?」この問いは、長年にわたって、心の片隅で、くすぶっていた。学校で、日本史というものを学びながらも、大東亜戦争とも、太平洋戦争とも呼ばれた、戦いが、なぜ必要だったのか、私たちは、そのことを、ほとんど顧みないまま、今日にいたっているのではないだろうか?

 

 

 

始めの、ボタンのかけちがいから、戦争へと発展したのではないかと、私も始めは考えていた。満州事変、盧溝橋や、南仏印進駐こそがボタンのかけちがいで、それさえなければ、その後の日本の転落はなかったのではないかとも考えた。歴史に「もしも」という仮定はないにしても、最初のボタンのかけちがいを防ぐことができたら、その後のかけちがいはありえなかっただろうし、日中、日米へと戦争が発展することはなかったと思っていた。様々な本を読んで、その確証を得ようとしたが、ボタンのかけちがいを見つけ出すことはできなかった。

 

 

 

ある人は、山縣有朋が日本陸軍の基礎、軍閥を組織し、統帥権を残したためだと言い、盧溝橋での日中戦争からすべては始まったと言い、ある人は、満州での関東軍の独走が問題だったと言い、さらにドイツと共に三国同盟の締結を進めていた松岡外相が、野村駐米大使とハル国務長官とで戦争回避のために作り上げた日米諒解案を認めようとしなかったことが問題だと言い、南仏印進駐がアメリカを怒らせ、ABCD(米、英、中国、オランダ)包囲網を完成させたと述べる人も多い。国際連盟から脱退が引き金だった。いや松岡外相による三国同盟こそが悪の本源だという人もいる。あるいは、すべて天皇に責任を押し付けて、天皇責任論とする見方もある。さらに言えば、東条を独裁者と見なし、東条と大本営が、全責任を負うべきだという見方も根強い。スケープゴートを作り出し、責任転嫁するのは、単純で、誰もが理解しやすい。その反面、誰でもが陥りやすいパラドックスで、本質が見えてこない。

 

 

 

こうして、考えてみると、それぞれの原因は、戦争を起こすための要素ではあったが、本質にはほど遠い。この大戦について、書かれた本は、数えきれないほどある。それなのに、どの本を読んでも、戦争の本質が見えてこない。

 

 

 

それでは、あの戦争の本質はなんだったのだろうか?

 

 

 

その話を始める前にまず、読んでいる方に歴史上の別の視点から対米戦争をとらえてほしい。

 

 

 

たとえば、アメリカが常に言う、パールハーバーの襲撃は日本側からの卑怯なだまし討ちであり、アメリカは中国の主権を守るための正義の戦争であったというステレオタイプな歴史観を改めなければならない。ただ、対日戦争中に16万ものアメリカ兵士が亡くなったのである。その戦死した人に大義名分を与えるため、上記の理由は必要だと認めることはやぶさかではない。しかし、歴史の事実とは全く異なる。

 

 

 

実は、歴史上で、正しい戦争なぞというものは、なかったし、これからもありえない。戦争を始めるにはアメリカ側の理由があり、日本には日本の理由があったはずだ。その理由が、どんな理由だったのか明らかにしながら、自分が一国のリーダーだったら、どういう判断をすべきだったか考えてもらいたい。

 

 

 

2. 東条が戦争への道を選んだ理由

 

真珠湾攻撃を決断するまでの経緯を述べてみよう。その頃、日本が直面していた危機的状況は次のとおり。アメリカは日本に対して経済制裁を行っている。アメリカからの石油全面輸出禁止、資産凍結令が出され、さらにABCD(米、英、中国、オランダ)包囲網を完成させた。石油備蓄は一年分あるが、このままでは、日本の工業・産業は壊滅的となる。他の国から石油を手に入れられる可能性はない。アメリカと和平を結ぼうにも、アメリカはトップ会談に積極的ではない。さらに、ハル国務長官は「ハル・ノート」と呼ばれる最後通牒とも言える、下記のような無理難題を日本に押し付けた。

 

1)すべての国の領土と主権尊重

 

2)他国への内政不干渉を原則とすること

 

3)通商上の機会均等を含む平等の原則を守ること

 

4)平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状維持

 

 

 

当時の東条の考えは、どうだったのだろう。

 

a) 戦争を避けることは天皇の意思でもあったので、近衛内閣も、東条自身も、何としても対米戦争は避けようとした。しかし、ハル・ノートの内容は、日本にとって絶対受け入れがたい内容であり、実質的には無理難題どころか、戦争するぞと脅迫ともいえる内容だった。

 

b) 戦争を始めたとしても、石油備蓄はもって一年から一年半。軍艦や飛行機を持っていても石油がなければ、鉄くずにしかならない。戦争するならするという決断を早急にしなければならない。交渉を長引かせるという手段もあるが、長引かせるほど、国内の経済は打撃を受け、失業者が巷にあふれることになる。しかも、持っている兵器は油なしに時間とともに使用不可能になる可能性が高い。大砲や軍艦で攻めて来る敵に対して、竹やりで戦うわけにはいかない。戦争するなら早急の決断が望まれた。

 

c) アメリカの要求に対して、当然、服従することはできない。服従すれば、軍のなかには皇道派や不満分子が多くおり、間違いなくクーデターが起きるだろう。関東軍に撤退命令をだしたところで、反発し、拒絶することだろう。日本が分裂することになる。

 

 

 

こう考えると、東条にとって、対米戦争を始めるしか選択肢がなくなる。

 

 

 

始め、なぜ、南仏印進駐がアメリカを怒らせたのかが、私自身、初めはよく理解できなかった。おそらく東条は、初めは南下する気はなかったろう。しかし、対米戦争を始めるにあたって、なんとしても石油や鉱物資源の確保をしなければならない。石炭や食料は満州でも確保できたが、戦争に必要な米、天然ゴム、錫はベトナムにあり、インドネシアまで南下すれば石油も確保できる。

 

 

 

アメリカはどう考えただろう。開戦前は、日本はアメリカから石油を90パーセント以上も輸入していたのである。ABCD包囲網があるので、日本は油を手に入れることができない。そうすれば、戦争を短期で終結できるはずだった。ところが、日本が南下して油を手に入れてしまえば、戦争が長期化する可能性がある。そこで、シナリオを変え、日本が戦争を早急に仕掛けるための「追い詰め」政策に転じた。

 

 

 

中国との戦争が泥沼化する一方で、日本がアメリカと戦争を始めるとは、なんという無節操かと後世の人は考えるが、その頃の日本は、ネズミが、既得権である満州を守りながら、猫によって壁ぎわまで追い詰められたような状態だった。もちろん、猫がルーズベルトであり、ネズミが日本となる。東条に残された道は、「窮鼠猫を噛む」手段しかなかったのだ。ただし、情報戦で敗れていなかったとしたらだが。

 

 

 

司馬遼太郎が「余談」として「太平洋戦争の開戦」についてこう述べている。

 

「著者は太平洋戦争の開戦にいたる日本の政治的指導層の愚劣さをいささかもゆるす気になれないのだが、それにしても東京裁判においてインド代表の判事パル氏がいったように、アメリカ人があそこまで日本を締め上げ、窮地においこんでしまえば、武器なき小国といえども起ちあがったであろうと言った言葉は、歴史に対するふかい英知と洞察力がこめられているとおもっている。アメリカのこの時期のむごさは、たとえば相手が日本でなく、ヨーロッパのどこかの白人国であったとすれば、その外交攻略はたとえ同じでも、嗜虐的(サディスティック)なにおいだけはなかったにちがいない。文明社会に頭をもたべてきた黄色人種たちの小面憎らしさというものは、白人国家の側からみなければわからないもんであるにちがいない。」

 

 

 

日本の歴史上で、奇襲戦の例となるのは、織田信長が4千人で、2万とも4万とも言われる今川義元に奇襲攻撃をかけ成功した例だろう(桶狭間の戦い)。また、源義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲し成功している。当然のことながら、どちらも、事前に敵に情報は伝わることはなかった。大本営の参謀本部は当然のことながら、奇襲作戦に一縷の望みをかけた。

 

 

 

ところが、こともあろうに駐米野村大使と外務省の間の通信は、ほとんど傍受され解読されていたようだ。したがって、ルーズベルトにとって、日本が真珠湾を攻撃せざるをえなくなるまで追い詰めるのは、たやすかったであろう。真珠湾以前に、実は日本は情報戦で敗れていたことになる。しかも、真珠湾攻撃に関しても、ルーズベルトは、事前に情報を入手していた。

 

 

 

おそらく、東条の頭にあったのは、真珠湾攻撃が成功すれば、アメリカの政策を変化させ、和平案まで持ち込めるかもしれない。もし、それがだめでも、南方から油を輸入することができれば、戦局を挽回できる可能性があると考えていたのだろう。東条も、アメリカについて、まったく知識がなかったわけではなかった。アメリカ民主主義では、戦争開始の決議は、大統領の決断のみならず、議会の承認を得なければならず、時間もかかるはずだと信じていたふしがある。ところが、ルーズベルトは、議会の権限を奪って、真珠湾攻撃に対して即座に対応している。それほど、あらかじめ周到に準備されていた。

 

 

 

一方、「敵をあざむくには、まず味方から」という諺どおり、ルーズベルトは、真珠湾攻撃を事前に予知できたにもかかわらず、真珠湾の二人の司令官である、キンメル提督とショート将軍の二人は、真珠湾攻撃に関して全く知らせなかった。いわゆる、対日戦争のためのスケープゴートにしたのである。

 

 

 

なぜなら、「対日戦争」、「対独戦争」への参入のため真珠湾が爆撃されることが、どうしても必要だったからである。すべてがルーズベルトの思惑どおりに事は進んだ、アメリカ国民が一丸となって「リメンバー・パールハーバー」のスローガンのもと、対日戦争へ火を点け、さらに対独参戦へとつながっていった。

 

 

 

米国民に対しても、ハル・ノートという最後通牒を突き付けた事実を隠し、平和交渉が続いていたのに、真珠湾が攻撃されたと演説したのである(事実は日本に最後通牒をつきつけていた)。

 

 

 

3.仮定その一、真珠湾攻撃を行わなかったとしたら 

 

さて、本質論に入るまえに、まず、一つの仮定を設定してみよう。たとえば、あなたが東条の立場にたち、真珠湾攻撃にゴーサインを出さなかったとしたらどうだろう。追いつめられた東条はルーズベルトの思惑どおり、真珠湾攻撃を実施せざるをえなかったわけだが、もし、真珠湾攻撃を行わないという選択肢を取ったとしたら、どうだろう。

 

 

 

ドイツはアメリカ駆逐艦によるドイツ潜水艦へ攻撃の挑発にのらなかった。乗れば、アメリカがヨーロッパ戦線に参戦してくるからだ。ところが、日本の場合、ルーズベルトの筋書き通りに真珠湾攻撃を行ってしまったのである。

 

 

 

日本嫌いで知られるスティムソン陸軍長官の発言にこうある。

 

「日本に最初に発砲するのを許すことにリスクがあるとはいえ、アメリカ国民の全面的な支持を得るには、誰の目にもどちらが侵略者なのか疑いの余地を残さずはっきりさせるために、それをするのが間違いなく日本であるようにするのが望ましいことにわれわれは気が付いた。」

 

 

 

ただ、日本の場合、真珠湾攻撃を行わなかったことが直ちに平和に結びついたかというと、その点は、疑問がある。当時のルーズベルト大統領の本心は、とにかく日本を戦争に引きずりこむことだった。引きずりこまなければ、対独戦争へと進むことができないからだ。したがって、真珠湾が攻撃されない場合、おそらく、第二段階、第三段階の日本包囲網を敷いて、さらに日本を追い詰めた可能性が高い。

 

 

 

仮に、アメリカの要求したことを実行するとなると、日本は、まず日中戦争を停戦に導き、満州からの撤兵を始めなければならない。中国との戦闘で数十万の戦死戦傷者をだし数百億円の国費を費やしたことが、まったくの無駄になってしまう。さらに満州国に対して、日本は約百億(現在の数百兆円)ちかく投資を行ってきた。多大な投資を行い、インフラに膨大な資産をつぎ込んできた。駐留している軍隊がいなくなれば、満州に住んでいた2百万人の邦人はどうなるのだろうか。その見返りもなしに満州を去るとすれば、混乱が起こることは必須。さらに満州にいた関東軍が大本営からの撤退の指示を受け入れたかと言うと、おそらく拒絶したであろう。満州国という利権を手放すわけがないので、大本営と離れて独立独歩の道を歩んだかもしれない。

 

 

 

満州国だけではない。国内でも暴動や内戦、革命が起きかねない。日清戦争と日露戦争で十一万人とも言われる戦死者をだし、日露戦争でからくも勝利するが、賠償金がとれなかったことで、民衆による「日比谷焼きうち事件」があった。米の要求に従順にしたがう弱腰姿勢に、民衆の不満が爆発し、同じような暴動が起きないわけがない。さらに、二・に六事件のような、クーデターが起きることは確かだ。

 

 

 

さて、日本国内で内乱が起きて、分裂状態にあるとしたら、おそらく冷徹なルーズベルトは、B案である、三国同盟からの脱退、C案では、例えば朝鮮半島からの撤収などの無理難題を日本に押し付けて来た可能性が高い。ようするに、豊臣軍が、一時休戦中に家康に大阪城のお堀を埋めさせられたように、この頃になって、戦おうにも、油を枯渇した悲惨な状況下まで追いつめられてしまったかもしれない。

 

 

 

事実、開戦前の外交交渉では、アメリカは松岡外相が結んだ三国同盟から日本が撤退することを要求してくる。アメリカの要求に耐えられなくなれば、やがて反乱軍がたちあがり、真珠湾と同じ構図に進んだ可能性がある。あるいは、クーデターを後押しして、軍備を与え、アフガニスタンのような内戦国家になった可能性もある。最悪の場合は、シリアのように分裂した戦いになった可能性も否定できない。こう考えると、アメリカの要求を受け入れたとしても、平和ではありえなかったろう。

 

 

 

4.仮定その二、天皇が東条を首相に指名しなかったら

 

東条は、頭の切れる軍事官僚ではあったが、少なくとも首相の器ではなかった。近衛の後継首相には、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)の名があがっていた。統帥権を考えると、皇族が、軍と政府をまとめるのに都合が良かったことになる。しかし、この国家の危機、難局を切り抜けるに、皇族がいったいどれだけの役割を果たすことができただろう。軍部の傀儡となる可能性が高い。

 

 

 

結局、木戸幸一が推したのは東条だった。少なくとも、国を分裂させず、軍部をまとめられる人物は、東条以外は考えられなかったからだろう。それは、天皇自身もそう思っていたふしがある。東条は、天皇崇拝者であり、天皇の意向を忠実に実行できる人物だと思われていたからである。

 

 

 

そんなことは、なかったはずだ。海軍にも世界情勢に通じたふさわしい軍人官僚がいたはずではないかと思われるかもしれない。その可能性は否定しない。むしろ、世界的視野から対米戦争に反対し、満州からの全面撤退を考えていたのは海軍だったと言ってもよい。鋼鉄は、アメリカの生産量は日本の十倍であり、造船能力も四倍という差があることを周知していた。「半歳か一年なら大いに暴れて見せるが、その後は保証ができない」と山本五十六も言っている。初戦で勝つ可能性はある。短期決戦で臨めば、戦局が変化する可能性が高い。しかし、長期戦になった場合は、弾薬、軍艦、油とも不足することは目に見えていると考えていた。だが、御存じのとおり、海軍は、本質的に海の人間である。軍部内での権力構造を構築することや人事の布石は、陸軍の方が一日の長があったと考えるべきだろう。結局、陸軍の主流派に強引に押し切られていくことになる。

 

 

 

こうして考えてみると、天皇の手元にあった首相に任命できるカード、つまりオプションは非常に限られていたとみることができる。開戦後は、東条を首相に任命したことに、後悔した面もあったかもしれないが、当時の状況を考えると、ギリギリの選択であったのかもしれない。日本国民の性格として、人物に能力があるかどうかよりも、状況にあった皆をまとめられそうな人物を選ぶ傾向性があるのは、「ムラ社会」の遺物かもしれない。

 

 

 

こう考えてみると、上記のような状況で、あなたならどういった戦争判断をくだせただろうか?世界的な風潮では、東条とヒトラーを同じような独裁者と重ね合わせている傾向性がある。独裁者とはあまりにも、おこがましい。私には、むしろ、融通の利かない軍人官僚のイメージしかわいてこない。しかも、国際性は、まったくと言っていいほどない。おそらく、地図上や演習上という限られた中では、戦略を立てられる実務家であろうが、周囲状況に合わせて臨機応変な策をたてられる人物ではなかったようだ。だからこそ、ルーズベルトが敷いたとおりのレールの上を走ってしまった、愚かな軍人官僚にしか見えてこない。

 

 

 

5.ルーズベルトの性格

 

それでは、ルーズベルトの性格はどうだったのだろう。ハミルトン・フィッシュの書いた「ルーズベルトの開戦責任」から抜粋してみよう。

 

1)彼は歴史に全く興味を示さなかった。歴史書をほとんど読んでいない。

 

2)彼には知力が欠けていた。深い思考ができなかった。それが必要な場面では、口先だけの、気がきいていると思わせる演説で切り抜けた。彼には、地方都市のボス連中を政治力で懐柔する能力があった。もともと彼はその能力で出世してきた政治家であった。

 

3)彼は行政能力に欠けていた。また彼の立場を利用する親族の(非倫理的)行動にも寛容であった、いやむしろ無神経であったというほうが正確だろう。彼の信じる国益のためであれば、事実の隠ぺいは致し方がないと決め、そのことが正しいか正しくないかなどと悩むことはなかった。

 

4)彼は議会の権限を奪った。予算編成、開戦権限は議会にあった。それを簒奪したのである。ルーズベルト第三期政権は議会から多くの権限を奪っていた。開戦の決定には国民投票が必要であるとの法案をだしたが、必死で抑え込んで否決に持っていた。

 

そのことで、ルーズベルトは、自分でなんでもできると勘違いしてしまった。議会を超越し、司法をコントロールし、国民の上に存在する人物になったと思い込んだ。権力を自らに集中させた。

 

5)「ルーズベルトは、戦争は嫌いだと何度も繰り返した。しかし本音は戦争をしたくて仕方がなかった。(前例のない)三期目の大統領職を確実なものにしたかったから嫌いだと述べたに過ぎない。大統領を三期も務めることは、ルーズベルトにとっては最高の栄誉であり、それをなんとしてでも実現したいとする野心があった。結局、三選を成功させたことで彼の虚栄心は満たされた」

 

 

 

こうして、ルーズベルトに関しての文章を読む限り、とても正義感にあふれた大統領とは思えず、ひたすら、国民をだまして、戦争へと引きずり込み、若者を戦場に送り込もうと画策している稀代の陰謀家の様相を呈している。

 

 

 

6.終戦への道

 

最近、NHKドラマで、薬師丸ひろ子&香川照之が主演した「百合子さんの絵本~陸軍武官・小野寺夫婦の戦争」があった。

 

 

 

昭和16年 大戦中にスウェーデンに駐在し、「諜報の天才」と称された陸軍武官の夫・小野寺信と、情報収集を行う。極秘にヤルタ会談の密約の内容を入手し、ソ連が日本に対しドイツ敗戦の3カ月後に参戦するという情報を参謀本部へ送り続ける。ところが、日本はソ連と中立条約を結んでおり、敗戦色の濃くなるなかでソ連を介して米英と和平工作を図ろうという動きがあった。日本政府はすでに数か月前からソビエト政府を通じて降伏の動きを見せていたが、スターリンはそのことを利己的な動機から隠していたのである。

 

 

 

確かに、暗号を受け取った事態で、大本営が和平工作を始めていれば、戦争による犠牲を少なくできたかもしれない。しかし、仲介の労をとってくれる国はどこにあったのだろう。ヤルタ会談は、ソ連のスターリン、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチルら連合国首脳による会談でひそかに交わされたものだ。ヤルタ会談で密約を結んでいる以上、イギリスが仲介するとは、思えない。

 

 

 

その後、ルーズベルトは病死。引き継いだトルーマン大統領については、NHKスペシャル

 

「決断なき原爆投下―米大統領 71年目の真実」の中で述べられていることだが、軍の推進者はグローブス准将の主導で、大統領の決断のないまま投下を行った。

 

 

 

グローブス准将が原爆を投下した理由は、「原爆を落とさずに終戦になれば、秘密裡にプルトニウム製造に多額の予算を使い込んだ政府が憲法違反で有罪になったはず、プルトニウム爆弾を落として戦争終結に貢献したと証明する必要があった」と言う。急いで原爆を投下しないと、マンハッタン計画に22億ドルを投じた責任を追及される恐れがあったからだと言われている。

 

 

 

大統領は何もしらずに、原爆投下の決断のないまま、原爆投下を指示していたことになる。ヤルタ会談の密約通り、原爆投下後、ソビエトは満州、大連、旅順にまで侵攻し、(日本の領土である)千島列島や南樺太まで領有した。

 

 

 

さらに、戦後に設立が構想されていた国際連合ではソビエトは三つの票を持つこと、ドイツの戦争捕虜を戦争終了後も使役することも了解されていた。それを拡大解釈し、満州に攻め込んだソ連兵は多数の日本人捕虜を捕まえ、シベリア収容所に送り込み、使役することになった。

 

 

 

ヤルタ会談で、ルーズベルトが死亡しなければ、世界は四大強国によってそれぞれの勢力下に分割されることが決まっていたそうだ。

 

「中国は極東地域を、アメリカが太平洋地域を取り、イギリスとロシアがヨーロッパとアフリカを分割する。英国が世界に植民地を確保していることに鑑みると、ロシアがヨーロッパのほとんどを勢力下におくことになろう」

 

こうしてみると、ルーズベルトに、そこまで譲歩させた、スターリンの方が一枚上手の策謀家であるようだ。

 

 

 

7.戦争が起こる要因

 

こうして、アメリカ側のルーズベルト大統領、日本側の東条英機というそれぞれの国のリーダーをみてみると、お互いに相手国を理解しようとしない、愚かなリーダーに率いられたことは間違いない。東条英機は、国際情勢をまったく理解しない井の中の蛙的な指導者であったし、ルーズベルトも、スチムソン陸軍長官という日本嫌いの側近に引きずられ、冷酷で狡猾に日本を戦争に引きずり込むための布石を敷いていった。

 

 

 

最近、ジョン・G・ストウシンガー著の「なぜ国々は戦争をするのか」という本を読み終えた。第二次世界大戦は残念ながら、具体例としてとりあげられていなかったが、第一次大戦、ベトナム戦争などの実例をあげながら、全編を通じて、一貫した結論を述べていた。

 

 

 

それは、一人の指導者の個性、すなわち相手国をどう思っているかが、問題となる。「相手国を誤った評価をしていれば、戦争勃発になるし、相手国をよく理解していれば、平和が維持できることになる。要するに、あらゆる戦争の直前には少なくとも一つの国家がもう一方の国家に誤った評価を下していることに起因する。その意味では、あらゆる戦争の開始は事故である。戦争そのものが徐々にそして痛ましいことに交戦者相互の真の力を明らかにしていく」と述べている。

 

 

 

下記に、その本の結論を抜粋、要約してみよう。

 

1)指導者はみな、短期の輝かしい戦いの後で勝利を得られると確信している。勝利を疑う者は国家の敵であるから受け入れられない。繰り返し現れるこの楽観主義は、人間の皮肉な愚かさの事例として、歴史家に軽く見過ごされてはならない。それは、独特の強力な感情的瞬間を作り出し、それゆえにそれ自体が戦争の一因となる。

 

2)敵に対する歪んだ認識も紛争の誘発を促進する。

 

3)戦争がさしせまっている時に指導者が、敵対国は自分を攻撃すると確信している場合、戦争になる公算はかなり高い。もし敵対国双方の指導者たちがお互いの意図に関してこうした考えを持っているとすれば、戦争はほぼ確実に起きる。

 

4)指導者が敵対者の力を誤解することは、おそらく戦争のもっとも本質的な原因である。しかしながら、現実の力の配分が問題なのではなく、指導者がどのように力が配分されていると考えているかが重大だということを忘れてはならない。国々が考える力の配分に関する同意が得られないときに戦争は始まるのである。

 

 

 

実は、戦争が始まる前に、アメリカ合衆国では、低賃金でも文句を言わず良く働く日本は低所得の白人の職を奪うようになった。それが社会問題化し、1924年に排日移民法などが制定されたのである。そういった対日感情も、日本に対する無理解、嫌悪感の一因となっていったようだ。日本の文化を伝えないと、異国で、こういった軋轢を生む原因となることが多い

 

 

 

8.組織的要因と国の衰微

 

戦争が起きるのは、国の指導者の相手国への無理解があるだけではなく、組織的な疲弊も考えられるだろう。たとえば、指導者の相手国への無理解が縦軸だとすると、国の衰微は横軸のように働いていく。

 

 

 

最近新刊された本に、金田信一郎著の「失敗の研究(巨大組織が崩れるとき)」がある。

 

巨大組織が膨張期、巨体維持期へ移行するなかで、6つの病、肥満化、迷宮化、官僚化、ムラ化、独善化、恐竜化に陥るとされている。日本の大企業である、理研、マクドナルド、代ゼミ、ベネッセ、東洋ゴム、ロッテなどを例にしながら、それぞれの大企業の失敗の要因を分析している。

 

 

 

その頃の軍部をその公式にあてはめるならば、シベリア派兵で満州という権益を手にした軍部の力は、「富国強兵」のもと、やがて肥満化していく。その肥満化はやがて、軍人官僚という、「軍人にあらずんば、国を守れず」という特権階級をうみだす。有能な政治家や外交官が出現しても、活躍できる場は制限され、軍国主義化への防波堤とはならなかった。やがて、軍人という集団のみの「ムラ化」が始まり、独善となり関東軍のように暴走していく。

 

そういう組織では、考える個人は嫌われる。服従のみの組織が出来上がり、やがて、既得権益体質が出来上がるとともに、変化を嫌う「迷宮化」になり、どんな変化にも対応できない「恐竜化」に変容する。

 

 

 

東条が首相に任命された頃は、間違いなく「恐竜化」の時代を迎えていたようだ。それに、しても、何故アメリカが最後通牒とも言える「ハル・ノート」を提示してきたのか、極東軍事裁判に被告として出席するまで、東条は理解できていたのだろうか?その原因が、ルーズベルトの陰謀にあったことなどの背景を最後まで理解が及ぶことばなかったのだろう。しかし、自分自身で、状況にあわせた、最良の判断をしてきたという奇妙な自信はあったかもしれない。

 

 

 

こう考えると、指導者の交戦国に対する無理解、そして軍事組織が、肥満化し、恐竜化としていったという二重の要素が、日本を戦争へと突き進ませる要因となったことがわかる。

 

 

 

9.現代でも起きている日本人的な性癖

 

中国の有名な文学者、魯迅から内山氏への手紙を、一部、引用してみよう。

 

 

 

「日本人の短所は僕は言わない。僕は日本人の長所をかんがえたよ、日本人の長所は何事によらず一つの事に対して文字通りの生命がけでやるアノ真面目サであると思うネー。」

 

 

 

魯迅は、日本に留学したこともあるので、日本人の気質については、知悉していた。魯迅が言わなかった短所はなんだったのだろうか?それは、大局的な視点がなかった点をついているのだろう。中国人には、生来の天人合一思想があるが、この思想は、儒教の根幹とも言うべきものだろう。為政者の命令に従っても、個人的には天の啓示に従うべきだ。この思想が、中国人にある。 それが、有名な「国に政策あれば、民に対策あり」という考え方につながっていく。

 

 

 

ところが、どうも日本にも儒教が中国から伝わったのだが、その根本思想がないまま伝わり、朱子学などという、為政者にとって都合の良い改良された儒教に変化してしまったようだ。

 

 

 

結局、魯迅の言った「生命がけでやるアノ真面目さ」とは、大局観のないまま、命じられたままに、突き進む日本人の性癖、欠点をよく言い表しているのだろう。無思想、無宗教の側面が、成功すれば、良い方向へと進むことができるが、失敗すれば、方向転換をもできない難局にと導かれてしまう。戦時中で言えば、アッツ島玉砕、硫黄島玉砕となり、特攻を生み出し、回天へとつながっていった。

 

 

 

さらに、信じられないことには、終戦まで、満州に開拓民を送り込んでいる。戦線拡大による食料の増産のため、さらに満州に送り出すことが必要だったとしても、戦局は、敗戦へと転げるように変化していたのに、政策を変更することができなかった。

 

 

 

身近な例をとると、同じようなことは近年でもあった。諫早湾干拓事業などは、その一例だろう。原子力事業や高速増殖炉もその一端。日本の官僚が作った政策は、一度走り出したものは、後戻りや変更を許さない。なぜか、それまで投資してきたことの責任が問われることになるからだ。その点では、マンハッタン計画のため巨額な投資をして、原爆を使用しないのでは、責任が追及されかねないと原爆投下を指示したアメリカとなんら変わることはない。

 

 

 

9.結論

 

第二次世界大戦では、では日本はどうするべきだったのだろうか。

 

圧倒的な兵器、兵力、後方支援ができるアメリカに対して、小国、日本の生き延びる方策はあったのだろうか?

 

 

 

和田竜著の「のぼうの城」では、石田三成率いる秀吉軍約二万に対して、「忍城」は五百で対抗している。城代の成田長親は、「のぼう様」と呼ばれ、領民の人心を把握し、武士という特権階級を保たず、庶民に溶け込み、領民から慕われていた。「忍城」は、難攻不落、大軍でもって攻めても落ちず、水攻めまで行い、やっと和議を結び、開城までこぎつける。秀吉軍は、和議の条件として、一日以内に武士、百姓、町人が城を退去すること、百姓は、村へ戻り、逃散(逃げ出す)せぬこと。武士は所領を去ることともに、城の一切の兵糧、財貨、武器を置いて去ることを命令する。それに対して、長親は城の財の持ち出しを禁ずるなら、武士、領民とも飢えるしかない、再び、城内で戦って死にたいという。その言葉に折れて、所領の財は持ち出しできると撤回する。さらに、長親は敗軍の将なのに、要求条件をだす。百姓が田植えをするために、戦で堤防をつくるために、まき散らした土俵をかたづけよ、さらに降伏して投降した領民の百姓を斬った者の、首をはねよと。

 

 

 

日本列島は細長い島国であるため、忍城のように難攻不落とはいかないが、読んでみると、この長親のたくみな外交術に、圧倒される。しかも、戦略としての外交ではない、領民という視点からの外交であるがゆえに、三成も受け入れざるを得なかった。極東裁判では、東条も反論を述べたが、市民の視点からの反論にはほど遠かったように思う。恐竜化した社会では、情報があふれても、すでにその情報を取捨選択する機能は失われている。何が正しく、何が正しい情報でないか判断するのが難しいのである。だから、大本営は、市民の視点よりは、ひたすら軍事戦略のみ重要視してきた。

 

 

 

最近、発刊された本に森岡毅著に「USJを劇的に変えた、たった一つの考え方」という本があるという。どういう内容の本なのか、まだ読んでいないので恐縮だが、どうしてUSJがあそこまで、成功したのか原因を書き記しているらしい。その本の紹介記事があったので、ここにとりあげてみる。

 

 

 

「消費者という価値観と仕組みにUSJを変えたこと。もっとわかりやすく言えば、『消費者の方を向いて消費者のために働け』だ、商品やサービス供給側の目線は徐々に消費者の感動水準と離れていく傾向にあるという、結果、玄人好みのばくちのようなビジネスになる、ここから脱することが、再生の一歩だった。『会社のお金の使い道や従業員たちのあらゆる努力を、消費者にとって意味のある価値に繋がるようにシフトさせること』」

 

 

 

この紹介記事は、そのまま国民に置き換えることができるのではなかろうか。この言葉をそのまま借りるなら、次のようになるだろう。

 

 

 

『国民の方を向いて国民のために働け』だ、政府や官僚の目線は徐々に国民の目線と離れていく傾向にあるという、結果、玄人好みのばくちのような政策になる、ここから脱することが、再生の一歩だった。『政府のお金の使い道や官僚のあらゆる努力を、国民にとって意味のある価値に繋がるようにシフトさせること』

 

 

 

どうやったら、よりよい社会をつくれるのかというヒントは、ここにあるのではないだろうか。やはり情報公開、情報共有化を進め、間違ったら、国民目線で方向転換できる社会、組織を作っていけるかどうかにかかっている。

 

 

 

それでは、私たちは日常でどんな活動をすべきだろう。単に平和、平和という題目を唱えていることで、平和はやってくるのだろうか。私たち、国民には、国民で平和のためにできることがあるような気がする。私たちが常日頃心がけることとして、下記にあげてみた。

 

 

 

1)国際協力や文化交流を決して無駄だと考えてはいけない。積極的に関心を持ち推し進める必要がある。こういった文化交流がなければ、他民族に対しての理解は生まれない。無理解は、あなた自身がルーズベルトや東条と同じ人間になっていくことになる。孤立した地域は「ムラ」化し、国際社会からとりのこされ、地方を興隆することも不可能になる。しかも、労働人口の減少は、間違いなくそこまできている。日本社会が古くからある伝統や文化を保存しながら、他国の人とも協調する必要とする社会は、すぐそこまできているのだ

 

2)選挙に関心をもち、政治参加をこころがける。国が、政党が、巨大組織が陥る6つの病(肥満化、迷宮化、官僚化、ムラ化、独善化、恐竜化)の段階のどの段階にいるのか、また、6つの病に陥らせないためには、選挙で誰に投票していくべきか考えて投票するべきだ。政治への無関心は、政権の肥満化、迷宮化、官僚化、ムラ化、独善化、恐竜化を促進することになることを、肝に銘じなければならない。

 

3)相撲でモンゴル人の力士が多くなってきているが、偏狭な島国根性や愛国主義は持たずに、強い力士には惜しみない称賛を送れるような、社会になってほしい。アメリカにはアメリカンドリームがあって、夢のある社会となった。日本でも、ジャパンドリームが外国人に描けるような社会を作り上げることが、「ムラ化」を阻止することになる。日本が理想社会になることで、中国および近隣諸国との関係改善へつなげることもできる。

 

4)アメリカ発祥の民主主義は、日本の社会に根づきつつあるが、完璧なものと考えることは大変危険だ。なぜなら、民主主義という旗印のもとに、戦争が起き、現代の戦争が続いている。アメリカの民主主義は、人民のための政治といいながら、常に隣人に銃口をむけた戦いであったと言ってよい。それは、キリスト教の布教とともに、植民地主義がはびこったようなものだ。日本は、武器のない社会だったので、比較的民主主義が根づきやすかったといってよい。そのかわり、討議の少ない、根回しと、多数決だけで決まる民主主義がはびこってしまった。少数意見も反映されるような、新しい形の民主主義がそろそろでてきても良いのではなかろうか。

 

5)文化や情報発信を心がけること。まず、必要なのは日本からの文化の発信。国際交流事業をしていて思うことだが、外国人との文化紹介で典型的にでてくるのは、お茶と、折り紙だった。日本の文化は、もっと多様性にあふれているのではないか。祭り囃子、各地方に伝わる踊り、里山など、まだたくさんのものがある。そういった日本の文化を、どうやったら外国人に伝わるのか、考えてほしい。たとえば、茶の湯は、作法によって、茶を飲むのだが、外国人からでる質問として、なぜ、このような複雑な作法を経て飲まなければならないのか、とダイレクトな疑問をつきつけられる。前もって、答えを用意しておかないと、うまく説明できないものだ。すでにそういう動きは様々な分野である。英語の歌舞伎・狂言、英語による落語、日本の歌を英語の歌詞に変えてみるなど。個人的にはそういった海外公演や異国での文化活動に、政府からなんらかの積極的な資金援助があってもよいのではないかと思っている。

 

 

 

「戦争は人間の心の発明したものである。その人間の心は平和を発明することもできる。」とは、ノーマン・カズンズ博士の言葉である。平和のために私たち一人一人が、何ができるのか、熟慮する必要がある。昨今、保守的な国の指導者が現れてきているように思う。愛国であることは、避難されるべきものではないのだが、だから他国を嫌い、他国の文化を、歴史を見下すような指導者が現れるのは、戦争への第一歩であるととらえるべきだ。

 

 

 

国民にとってよりよい社会をめざすには、既得権益や特権階級をなくす努力を継続し、常に国民の視点で、既得権益や官僚に振り回されることなく、政策が国民にとって本当に良いものなのかどうか判断し、状況の変化とともに、政策が化石化することなく、政策を思い切って、ダイナミックに方向転換できる国をめざしたいものだ。

 

 

 

結論となるが、他国の人や文化を理解し、自分や自分の文化を伝えようとする活動は、結局のところ、自分と他人を分けへだたりなく、つきあうということになるだろう。逆説的にいうなら、同国人とのつきあいができない人が、他国の人とつきあうことがうまくなるとは、なかなか思えない。他国の人との交流も、結局は自分と他人、人間と人間との交流にゆきつくのかもしれない。

 

 

 

参考文献:

 

日本の戦争 田原総一郎著

 

ルーズベルトの開戦責任 ハミルトン・フィッシュ著

 

ルーズベルトの責任 チャールズ・A・ビーアド著

 

 

2016年7月20日 (水)

関門トンネルを歩く

「関門トンネルを徒歩で渡ろう」というと、びっくりなさる方も多い。実は、無料で、九州から本州へ地下トンネルを歩いて渡ることができるのだ。残念ながら、自転車は無料とは、ならない。

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JRの門司港駅から、レトロ海峡プラザを抜けて、ノーフォーク広場を左に見て40分ほど歩くと、最初に見えてくるのは、関門橋の下にある和布刈神社。石灯籠がでむかえ、傍に海への階段とともに、ふるめかしいコンクリート製の鳥居が建っている。

関門トンネル人道入口と書いてある建物に入ると、海面下51メートルへとエレベーターで降りてゆく。距離は780m、徒歩15分で下関に到着する。

縦坑は全部で6つもある。関門海峡をはさんで両側に、自動車道路用の縦坑(換気Kimg0657_r


口)が二つ、水をくみ出す縦坑が二つ、さらに人道入口が二つ。

33年開通。一日4800トンもの海水が染み出てきて、排水ポンプで染み出た海水をくみ出しているという。トンネルは二重構造となっており、上段が自動車道、その下に人道がある。しかしながら、自動車の走る騒音はほとんど聞こえてこない。





Kimg0658_r_2薄青色のペンキで塗られた隧道をあるいていくと、途中で、床に白線が引いてあり、福岡県、山口県と書いてある。トンネル中に県境があることになる。

下関側でエレベーターに乗って地上にでると、そこが、みもすそ川公園となっており、関門航路にむけて、5〜6機の大砲が並んでいる。「みもすそ」の由来は後述する。

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18635月から6月にかけて、長州藩が関門海峡を通る外国船を五回にわたって砲撃した。長州砲(八十斤加農砲)と呼ばれるらしい。砲撃の白煙を模した水蒸気のようなものが、砲身から時折、出る。あの頃の砲は、爆裂弾ではなかったろう。投石器に火薬が追加したくらいと考えてよいかもしれない。おそらく、弾道計算のなかった時代では、落下地点は、およそでしか予測できず、非常に命中精度が悪かったのではなかろうか。それでも、当たれば船を沈められたかもしれず、やがて連合軍が報復にやってきて、完膚なきまでに砲台は壊されることになる。

さて、火の山展望台へと向かうが、あいにくとロープウェイは台風で故障したとのことで、運休となっていた。しかたなく、タクシーで火の山パークウエイから展望台へとたどりつく。

展望台からは、関門海峡が一望できる。15分ほど展望を堪能し、待たせてあったタクシーに乗り込み、下山する。

海峡沿いを歩いていく。この海峡は国際航路となっているため、大型船舶が頻繁に行き交う。さらに海流の問題もある。一日に四回も流れをかえて、さらに潮流の速度は約10ノットにもなる。両岸の幅は700メートルあまりしかない、しかも連絡船が頻繁に航路を縦に横切り、しかも釣り船も多く点在する。海峡の形はS字カーブとなっているため、カーブ先の船の動きが見えにくい。春と秋には、午前中5〜6時間ほど霧がかかることもあり、視界が悪くなることもある。もちろん、霧がかかれば通行はストップとなり、車の渋滞ならぬ船舶の渋滞となる。海上保安庁やポートラジオが様々な対策をとるが、海峡を通る船にとって操船はとてつもなく難しい。大型船の場合は、操船案内をするパイロットの出番である。パイロットは海峡の潮の流れや、交通状況を知り尽くし、的確な運航指示を乗船している船に与える。海峡の交通信号にあたる交通管制は、関門マーティスと呼ばれる海上保安庁が、信号やレーダー、VHFを使いながら行っているが、おそらく過密スケジュール時には、羽田空港なみの管制が要求されることもあるのではなかろうか。その過激さが予想できる。

 

乗って来た船は6000トン級の船だが、港に係留していても、潮流のせいだろう、ゆっくり揺れる。普通、港に停泊していて、暴風雨のとき以外は、静穏なところであれば船が揺れることはほとんどない。

 

下関がわでは、あまり釣り人は見ることがなかった。一方門司側では、船のまわりを散策していると、岸壁近辺には釣り人が多い。魚影が濃いからだろう。今は2月で寒い季節だからだろうか、小型発電機をまわしながら、灯を海面に照らしながら、イカ釣りしている人が目立った。

 

関門橋の下には、「安徳帝御入水之処」という石碑が建つ。二位尼の辞世が残されKimg0685_r


ている。

「今ぞ知り、みもすそ川の御なかれ 波の下にもみやこありしは(確認要)」。1185年、壇ノ浦合戦で敗れた平家は追い詰められ、二位の尼は、八歳の安徳天皇を抱いて入水したという。現代の親子心中が昔からあったのかと言うなかれ、敗れた平家側の運命が、どんなに苛酷なものか予測できたゆえの入水であったろう。その入水箇所が、海峡でもっとも幅の狭い関門橋付近だったことになる。みもすそ川公園の由来も、この辞世から来ているのだろう。

赤い鳥居と、子供の頃の浦島太郎の昔話の挿絵にでてくるような、白い門の上に赤い建物が見えてくる。安徳天皇を祭る神社として建てられた赤間神宮である。安徳天皇を祀ってある場所は菊の御門で閉められていて、入れないが、小泉八雲(ラフカディオハーン)の話にでてくる、耳なし抱一(確認)が琵琶をかなでている銅像がそばにあり、テープで平家盛衰をうたっている。確かに銅像に耳はついていない。平家を弔う塚もある。

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その隣が日清講和記念館。李鴻章、伊藤博文、陸奥宗光たちが座った椅子や調度品が残されている。

ここまでくると、唐戸市場も近い。唐戸市場では、ふぐの大きな置物が出迎えてくれる。中にはいると、ノドグロと呼ばれる魚の寿司、新鮮なたこ、ウニ、フグなどの寿司がところ狭しと並べられていて、客は用意されたプラスチック容器に好きな食材を乗せて、会計をすませ、立ち食いする。その新鮮な味のおいしいことといったら。瀬戸内海で採れた魚は、おいしいと聞いていたが、これほどとは思わなかった。やはり、来るなら冬なのだろう。新鮮さと、魚の身の引き締まりぐあいが、まったく異なる。夏場に瀬戸内に来て、魚がおいしいと思ったことはほとんどなかった。

 

なぜ、おいしいのかと、近辺を散策してみると、種明かしは、港のそばにある生けKimg0700_r


簀にあった。そこから必要な魚を水揚げして、調理するようだ。食材にもよるが、新鮮な寿司が一貫
100円から300円ほど。その他にも、サザエやアワビ、どんぶり、フグ雑炊、フグ汁などが売られている。外国からの観光客も多いのだろう、韓国語や中国語の客の話声が飛び交う。

帰りは、唐戸桟橋から、五分かかって、ボートに乗り、一路門司港にもどった。

巌流島を訪れて

あれは、もう何十年前のことだったろうか。関門海峡を走っている船の上から、「あれが巌流島だよ」と言われて、巌流島の実在を初めて知ることになった。ただ、船の上からでは、単なる砂州の広がりと後ろに広がる松林しか見えなかった。それでも、想像をめぐらせると、その砂浜のうえに立つ小次郎と、波打ち際に立つ武蔵の姿が想像できたものだ。

 

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その頃は、巌流島への連絡ボートもなかったし、砂浜と松林が観光地化で様変わりするとは思ってもいなかった。現在では、関門汽船がサービスを提供して、誰でもが巌流島へ渡れるようになった。さて、窓口で、一日フリー切符を買い、何時出発かを聞くと、門司レトロ地区から直接巌流島までのボートがあるのだが、あいにく出発したばかりで、下関から迂回する便ならあるという。ボートに乗り込み、下関の唐戸桟橋まで、
10分ほど、乗り続け、唐戸から、さらに10分ほどで巌流島についた。

 

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驚いたことに、昔砂浜だったところは、フローティングピアと呼ばれる浮桟橋ができ、中型客船用だろうか突堤が伸びている。さらに砂浜だったところは被覆石で覆われ昔の面影すらない。

 

島の広さは、明治から大正にかけて埋め立てられたので、現在では103,000平方メートルもの広さがあるが、決闘当時は、その六分の一である、17,000平方メートルしかなかったそうだ。東京ドームの三分の一、あるいは大きな美術館ほどの広さでしかなかったようだ。

 

宮本武蔵は実在の人物ではあるが、佐々木小次郎の方は、諸説があり、特定されていないため、その実在すら疑われていたこともある。島に上陸すると、鳥居のような鉄製のゲート、「ようこそ巌流島へ」と記してある看板に出会う。案内標識には、島の大きさと坂本龍馬と妻のおりょうが巌流島にわたり、花火をあげたという話が書かれてある。年表を見ると、吉田松陰、坂本龍馬、斎藤茂吉など島に渡った人たちの名が記されている。

 

島はさほど大きくないため、ほぼ30分で島全体を歩き回れる。まずは、巌流島文学碑。

村上元三作の「佐々木小次郎」の中の一説が、刻まれている。

「白い雲のわいている空に、小次郎の面影が見える。この後も絶えず兎禰の眼に浮かんで消えることのないであろう小次郎の生きている面影があった」

ただ、イラストは、変色してあまりはっきりしない。その碑のそばに、「武蔵・小次郎決闘の地 慶長十七年四月十三日(1612年)」という木造の塔が建っている。当時の島の広さは6分の一しかなかったため、ここが決闘の地であるとは言えないはずだが、目印としては役に立っているかもしれない。それならすべて遊歩道にせずに、当時の砂浜の面影も、一部で良いので残してほしかった。

 

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屏風岩のような長方形の岩に、「この島は二人降り立ち闘ひしむかしの男恋ほしかるかな」 という現代歌人協会会員の森重香代子の歌が刻まれている。

 

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分も歩き続けると、小高い丘の上に、武蔵と小次郎の像が建っている。岩国市の彫刻家・村重勝久氏が作ったものだという。彫刻は、二人の気迫がみごとに刻み付けられている、みごとな作品だ。

 

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像の下には、人工海浜がひろがり、そこには、武蔵が乗ってきたであろうと同じような構造の木造伝馬船が、朽ちていた。心憎い演出だ。

 

桟橋まで帰る途中で、佐々木巌流の碑がある。巌流島歴史絵巻によると、明治43(1910)1031日に島に建立されたと言われている。現在では、その頃と位置は異なっているにせよ、自然石なので、歴史の風味を感じさせる。

 

武蔵が櫂を削って木刀として、小次郎と闘ったについては、諸説あるとは思うが、私自身の推論を述べてみよう。闘う以前に、武蔵が約束の刻限に遅れ、鞘を海に捨てた小次郎に向かい、「小次郎敗れたり!」と叫ぶ場面があるが、そういった心理作戦は、あえてはぶき、長い刀と櫂の利点という側面からみてみたい。

 

まず、私たち素人というものは、剣の刃影の恐ろしさというものを案外知らない。仮に、凶人が長いカミソリを振り回して迫ってきたとしたら、私たちは通常の短いカミソリで防戦するとして、果たして無傷で防げるのだろうか。長い剣先が目の前に向かってくる脅威というのは、それに近いものだろう。

 

それだったら、剣道で行っているようにこちらも剣で立ち向かい、竹刀と竹刀をあわせるように、向かってくる刃にこちらの刃を合わせて、戦えば良いではないかと思うかもしれない。それは道理があるように思えるが、実用的ではない。居合道を経験した人なら、剣をあわせることの危険性を知っているとおもうが、剣の刃を合わせることには、かなりのリスクが伴う。

 

まず、鉄の刃と鉄の刃がぶつかり合うのである。どちらかの刃が折れたり、曲がったりする可能性は否定できない。刀が折れ、曲がった方は、武器が使えなくなると、防ぐこともかなわず、死を待つだけとなる。そういったリスクはできるだけ少なくしたい。 一度でも力まかせに刃合わせすれば、ほぼ間違いなく両方の剣は、刃こぼれする。刃合わせするたびに、刃こぼれするとなると、最後はノコギリ刃のようになりかねない。刀で人を斬るのではなく、ノコギリ刃で相手を切り刻むか、刀を槍として使うかという二者択一となる。

 

刀を槍のようにして、使うのも一理あるが、問題は、一撃で心臓を突けなかったらどうなるだろう。着いた瞬間に、筋肉は硬直し、突いた刀を抜くことが難しくなる。その間に、突かれた相手が、返し刀で、相撃ちをねらってきた場合、刃先から逃れることは、難しくなる。

 

ノコギリ刃にしても、槍のように使っても、修羅場となることは間違いない。やがては、どちらかの刀が折れるか、曲がって使い物にならなくなる可能性もある。仮に、両者とも試合後、生きていたとしても、両者ともあちこち傷だらけとなっていたことだろう。最後は、重い手傷を負った方が失血死で死ぬことになる。

 

次に、武道すべてとは言わないが、多くの武道では、「高い、長い」ことに利がある。たとえば、実力が五分に近い状態で、戦った場合、「長い」ほうが絶対的に有利に立つことが多い。ボクシングで、背が高く、腕のリーチが長い方が、有利となる。空手、柔道、相撲でも、やはり同じことが言えて、相手の身長が高く、リーチが長いとなると、それだけで格段に有利になる。腕のリーチが長いと、短い方はどうしても相手の懐に入って戦わなければ、相手にとどかない。しかし、相手の懐に入ろうとした瞬間、上から長いリーチの腕が伸びてきて、それがカウンターになって勝負が決まることが多い。

 

短いリーチの方は、相手の態勢をくずすための秘策をつくさないかぎり、正攻法では、勝ち目がない。相撲で使われる、猫だましのような奇手もあるが、奇襲攻撃みたいなもので、相手が研究し、予測していれば、効果はまったくなくなる。まして、小次郎は長身だったとされる。リーチが長くて長身であれば、懐に入り込むのは至難の業となる。

 

武蔵が、まず考え抜いたことは、長い刀がどういう弧を描いて、襲って来るかだろう。決闘が始まってから、剣を抜いたあとの行動である。上段に構えるか、下段から斜め横なぎにねらってくるか、はたまた、水平に横に払うか。

胴横からの攻撃は、あまり考えなくてもよいだろう。たとえ、横に払ったとしても、胴を斬ることは難しい。胴は斬って抜かなければ、ざっくりとは斬れない。長い刀で胴をぬくことは簡単ではない。とすれば、ねらってくるのは、肩から上となる。

 

長い刀を考慮すると、一度半身となり、一度上段に構えてから、状況に合わせ、自由に左右の袈裟斬り、はたまた胴切りへと転ずることも可能性がたかそうだ。というのは、下段や、初めから胴切りを目指すには、長刀は重く、スピードが遅くなる。

 

そう考えると、武蔵の考えたのは、日露戦争で秋山が考えたような、自分は無傷で、絶対に相手に勝てる戦略を立てなければならなかった。いわゆる、武蔵はほとんど手傷を負わず、小次郎にのみ致命傷を与えるものでなければならなかった。相手と同じ長刀を使って、リーチの差をなくするという手もあるが、長刀使いには、小次郎の方が有利だろう。そのために考え考え抜いた結論が、櫂を木刀とする究極の手段だった。

 

もし、武蔵が、その木刀で究極の一撃をはずしてしまえば、リーチの差で、小次郎に間違いなく体を真っ二つにされるだろう。そのためには、絶妙のタイミングで間合いに飛び込まなければならい。

 

武蔵が、頭脳をフルに回転してあみだした戦略が、櫂を使うことだった。剣と剣では、両者とも上段に構えるための剣を上にあげるスピードが同じになる。剣はかなりの重さがある。上段に速くあげるためには、相当の筋力が必要だ。

 

小次郎の場合は、武蔵の刀より長い分、いったん上段に構えてしまえば、振り下ろす速度は、格段に速く、リーチの差で武蔵の剣先が小次郎に届く前に、武蔵が切られてしまう。仮に、右からくる一の太刀を防いだとしても、すぐさま、左の返しが襲ってくるだろう。勝負は、小次郎が上段に構える前の段階だと、武蔵は考えた。

 

長い刀を上段に構えるためには、刀をつかんだ右手を支点として、左手で押しながら右に体を開かなければならない。普通の刀であれば、筋力さえあれば、右片手のみで支えて、両側から円を描くように上に持ってゆき、頭上で、両方の手で刀の柄を握ることも可能だが、長い刀では、不安定すぎる。

 

長い刀の場合、その重さゆえに、両手で柄をつかんだまま上段に構えなければならない。そのとき、左腕のかいながどうしても眼の前を横切る。その一瞬にすべてをかけたと考えるべきだろう。武蔵は、小次郎の視界が右手でさえぎられた瞬間、跳躍して間合いをつめ、上段に構えた櫂を振り下ろした。鉄の重い刀が右一旋回する速度より、鉄より軽い木製の櫂の方が、上段にたどりつくのに、スピードで勝り、小次郎は眉間をうちくだかれ、即死する。

 

試合で負けた小次郎だったが、その名を忍び、「船島(ふなしま)」と元来呼ばれていた島が、巌流島と呼ばれるようになった。さらに、対岸の下関側には、三菱造船所があるが、その南側には、小次郎の弟子たちが決闘の行方を見守っていたとして、弟子待町という名前があったと言われている。現在でも、彦島弟子侍東町という名が残っている。

 

巌流島を高いところから俯瞰したい方は、海峡メッセ下関・海峡ゆめタワーに上ると、全景が見えるそうだ。年表によると、昭和30年には、巌流島の住民がピーク時約30軒となったという。しかし、昭和48年には、島に残っていた最後の老人が島を去り、無人島となっている。漁業で生計を建てるにしても、おそらくは、水の確保をどうするかが最大の問題だったろう。当然のことながら、島には井戸がないため、雨水を天水として貯水するしか方法がなかったはずだ。住民が住んでいた18年にはどんな経緯、歴史があったのだろうか。

 

現在では、島で様々なイベントが開催されているようだ。海の新鮮な食材を提供している唐戸市場の近くでは、寸劇やマスコットキャラクターのイベントもあるという。韓国語や中国語が飛び交う、市場でうまい寿司やふく汁を食べたあとに、巌流島を除いてみてはいかがだろうか。

詩:村の子供は、今どこに

村の子供さ、どこさ行った

村の悪ガキどこ行った。

池で鮒釣り

田んぼに石投げ

巣から、雀の子をかっさらい

蛇を追いかけまわしては、石を投げ

畑のトマトやキュウリをもぎとり

食っていたガキどもは、どこさいるだ


河を泳ぎ回り、魚をとり

秋には、山を走り回り

栗、山ぶどう、アケビをとりあるく

盆には、灯篭ながしで村を練り歩いた

あの鼻たらしの子供はどこさいった


あのころは、多くの子供たちが村にいたもんだ

大きな校舎には1000人もの子供が走り回っていた

木造づくりの建物には

子供たちの思い出がつまっていた


その学校が町の合併や統合の名のもとに消えていく

廃校になって荒れ果てた

木造校舎には、思い出よりも

悲しみが多くなった


ハメルンの笛吹という話を思い出す

笛吹は村からネズミを追い払い

約束を破った村に怒った笛吹は、

その村から子供を取り上げた


この村の子供は

どんな笛吹に連れていかれたのか

都会というハメルンの音色に踊らされて

都会へ行ってしまったのか

夢破れたら、帰ってこい

ここには、おめえたちの故郷がある。

どんな傷ついても、

おめえたちが帰られる場所はここしかねえはずだ


米作りという大事な伝統を子供たちに

伝えるはずだったのに

米作りに、親も自信を失い

子供が出ていくのを

止められね

老齢で、耕作放棄地が増えて

里山も荒れていく


都会という幻想に踊らされているなら、

田舎に幻想をつくって

ハメルンの音色を奏でればよい

子供たちが帰ってくるかもしれない


「村おこし」という言葉のもとに

いろんな企画をたちあげても

いまだ 村はそのままだ

子供もいまだに帰ってこない


村は、じいさまとばあさまばかり

あの悪たれガキが、今海外に住んでいるのだと

どこそこの子供は、銀行で働いているらしい

あそこの息子は、夢やぶれて帰ってきたと

噂話だけが、村の話題になった

村から、いつの頃か

子供のはじけるような笑いが

消えて、どれくらい過ぎたろうか


鮭やアユですら、自分の生まれ故郷に戻ってくる

どうして子供たちは、もどってこない

あの悪たれがきども、もどってこい

おめえたちの育った村が 消えてしまう前に

2014年5月 8日 (木)

北京レポート(78)故宮

北京で有名な観光地といえば、第一にあげられるのは故宮だろう。明清時代の政治の中心であり、建てられてから580年以上過ぎたことになる。ラスト・エンペラーの溥儀が去ってからも、建物はその時のまま、残された。

 

この紫禁城には、一説には明代には、主従、正副合わせて九千九百九十九の部屋があるとされていたが、1973年には、八千七百四しかないと言われている。ほとんどの部屋が皇帝に仕える千人もの宦官(最盛期は十万人とも言われる)や女官ために使われた。最後の皇帝と呼ばれた、溥儀のころには宦官の数は約二百まで減っていた。面積72ヘクタール(東京ドーム15個分)で、城壁は10数メートルの高さがあり、城壁の周りを幅50メートルの堀が囲み、城壁の角に角楼がそれぞれ立っている

R_12 (景山から故宮を望む)

景山から故宮を見渡すと、黄金色の屋根、赤い壁が眼前に広がる。屋根の色と赤い壁は、陰陽五行説に基づいて建てられたそうだ。建物や敷石のほとんどはレンガ造りで、レンガは水路によって運ばれた。レンガは一億個以上も使われた。レンガ一枚24キロの重さがある。北京市内に瑠璃廟という場所があるが、屋根の瓦は、そこで焼かれたようだ、地名だけが残っている。現在では瓦は焼いていないが、筆や文房具の有名な場所として、有名。その屋根には、9は皇帝を表す数字なので、屋根には9匹の獣が置かれているのが見える。

 

故宮を外敵から守るために、故宮は内城と外城の二つの大きな地区に分けられている。内城は、故宮と北海、中海、南海を囲んだ地区、もう一つは東直門、朝陽門、安定門、徳勝門、西直門、阜成門の外枠。主に満州人が住んでいた。

 

外城は、山安門、右安門、永定面、左安面が前門の下に位置する。ここには満州族以外の漢族が住んでいた。江戸城も外敵から守るため、外堀が何重にも敷かれていて、その名残が大手町のお堀端や、石垣、城門などに残っている。さらに、江戸の旗本、城詰めの武士が住む場所、各藩の大名屋敷、一般庶民が住む場所など比較的区分けされていた。そう考えると、日本には宦官という特殊な役職がない点を除けば、城を取り巻く環境は日中とも、あまり変わらないのかもしれない。

R_10 R_11 (午門)

R_9 (金水橋)

一般的な観光では、前門の午門から入る。午門をでると、小川に金水橋がかかってあり、天子が通れる中央の橋とランクの分類された臣下が通る橋がそれぞれ決まっていたそうだ。

R_7 R_8 R2 (太和殿)

太和殿:午門を通り抜けると、太和殿が目の前に広がる。太和殿は、故宮の建物の中で、一番大きい建物となり、皇帝の即位、結婚、誕生日、将軍の出陣、元旦、冬至などの数々の式典に利用された。昔は、太和殿の前の広場に、2万人にもの参加者が並んだと言われている。官位によって、着るべき服装の色(赤、青)や帽子が異なっていた。建物の外には、青銅製の亀、鶴の置物がある。太和殿の中に入ると、皇帝の玉座があり、皇帝の冠が保管されていた。玉座のまわりには龍を刻んだ6本の柱が立っていて、さらに天井に龍の彫刻がある。この天井を支えるために合計、72本の柱がある。太和殿の柱にもともとは、クスの木が使われたが、現在では、松の木に置き換わっているそうだ。

 

もし、紫禁城を見学するにあたって、事前に「ラスト・エンペラー」のDVDを見ることができたら、感慨はひとしおだろう。皇帝の即位式に参加するために、大臣達は午門の前で朝午後三時に開門を待つ。太鼓が鳴り、門の扉が開くと、金水橋を渡り、太和殿に整列する。皇帝が現れると、額を三度地につけ、それを三回繰り返す。映画では、太和殿を背景に、ずらり並んだ群臣の拝賀を受ける幼い溥儀の姿を見ることができた。三歳の幼児であった溥儀は、自伝でこう述べている。

 

「太和殿へ連れていかれ、高い大きな座席にすわらせられたわたしは、あまりの寒さに、もう我慢ができなくなった。ひざまずいてうしろからわたしを支えていた父が、もじもじするなと言ったが、私は逆らって、『いやだ、いやだ、帰りたいよう』と泣きだした。父は困惑しきって、汗をたらたら流していた。人々が私の前で順に叩頭するあいだにも、わたしの泣き声はますます大きくなった。父はわたしをなだめようとして言った。『泣くんじゃない。すぐ終わるから』わたしをなだめるためのこの言葉は、廷臣たちを嘆かせた。彼らはそれを不吉な予言と取ったのだ」

物語の始まりの伏線としては、おもしろい挿入話であった。

 

重大な失敗を犯し、責任を問われた宦官や大臣は、棒でぶたれ、皇帝が許さなければ、そのまま死ぬまで打たれたとも言われる。ある宦官は大臣25名に棒打ちを命じた。命令する者のつま先が開いていると、「着実に」という意味で、棒打ちは手加減して打つ。しかし、叩かれ度合いによっては、不具になるまで打ちすえられることもあった。つま先が閉じていると、「細心に」という意味であるため、死ぬまで打ちすえるという意味になったと言う。太和殿の前の石畳には、そういった大臣や宦官の血が沁みこんでいるのかも知れない。

 

中和殿:太和殿の後ろにあるのが、中和殿。皇帝が農具を閲覧し、非公式な会議もひらけた。時代によっては、皇帝が政務を始める時に、休憩し、くつろげる場所でもあった。

 

R_5 R_6 (保和殿)

保和殿:保和殿は、除夜に蒙古やチベットの王族を招いて宴を開く宴会場であり、科挙の最終試験を行う場所でもあり、さらに皇帝が大臣を集めて、公式行事を行う場所となった。

 

注目すべきは、龍を刻んだ巨大な一枚岩のレリーフ。これに似たレリーフは市内のあちこちで見かけるが、最大のものはここだけだろう。重さ250トンの巨大な石をどうやって運んだのだろうか。この巨石は冬場に運搬された。そのために、500mごとに井戸を掘り、井戸から水を汲んでは、道に水をまき、道を凍らせ、1000頭のロバを使い、2万人もの人が労働し、石切り場から28日かけて、北京に運んだと言われている。このレリーフの石段は皇帝だけが歩くことができた。二枚あって、一枚岩の長さは16.57m、幅は3.07mある。

5r乾清宮)

乾清宮:乾清門を通るとそこからは、皇帝個人の生活の場で、内廷と呼ばれていた。内廷でまず、目に着くのは乾清宮、雍正帝以前の皇帝が寝起きしていた。二階建てで、27のベッドと書斎があったと言う。それでは、公務はまったく行わなかったかというと、皇帝によって異なった。というのは、皇帝によっては、生活の場がそのまま大臣と会う政務所となり、さらに上奏文の処理もここで行われた。乾清宮の玉座の背後には、「正大光明」の額がかかっていて、清代には後継者の名を書いた封印した紙札を額の後ろに隠しておいたという。もう一通の勅書は、皇帝が常に身に付けていた。皇帝が亡くなると、二通照らし合わせて、次の皇帝の名を公表したと言う。

 

交泰殿:皇帝の印章である、玉璽を保管した建物、玉璽だけでも25個あったと言われている。水時計や様々な時計が展示されていた。

R_3 R_4 (交泰殿)

坤寧宮:明代には皇后の寝所となっていて、オンドルが備えられた建物だった。皇帝が妻と過ごす赤の部屋がある。清代になってからは、寝所として使われず、満州族の祭祀の場所として使われた。

 

雨花閣:乾隆帝がチベット仏教を信仰したときのチベット式建物。融和政策のために作ったと言われている。

 

養心殿:清五代雍正帝は、乾清宮に住まずに、ここ養心殿に住んでいた。皇帝からの命令は、司令監から、文本房、そして内閣を通じて、各地域に流されたのだが、雍正帝は独裁政治を行うために、軍機処を養心殿の前に配置した。軍機大臣を直接呼び出し、上奏、承認を与え、内閣を通さずに関係部署へと伝わり、独裁政治を行うことができた。この乾清宮は、その後も八人の皇帝の、仕事場であり住居となった。故宮の建物の中で、ガラス窓を初めて使った部屋がある。ガラスは、中国になかったので、海外から輸入したものだった。

 

乾隆花園:乾隆帝が気に入っていた花園、曲水の宴、杯が石の上の溝にはった水の上を流れ、杯が止まった場所の人は歌を読まなければならない。読めなければ、罰として酒を飲むというゲームが行われた。当時の娯楽としては、その他にも、演劇、絵画を描く、ゲーム、花見、詩を吟じるなどがある。

 

養性殿:西太后は、実権はもっていたが、皇帝ではなかったので、ほとんど40年間、故宮にいる間だけは、養性殿で過ごした。

 

その他の建物:西側の宮殿(西東六宮)には、側室が住んでいたし、貞順門内には光緒帝が誰よりも愛した珍妃が西太后の命令で投げ込まれ、殺された井戸がある。詳しくは、私のブログ「西太后と光緒帝の謎」を参照のこと。

 

景山:裏手の神武門から景山公園に抜けられる。景山にのぼって頂上に建っている万春亭にたどりつくと、故宮とその周辺を俯瞰できるので人気がある。景山は人工的に作った92メートルの山だ。もともとは、1420年、明の永楽帝の時代に、元の大都にあった宮殿を壊し、故宮とその堀を造成するに当たって、残土の処理に困り、後ろに積み上げたのが、山になったといわれている。鄭和が六度目の航海に出航した頃の事である。その景山に登ると、中国語で槐樹(カイジュ)、日本ではエンジュと呼ばれる樹木がある。明代の最後の皇帝、崇禎帝が首を吊った樹木だという。約三百年以上前の話なので、おそらくその木ではなく、後に植えられた木だろう。明の終わりに、李自成軍という反乱軍に攻め込まれたが、皇帝に全く人望がなかったため、宮殿内部には抵抗しようとする明の軍隊も宦官もほとんどいなかったという。この李自成軍は、百姓の寄せ集め軍隊だったので、すぐ滅ぼされ、清の時代に移行していく。この景山ルートから、皇帝の私的な建物から入り、公的な場である太和殿を抜け、前門を抜けるという逆のルートもとることができる。

R_2 (景山)

秘宝:故宮内にある収蔵品、秘宝の数は、100万点とも150万点とも言われている。故宮の文化財で、主な品は、書画と玉器工芸(30,000点)。特に、玉は、白玉、青玉、漢玉、緑玉があり、皇室専用として崑崙山脈から運ばれた。大きい玉石は三年かけて北京まで運搬されたと言われる。

しかしながら、歴史の中で、かなりの数の収蔵品が亡くなった。宦官が勝手に持ち出して、売ってしまったり、溥儀は、宦官に恩賞で与えたり、自分でも資金難になると、盗み、売ったとされている。溥儀が満州から逃げ出すときは、書画120及び宝石をもって逃げようとしたがソ連につかまり、書画関係は、現在、遼寧省博物館に保存されている。さらに、蒋介石が目ぼしい貴重な品は、台湾に持ち去ったため、故宮内の秘宝の数が少なくなったと言われている。1989年 日本軍が故宮に入ったときは、すでに国宝は西部に持ち運ばれ避難していたため、ほとんどの秘宝は無事だった。ただ、銅製の甕 66個、大砲 4門、灯篭 91器 を盗み、天津で軍需用に精錬されたという。それ以外の徴用された品は、

終戦後、ほとんど回収された。故宮内にある防火用の甕には、日本兵士が刀で傷つけた跡が、あると言われている。地金が見えているのでわかるのだそうだ。しかし、別の本では、義和団事件のときに連合軍が削り取ろうとしたためと記されている。どちらが本当なのだろう。

R (甕)

故宮ゆかりの品々は、現在でも、台北、南京、遼寧省、天津、上海博物館および外国の博物館に、保管されている。

 

明三代の皇帝である、永楽帝は、皇后が死んで墓が必要になったため、墓を新しく造らせた。現在は、明の十三陵という名前の観光地になっている。1421年に、雷が落ちて、宮殿が炎に包まれた。6度目のモンゴル遠征への途中で、馬から落ちて、永楽帝の命がつきた。

 

明以前は、宰相が力を持っていて、皇帝と反目することもよくあったが、明以降は、決策、議政、行政は皇帝の下にあり、議政は内閣、行政は六部(戸、礼、兵、刑、工)を司り、その下には三司があり、(分割地方、司法、軍事、行政)を行い、三司の下には按察使司、都指揮使司、布政使司が働く構造となっていた。さらに、明、清の時代になると、外朝から内廷へと政治の舞台は移った。

 

ところが、明朝14代の皇帝である万暦帝の時代になると、皇帝は、20年以上も、大臣と接見することはなかったと言われる。当然、宦官が皇帝の代わりに実務を行ったため、宦官が権力を持つようになり、内廷と外朝(内閣)との権力争いが激しくなった。

明の最後の皇帝である、崇禎帝は政治に熱心で、色事にふけるような事もなく、倹約を心がけていた賢人だったが、猜疑心が強く、臣下を信用しなかった。重臣を次々に殺し、特に満州族からの防衛の責任者であった袁崇煥を無実のまま殺したために、民衆の不満が高まった。ちょうどその頃、李自成が農民とともに叛乱を起こし、故宮に入り、略奪・強姦・殺人を行った。さらに放火までしたが、幸いなことに故宮のダメージは少なかった。

 

その後、李自成軍は、清と明遺臣の連合軍と激突し、大敗し、北京を逃げ出した。その後は、ドルゴンから最後の皇帝である溥儀まで、約260年間という清王朝の長い支配が続いた。

2014年4月22日 (火)

強制連行、徴用問題の歴史認識

最近、インターネットニュースを覗くたび、韓国がもちだす慰安婦問題や、中国で強制連行、さらに運搬船の差し押さえ問題が良く取り上げられている。最初は、相手国をバッシングすることで、外交的に有利な立場をとるための、単なる外交的な問題だとおもっていたが、様々な国の利害が絡み、いまや複雑な様相を呈してきている。

そもそも戦争中に人権という考えは、あったのだろうか。歴史を学ぶたびに、目をつむりたくなるような残虐な事実に遭遇することがよくある。たとえば、モンゴル帝国は、ロシアに侵攻し、村や町を攻撃するたびに、技術を持っている男は奴隷として生かし、それ以外の男はすべて殺した。女はすべて奪い、犯し、村は破壊しつくされたと言われる。

私は、妻の実家に行くと、ときどき義父と酒を酌み交わす。話している最中にロシアのことにはなしが及ぶと、義父は怒りに駆られたように、「ロスケはひどい奴らだ」と叫ぶ。それが、本当に怒るようなことでもない、ほんの些細な事件でも、「ロスケは許せん」と叫ぶ。義父は、満州吉林省からの引揚者であった。ハルビンのような中国北部からの引揚者に較べると、吉林省からの引揚げは、被害が少なかったとは聞いている。それでも、ある部落では、周辺住民からの襲撃を受けて、数千人が自決している。戦後の引揚に話がおよぶと、逃避行の際、母親が、赤ん坊が泣かないように口を押さえ、我が子を殺さなければならなかったと言う。義父の姉は、「留用」され、本土へ引き揚げることはできず、それ以来、生死の噂も聞かなかったという。慰安婦になった可能性が高いと口重く言った。そういった戦争の記憶は、酒を飲んだおりに、断片的に話すが、いまでも戦争の話になると口を開くことが少ない。ロシア兵による蛮行は、義父の同じ引揚者からの聞きかじりなのか、実際に子供の頃に目撃したことなのかは、いまだにわからないが、義父のロシアに対する怒りは、戦後の記憶と結びつくのだろう。それは、あたかも、モンゴルに脅かされたロシアの村に残る歴史的な記憶と同質なものなのかもしれない。

それは、韓国の旅客船セウォル号のことに話が及んだときもそうだった。乗客の避難誘導や救命措置を迅速に取らずに、船長や航海士が救出されたことに関して、すぐさま関東軍とまったく同じだという言葉がでてきた。確かに引揚者の本を読むと、ロシアが侵攻してきたとき、まっさきに逃げ出していたのは、関東軍とその指導者の家族であったと言われる。ロシアの軍隊は、まず日本人達がすむ村の通信設備を破壊し、村を孤立させ、お互いに情報がとれない状態にして、囲いに取りこんだ羊を、狼が一頭一頭殺していくように、掠奪、惨殺、拉致、強姦のかぎりをつくしていった。戦争中ならまだしも、戦後にこういった残虐、非道が行われたことに怒りを感ずる。現在では、敗戦後にアメリカが占領政策を主導したため、ロシアや中国がその分け前にあずかれないことに、腹を立てた指導者が、そういった非道やシベリア抑留と命令したと言われる。

戦争に勝った国民に人権があるなら、敗戦国にも人権はあるべきだった。しかし、敗戦国に、人権はなかったと言ってよい。日本が戦争で負けてからというもの、満州からの引揚者たちは、中国人たちから掠奪、惨殺、拉致、強姦にあい、さらにロシア兵からは、徹底的な掠奪、惨殺、拉致、強姦にあっている。あろうことか、日本人のなかには、自分の命を守るために、引揚者の女性を奴隷のように売って逃げた人もいたと聞く。ロシア兵によって、抵抗する引揚者や、女性はその場で殺された。女性たちは髪をきり、顔に煤をぬっても胸をまさぐられ、拉致され連れて行かれたという。女性の中には、汚物を体に塗り付けて、あまりの臭さに、ロシア兵が近寄れず、やっと助かった人も多かったと聞く。港までたどりつき、引揚船に乗ろうとすると、持っていた貴重品はすべて中国に取り上げられている。

さらに、ロシアに連行された開拓団や兵士は、収容所に監禁され鉄道建設に強制的に従事させられた。韓国慰安婦が性奴隷と呼ばれているなら、シベリア抑留者は、女性は性奴隷であり、男性は労働奴隷であった。それは、戦後の暗部とも言えることで、戦後を学ぶものとしては、資料を読んでいて、あまり楽しい作業ではない。シベリア抑留の中では、食物や生活必需品は、ほとんどが中間で搾取され、少ない食料品と寒さで、枕木一本に対して日本人一人が死んだと言われるほど、多くの抑留者が亡くなった。五十万人もの抑留者に対して、お金が一銭でも払われたという話は聞かない。

中国でも、戦後、研究者や技術者、看護婦などは、引揚が許されず、「留用」と呼ばれ、引揚船に乗ることができずに働かされ続けた。持っていた知識や技能が中国側に伝わり、用がなくなるまで、中国に留め置かれた人も多い。アメリカの日本での占領政策が進み、アメリカだけが甘い汁を吸うなら、ロシアや中国が、日本から奪えるものは、なんでも奪ってしまおうという決断ではなかっただろうか。

そういった事実に対して、様々な証言集や資料が存在する。こういった行為は、国際法に違反した行為だった。しかし、いまだに英文に翻訳されて積極的に世界に発信したという話は聞かない。何故だろう。本当は、戦後に起こった事実や蛮行を、世界に訴えるべきではなかったろうか。引揚者の話は、映像化され、映画やテレビドラマを通じて、世界に発信してきた。しかし、そういったメディアは、相手国に配慮して、暗部の一部しか伝えていないし、引揚者が味わった苦しみの数千分の一も表現していないことがわかる。

「はだしのゲン」という漫画に過激な描写があって、学校や図書館から撤去すべきだという要請があるという。まるで、戦後の事実を隠ぺいし、記憶の彼方に押し去りたいという意思を感じさせる。もし、満州からの引揚者の体験が、漫画になったら、あまりにもリアルすぎて、間違いなく撤去すべきだという要請がでるだろう。

これは、日本人の悪い癖かもしれない。真実はいつか明らかになるとか、いつか本当の事を、わかってもらえるだろうという考えが、根底にあるような気がする。事実、日本は、こういった戦後に起こった悲劇を外交カードとしては、あえて使ってこなかった。世界に訴えることもしてこなかった。いったい、中国人やロシア人の何人が、こういった戦後の蛮行を知っているのだろうか。戦争中の残虐性は誰もが声をあげたが、戦後に起こった蛮行には、日本人も含めて、ひたすら目をつむってきたのが現実ではなかろうか。韓国の旅客船沈没で、船長たちがいち早く避難命令を出していれば、数多くの乗客の命が助かったはずだった。同じように情報を早く入手した関東軍が、住民に避難命令を早く出していたら、数多くの命が助かっただろう。大本営や逃げ出した関東軍、さらに戦争を煽動したメディアこそ責任をとるべきだったのに、いつのまにか国民総懺悔に変わり、何も知らずに満州に渡った一般庶民が、逃げる際に、その最後のツケを払わなければならなかったは、なんともやりきれない思いだ。

韓国や中国が、戦争中の個人賠償に声をあげるなら、日本も戦後の引揚者に対して行われた非道に対して個人賠償に声をあげるべきではなかろうか。それで、やっと同じ国際社会で同じプラットホームに立てることになるのかもしれない。沈黙は金という言葉があるが、国際社会では、沈黙は金とはならない。反論しないのは、やましいことがあるからだということになりかねない。実は、こういった問題に一刀両断の解決法はないだろう。なぜなら、戦争のことを話しだすと、お互いに過去の歴史の悲惨な出来事を述べあう、水かけ論になってしまうし、思い出したくない記憶を呼び起こし、さらに被害者を苦しめかねないことになるからだ。

それでも、私には、満蒙開拓団の資料を読むたびに、彼らの無念さが伝わってくる。国の移住計画のもと、理想郷だと教えられ、異国の地で生計を立てていた人たちが、満州に着いてみると、土地はもともと中国人所有していたのを買い叩いたものだった。約束が違うと帰国したい思いを押しつぶし、やっと開墾に成功すると、土地を奪われた人たちが、ゲリラとなって襲ってきた。それをやっと防いだと思ったら、男は、軍隊へ召集される。終戦となり戦争が終わったと思ったら、残った婦女は、終戦で中国と、ソ連兵の汚辱と掠奪にあう。守ってくれるはずの関東軍は、一足早く逃げ去ったあとだった。彼らは、何度も国に裏切られてきたことになる。

引揚者は、戦争は終結したにもかかわらず、人権はまったくなかったといってよい。彼らこそ、ロシア、中国、日本政府の謝罪が、本当に必要だった人達ではなかったのではなかろうか。

日本の歴史授業は、近代史がすっぽり抜け落ちていることが多い。それは、教える先生方にも、歴史が身近すぎて、荷が重く感じたからだろう。せめて、外交にたずさわる人達だけは、こういった戦後の歴史を知っといてほしいものだ。確かに、日本軍による南京虐殺や731部隊のような非道は許してはならないものだった。しかし、戦後の引揚げで日本の兵士や、一般庶民がロシア兵や中国民によって犠牲となったことは、同じように、決して許してはならないものだったし、明らかに国際法に違反するものだった。

戦勝国の人だけが人権があり、敗戦国だから、人権はまったくないという考え方には、決して同意できない。戦後の補償を、取り上げるなら、苦難の道を歩んできた引揚者に対する相手国による賠償も考慮に入れた、対等の外交政策を行ってほしいことを切に願う。(20144月)

2014年3月25日 (火)

北京レポート(77)中国語語学学校<6>新实用汉语课本5テキスト和訳

このブログは、新実用漢語課本5の本文を和訳したものである

{新実用漢語課本5 和訳}

51課 <母母の愛

母は1日,1日老いてゆく、歩くことももうとても遅く見える。彼女の息子と娘は皆もう成人となった、彼らはそれぞれ自分の事で忙しく、帰ってきてもあわただしく、ちょっとだけ彼女に会い、また慌ただしく立ち去っていく。あの頃、息子と娘達がまわりでにぎやかに囲んだ情景を思い出すことは、今では、夢の中のようだ。母の家は寂しくなりました。

その年、私は湖南に、長期間行くことになりました。私が帰って来ると母はとても喜んで、彼女は私に何を持ってきたら良いかが分からず、私のために食事を炒めるので忙しい。酒を飲みますか?母は私に聞いた。私は飲むと言う、母は忙しく私に酒をついだ。

私はやっと三杯飲んで、母は言う:酒を飲むのは良くないよ、少しだけ飲みなさい。私はもう飲まないつもりです。コップを下におろすと、母は笑って、また言う:こんなに長く家を離れたのだから、また飲んで。私はまた飲む。やっと二杯飲んで、母は、また言う:もう飲めないの、飲みすぎたのね、料理を食べないと、香りがなくなるよ。私は杯を止めると、母はまた笑って、言う:五杯飲みましたか?それならもう一杯飲んで、偶数にしなさい。彼女は自分で言い終わると、酒を注いだ。すぐ飲んだ。今度こそ、酒を止めるつもり。母はまた笑って私を見て、言う:まだ飲みたいのではないか、それならまた一杯飲みなさい。私はまた一杯注いで、母は私が飲むのを見ている。

もう飲んだらだめ、飲むのを許しません。母は、今度は、酒瓶を持ち始めました。

私は、その酒を飲むと、涙がすぐ出てきて、私はコップをさかさまにおきました。

それなのに母はコップをきちんと戻し置いて、またゆっくり私に一杯注いだ。

寒くなったので、また一杯飲みたくなったでしょう。母は言って、私が飲むのを見ています。私の涙は急に湧いてきました。

母性愛とは、何でしょう?これこそ母性愛なのです、息子が飲むのを恐れ、また息子に飲むように勧める。私の母!

私は母家の遠くないところにある小さい建物へ引っ越ししました。母はその日に突然来て、四階まで上がり、息が苦しなり、ドアから入った後、ドアによりかかって少し休みました、それから私が眠る六尺の小さいベッドがどこかに置いてあるのかを見た。その時の私の娘はまだ小さく、私の妻は一緒に大きいベッドに寝ていて、私の六尺の小さいベッドは本が置いてある小屋の中にありました。小屋は本当に小さくて、ベッドは窓の下の暖房のそばに置くことしかできなくて、ベッドの東端はクローゼットで、西端はガラスの本箱でした。

あなたの頭はどちらを向いて寝るのですか?母は小さいベッドを見て、私に聞きます。

私は、頭は、東の方に向かっていると答えた。その方向はクローゼットです。「それはよくない」、母は言った、服の上はほこりが多いから、あなたの頭は西方に向って寝なさい。

母はちょっと座って、突然言った:ガラスの本箱に面した方で、寝ちゃだめよ、もしも地震があれば、ガラスが壊れてあなたを傷つけるよ、駄目よ、駄目です。

母はなんと地震を思いついたのです!百年に一度あるかないかの地震。

「はい、頭は東の方に向って寝るようにします。」私は言って、また枕を移した。

少し待つっていると、母はこちらを見て、またあちらを見て、また突然言う:顔は中の方に向っているか、それとも外の方に向かって寝ますか? 顔は中の方に向っています。私は母に対して言った。私は身体を右へ向いて寝るくせがあります。駄目、駄目、顔が暖房に向かうと、とても乾燥していて、のどが受けつけない、あなたの喉は小さいときからよくないでしょう。

母は言った。「はい、それでは私は、顔を外に向けて寝るようにします。」私は言った。

母は掛け布団を見て、すこし敷き布団をさわり、また不安げに、言った:あなたの顔が外に向かって寝るのは、身体の左側がベッドについて、駄目、駄目、これが心臓によくありません。あお向けに寝て、あお向けでよく眠りなさいという母の話を聞いて、私は言った。はい、私はあお向けで寝ます。

私の涙は、急に湧き上がり、とどまりません。

私はこれまで母がそんなことを考えながら、長い夜を寝ていたなんて考えもしませんでした。私の母!

私の母は年老いて、よく中庭の入り口で外の方を見回し、手は壁を支えながら、立っていたものです。毎回、私が行くたび、彼女はいつものように喜んでくれます、あの当時(子供の頃)、私は中庭の入り口で、母が外から帰って来るのを待っていて、見つけては、同じように喜んだものです。

私は毎日母に一度、(母に)会いに行くこと以外では、彼女が料理材料を買うのを手伝い、床をきれいにし、ほかに何をしてあげられるのだろうか?私の母!私の背が低く小さくて、慈悲深くて優しい、白髪と灰色の母。。。。

 

<閲読><背起瘫痪的父亲读大学>

半身不随な父を背負って、大学で勉強

農村からの一人の大学生がやって来ました。(彼)自身の家庭で不幸が発生してからというもの、そんな逆境の中、半身不随になる父を背負って、彼は大学で勉強しています。この事は、蘇州大学三学年の学生である、王中という名の学生の身に起こったことです。蘇州大学の学生寮のビルの近くに、一間10平方余りの小さい家があり、そこが王と彼の父とが住んでいる場所です。二台の小さいベッドが部屋のほとんど全体を占めていて、部屋の中で貴重なものは、同級生が送った12寸の白黒テレビです。半身不随になって、半年になる父が静かにベッドに横たわっていて、客がくると、会ってただうなずくことしかできません。

記者が家に入ると、王中の父はぼろで、古い車椅子上に座って、目は家の外の日光を見ていて、自分で歩いて出て行く能力がありません。彼はまだ61歳なのだが、とても年寄りじみて見えます。彼は言った、息子を除けば、家にはすでに誰も身内はいません、自分が半身不随になった後で、(畑を)耕作することができなくなって、自分で生活さえ世話することはできなくなりました。その後の生活に話がおよぶと、彼はどうするべきなのかわからなかったと言いました。彼は言った、息子はとても親孝行で、彼を嫌わず、学校へ行って、さらに彼の面倒をみてくれる。彼はまた言う、息子が一歳のときに、妻は亡くなってしまい、息子を大人になるまで育て上げるのは確かにとても容易なことではなかった。息子は小さいときから彼の仕事をするのを手伝い、彼とともに、受けた苦しみは多すぎました。でも、息子は負けまいと頑張って、なんと大学に合格し、その上学習成績も良く、彼のこのことは父を満足させる。彼はただ息子の足手まといには、なりたくはありません。

蘇州大学商業学院は、王中が父を蘇州から連れてきたことは知っていた、すぐ学生活動経費から1000元を王中の生活費として出した。記者はさらに、蘇州大学はすでに王中の授業料を減免することを決定したことを知った。王中がいるクラスの同級生がお金を出して、力がある人は力を尽くし、みんなが方法を考え、彼が難関を乗り越えられるように助けている。現在、クラスの同級生は、すでに順番に王の中の父を面倒みることを始めました。

記者は再度、この親孝行で忍耐強い学生を取材しました。彼は記者に教えたことは、父を蘇州に連れてきて、生活をするようになったが、一方では大学で勉強しながら、一方では父の面倒を見ている。彼はそのための充分な準備をしました。本来は自分でこの難関を乗り越えたいと思っている。他の人の迷惑にならないように、さらに彼は自分がしなければならない事をしただけだ、と思っている。現在、社会の各方面で、急に彼を少しでも助ける方向に向かっているが、彼はみんなに感謝しているとともに、またプレッシャーを少し感じています。彼はとても楽観的に思っていて、人は、自分がどんな家庭に生まれるかは選ぶことができないものです、しばらくは、物質面では、他の人ほど豊かではありませんが、自分は長所もあり、それはつまり特に苦しみに耐えることができ、貧しさを変えることができるとかたく信じている。

 

<会話><父母的成了一种担>両親の愛は、負担だった

あなたを取材できてうれしく思います、聞くところによると初めて試合に参加した時、あなたの両親に教えなかったんですか?

はい。小さいときから両親の愛の中で長く育てられ、私が彼らを傷つけるのを見たくないので、大事や小事に関わらず、私(自身)で管理しています。しかし、私はずっと独立を望んでいました。初めてダンスの試合に参加したとき、私が踊るのが下手だと彼らが言うのが怖かったのです、私を参加させないかもと思い、彼らに言わずに、こっそりと行きました。私はこう思いました、もしもうまく踊れたら、もちろん彼らに教えますが、もしもうまくいかなかったら、彼らは知らなかったでしょう。そのように隠すことで、私は初めて独立する楽しみが得られました。お父さんとお母さんの過剰な愛のために、私はずうと一種の負担を感じていたのです。

両親の愛がどうして一種の負担になるのですか?

何人かの同級生から見れば、これは一種の幸せでしょうね。多くの同級生はうらやましがって私に言ったものです:お父さんが毎日運転してあなた迎えに来て、いいわね。実は彼らは知らないのです。毎日、学校が終わると、お父さんがそこにいるのを見ると、私は頭痛がしました。当時、私の最大の夢は、一台の自転車に乗って、自分で学校へ行くことだったのです。

あなたが北京に来て学校へ行くようになってから、両親はもうあなたを管理しなくなったのですか?

当時十五歳で、私は青島の家を離れて、北京に来て学校に進んだのですが、毎日少なからず、やらなければならない事は、家と電話で連絡することだったのです。

現在、あなたはすでに映画スターですが、両親はまだ、あなたを管理しますか?

スターなんて、とんでもありません。少し前に、私は北京で一軒の家を買いました、お父さんとお母さんに引っ越してきてもらって、私と一緒に住んでいます。実は、彼らは私の面倒を良くみてくれます。しかし時には私は本当に、もう一軒の家を買いたくなります、自分の空間を持ち、独りでの家の中で仕事をし、本を読み、学ぶことができるからです。しかし私のお母さんは反対して言います:あなたは現在とてもいい暮らしで、自分の部屋だってあるのに、なぜまた家を買うのですか?

現在、私は毎晩出て行って、普通は十一時に家に帰らねばなりません。これは私のために両親が立てた決まりです。もしも少しでも遅れるようなら、彼らは私にすぐ電話をかけます。すぐ家に帰ってくるよう催促するので、私はとてもうっとうしいと感じています。本当は、両親の考えていることは、私も理解できるので、彼らが私ために、良かれと思ってしているのです。しかし、私はすでに大きく成長して、多くの事が自分でうまく処理することができるので、両親は全く安心できるはずなのです。

 

52課 <祝你情人バレンタインデーおめでとう

私は銀行に預金して帰ってくると、ただ一面の黒煙だけが見えました、私達が住んでいたビルがすでに廃墟になっていたのです。私は、どんな事が発生したのか明らかになるまで待っている間、私と大家の奥さんは、病院に行くタクシーに既に乗っていました。病棟の中で、私は志強を探し当てました。なんとありがたい!彼のやけどはあまりひどくなく、すでに意識が回復していました。私は走っていって、腰を曲げ、彼の手をしっかりと握って、泣き始めました。大家の奥さんの家は大火の中で燃えつきてしまいました。

しかし、彼女は私達を慰めて言った:”大丈夫です、保険会社が弁償してくれます。”私のと志強は、しぶしぶ少し笑いましたが、心の中で思いました:あなたの家は保険がかかっていても、私達の財産は保険がないんです。私の夫である志強は、米国の大学で博士課程を学んでいます。私は彼に付き添って来ました。私はずっと衣服のデザインの修士の学位で奨学金をもらって、学べることを望んでいました、しかしこの専門的な奨学金はアメリカ人でさえ手に入れることの可能性が少ないとのことです。だから、私達は生活を大変節約し、お金を少しずつためて、いつか私も自費で私の勉強を継続することができることを望んでいました。しかし今や、一度の大火が私達の物をみな焼き尽くしてしまいました。手元に残ったのは、以前、貯めた数千ドルだけです。

私は涙を拭いて、志強の手を握って、こう言って彼を慰めました;”大丈夫よ、医者があなたは二週間以降で退院することができると言っています、私達にはまだお金がいくらかあるから、一切最初から再び始めることができますよ!”

大家の奥さんは、私達があらかじめ払っておいた三ヶ月家賃を私達に戻し、また、私達が比較的に安い家を探せるように手伝ってくれました。

家賃はもとの三分の一で、その上、私達は前もって部屋代を払う必要はなかった。

志強の入院に付き添っている時、私は少し安い(柄つきの)布を買い、病院へもって行きカーテン、ベッド・カバーを作り 、さらに残った布で、病棟にいる子供のために二匹の子犬を作りました。志強は大きい病棟に住んでいるため、みんなは私達の話を知っていて、入院中の友人であった、老人は私達に古いテレビをプレゼントし、トミーと呼ばれる黒人の若者は、私達にテーブルと椅子をプレゼントした。要するに、最も必要とするものは、ほとんどすべてそろったのです、二週間後に、私達の新しく借りた家はもう住めることができるようになりました。

志強が退院するその日、私はたくさんのギョーザを包み、病院に持っていった、入院中の友人が私達に対して助けてくれたことに感謝するつもりだったのです。みんなはギョーザを見ると言った:”中国のお菓子はおいしい!” ― ”中国のお菓子”というのは、彼らが、私達が作った餡餅、包子、餃子の呼び方です。トミーは大きな新鮮な花束を取り出し、それからみんな一緒に叫び始めた。”バレンタインデーおめでとう!”私と志強は感動して言葉も出て来なかった。米国から帰って四年経つのに、私達はまだ一回も、バレンタインデーを過ごしたことがありませんでした。

去る時、私達はあの生花と一皿のギョーザを志強の隣にいた、その患者に残しておいた。― 彼は数日前に、自殺で、病院に送りこまれたのです。

私達が(ベッドを)離れようとしている中も、彼はまだ意識が回復していません。そのため、私は、彼にハガキを一枚かきました。”先生、あなたが私達の贈り物を見つけることができることを望みます、がんばって生き続けて!”

日が過ぎるにつれて、志強はずっと彼の論文を書いています。彼の大部分の資料はすべて家の中のコンピュータの中に存在していました、大火で燃え上がった時、彼はもともとすでに走って(家から)出てきたのだが、そのコンピュータを救うため、彼はまた部屋の中に走り戻ったのです。

火傷を負ったが、コンピュータはやはり救うことができませんでした。これによって、志強は初めから彼の論文を書き始めるほかありませんでした。こうなると、彼は、半年も期間を遅らせ、卒業を遅らせるほかありません。しかし、遅らせた期間は奨学金がでないのです、その上、卒業を遅らせたので、志強が学校に残ることは、とても大きい影響があります。私達が残っているお金も多くはありません。

一日一日と苦しい日が過ぎます。

またバレンタインデーがやってきた。私と志強は去年、話しあいました、たとえ過ごす日々がどのように苦しくとも、これ以降毎年、バレンタインデーを祝っていこうと。私は、彼を待つ間、晩ご飯を作りました。志強は学校から帰って来ると、手に一通の手紙を持っていました。私はその手紙を急いで開けると、手紙の上に書いてあったことは:

 

親愛なる李先生、李奥さん:

こんにちは

この手紙を受け取ることは、恐らくあなた達にとって、とても奇異なことと感じるでしょう。私は去年のバレンタインデーに李先生のそばにいた患者です。 あの時、私の会社がもうすぐ破産するところで、私の奥さんも、また病気が悪化の一途をたどって、私から離れて亡くなり、そこで、私は絶望し、ただ彼女と一緒に(あの世に)行きたいだけだったのです。しかし、目が覚めると、あなた達の残したギョーザ、生花とハガキを見ました。私は入院中の友人達から、あなた達の話を知って、それは私にたくさんの事を考えさせてくれました。私の奥さんがもしも生きていたら、私がそのようなことをするのをきっと望まなかったでしょう。体が良くなった後、私を支持したいという銀行をついに見つけて、現在では、会社は日々良くなりました。子供の病棟で李奥さんが作った子犬を見つけて、私は、とてもおもしろく思いました、また聞くところによると、李奥さんは服のデザインを学んだとのことで、私の会社に来ていただけるだけの関心があるかどうか。あなた達が私に返信をすることを望みます!もう一度感謝します、あなた達が私に奮闘する勇気をくれました。あなた達がバレンタインデー楽しくすごせますように!

 

私はその手紙と彼の送ってきた名刺を、一回もう一回と見て、思わず大声で読みました。

志強は歩いてきて、しっかりと私を抱擁し、それから小さな声で言った:”バレンタインデーおめでとう。”

 

<閲読><时间時間と愛.

昔、小島が一つ有って、その上には「快楽」、「悲哀」、「知識」と「愛」、さらにほか各種の感情がまだいました。

ある日、感情達が聞いたところによると、小島はもうすぐ沈下するそうです。そのため、皆は船を準備して、できるだけ早く小島を離れたいと思いました。ただ「愛」だけは留まることに決めて、彼女は最後の一瞬まで(住むことを)堅持したいと思いました。

また何日か過ぎて、小島は本当にゆっくり沈下し始めます。「愛」も離れたいと思い、彼女は海岸に来て待つことにしました。

この時、「冨裕」がちょうど一隻の大きい船に乗って、海岸を通りすぎました。愛はすぐに彼に頼みました。:”冨裕先生、私を連れて行ってください?”「冨裕」は回答した:”いいや、私の船上には、たくさんの金銀財宝があって、あなたの場所がないのです。”

「冨裕」はそう言い終わると、船で走り去りました。

まもなくて、「愛」は、「虚栄」が一艘のきれいな小舟を運転して、海岸に来るのが見えました、「愛」は、彼に向って頼みました。:”虚栄先生、手伝って!“「虚栄」は考えることもなく、すぐ拒絶しました:”愛、ごめんなさい、私はあなたを手伝えません。あなたは全身ずぶぬれになので、私のこのきれいな小舟をよごすでしょ。”話し終わって、彼も去って行きました。

またしばらく過ぎて、「悲哀」と「快楽」も海岸に向かって疾駆してきました。「愛」は先に「悲哀」に向って要請しました。

:”悲哀や、あなたと一緒にここを離れさせて!”「悲哀」は泣いて回答した。:”あ、愛、

私は本当に悲しすぎるのです、一人で静かに、しばらく滞在したいのです!すみません、快楽に助けを求めなさい!”

「快楽」が疾駆してやってきて、彼女はとても嬉しくなったにもかかわらず、「愛」の叫びと頼みが聞こえません!「愛」が助けをまさに得られなくで、絶望を感じた時、彼女は突然、親切な呼びかけを耳にしました:”おいで、愛、私達に、このもうすぐ沈む小島を離れる手助けをさせなさい。”「愛」は、とても奇怪なことだと感じました。

話をしたのはなんと一人の白髪の老人です。彼女は慌ただしく老人の運転する木造船に乗った。木造船は、接岸すると、老人は静かに去りました。

「愛」は、岸に上がって、本を読んでいる一人の老人の目前に行って、「愛」は彼に聞きました:”すみません、あなたは誰ですか?”本を読んでいる老人は親切に答えた:”私は知識の老人です!””私を助けたあの老人は誰だったのですか?”知識の老人は言った:”彼は時間の老人です!””時間の老人?”「愛」は奇怪に思い聞いた、”あの人はどうして私を助けたのですか?”知識の老人は笑って言った:”時間だけはあるので、愛がどれだけ偉大かがやっと理解できたのだよ。”

 

<会話><分工干家家事を分担する.

私たち二人とも結婚して早くも半年です、この半年間、私達と両親は一緒に住んでいたので、家事をするかしないかは、大きな問題ではありませんでした。

明日から、私達は自分の家があるので、私達は家事を分担しなければなりません。現在は男女平等で、仕事が終わった後に、私も家事をするべきです。

とても良いことだわ!今、私は、あなたと、どうやって分担するか話しましょう。まず、汚くて疲れる仕事は男がしましょう。たとえば厨房を整理し、部屋を片付けて、トイレを掃除するなど。

いいよ、これらの家事の仕事は、私はすべてすることができます。

あなたは物理を学んだし、私は芸術を学んだので、電気を帯びているものもあなたが担当しましょう、洗濯機、電気冷蔵庫、電気炊飯器、アイロンなど。

いいよ、私が担当します。

男性の主に外で、女性は主に内。これは私達の中国人の伝統です。他の人とつきあうことも、あなたがしましょう。たとえば、毎週土曜日にスーパーマーケットに、一度はショッピングに行き、毎月、銀行に行ってガス、水道電気代を払い、毎日、朝夕、階下まで新聞を取りに行き、牛乳を取り。。。。。。。。

はい、はい、それであなたは何をしますか?

そんなに焦らない。聞いて、私は舞踊することが仕事なので、厨房の中で料理してご飯を作ると、油煙がとても大きく、洗剤で食器を洗って鍋をこすると、私の皮膚に対して影響があります、だからこれらの事も私に代わってあなたがします。これは私の仕事に対して支持を表したことになります。

あなたはまだ私に何かさせたいのですか?

今思い付くのはこれくらいです。後でもしも私達に子供ができたら、あなたのする家事が更に多く必要になります。

あなたが何をするのか私に教えなさい!

私はもちろん多くの事をします。私はあなたに付き添い、あなたが仕事をする時、音楽を流して、あなたに付き添って世間話をして、あなたの汗をふいて、あなたが楽しく愉快に家事ができるようにします。

このような分業、私が気楽に、愉快にできると思いますか?

 

53課 <五味>五味

山西人は本当に酢を食べます!何人かの山西人は北京のレストランで、腰を下ろして、まだ料理を注文していなのに、先に酢の瓶を持ってこさせ、一人一人茶のみで酢を飲んで、充分に飲むようです。そばの客は、それを目をまるくて見ていました。ある年、私は太原まで行き、春節を過ごしました。ほかの場所で春節を過ごしてみると、店は皆に良い酒を少しふるまい、太原の油塩店は、皆に知らせを貼り出していた:”長く貯蔵した酢は、各戸に一斤の供給とする。”これは山西人にとって大事なことなのです。 

山西人は、また酸菜が好きで、ダイコンを除いて何でも、ハクサイ、さらにやなぎの樹の葉さえも酸っぱくさせます。女の子に仲人をしに来る人がいて、お母さんのが先に聞くことは、その家は何個の酸菜のカメを持っていますか。もし酸菜のカメが多いと、そこの

家の財産が多いことになります。

遼寧人は酸菜白肉火鍋が好きです。

北京人はヒツジの肉酸菜スープのあるミックス(雑)麺が好きです。

 

蘇州料理は甘いと人は言う、実は蘇州料理はただ淡白なのです、本当に甘いのは無錫です。包子のひき肉の中さえ、多くの砂糖を入れて、食べるなんてありえない!

広西の芋頭扣肉はとても甘くて、とてもおいしい、しかし私が最も多く食べたとしても二切れしか食べることができません。広東人は甘い食品が好きです。白薯糖水、これがどんなにおいしいか?(おいしいわけがない)広東の同級生は言う:”うまいでしょう!”

 

以前、北京人は、ニガウリがどんなものが分かりませんでしたが、ここ数年は学んで食べるようになりました。農民も植え始めました。自由市場には、とても良いニガウリを売っているが、季節外れで、品薄の野菜価格に属するので、とても高価です。

北京人の味は広がりました!

北京人は過去にハクサイを食べるのを知っていた、そのようにして、ハクサイを食べる習慣にさえ、変えることができるのです。

私達の劇団に劇を学ぶために、貴州から一人、若い女優がいて、彼女のお母さんは彼女にドクダミと呼ばれるものが入った小包を送ってきた。彼女は私に何本味わわせました。これはなんというものでしょう?苦くて、しかしそれほどひどくはないが、一種の強烈な魚の生臭ささがあって、本当に我慢できないほどです!

 

劇団に一人の従業員がいて、彼は辛いものを食べる専門家だが、彼は毎日、昼食には料理を食べず、ただ唐辛子だけを食べています。四川の北部では、聞くところによると食べることはできない唐辛子の一種があって、1本の束をかまど上に掛けると、良いスープを

作れます。唐辛子をスープの中ですこしゆすぐと、非常に辛くなります。

四川人だけが、辛いものを食べることができるとは言えません。四川料理の特徴は辛くかつしびれることです。 多くの花椒を入れて、花椒を入れないマーボ豆腐は駄目なのです。花椒は川椒そのもので、ついて、砕いて、料理を終えて、最後に入れます。

 

浙江東部の人は、確かに、とてもしょっぱいのを食べます。ある同級生が、包子を食べると、すぐ包子の中に醤油を入れなければなりません。

しょっぱい、淡白な味の好みは、地域と関係があります。北京人はこう言います、南は甘く、北はしょっぱく、東は辛く、西は酸っぱい。ほぼその通りです。河北、東北人はしょっぱいのが好きで、福建料理は淡白です。ただ、このことは個人の性格と習慣にも関係します。

 

私は世界中でどんな国の人が、臭いものを食べたいと思うのかは知りません。

上海、南京、漢口へ行くと、油で揚げた臭豆腐の干したものを売っています。長沙火宮の臭豆腐は、一人の大物(毛沢東)が若い時よりいつも食べていたため有名になりました。それからこの大人物は、また食べに行って、ひと言を言った:火宮殿の臭豆腐はやはりおいしい。

私達の友達の一人は南京へ出張しに行きました、彼の奥さんは南京人でしたので、彼は臭豆腐の干したものを持って帰ります。彼は八方手を尽くして、思いがけなく手に入れました。列車の中で持っていると、すべての車両の人から強烈な抗議を引き起こしました。

私はアメリカで、最も臭い「気死(干酪:チーズ)」を食べたことがあって、外国人の多くが臭うとすぐ鼻を覆いました。しかし、私と言えば、本当に何でもなくて、臭豆腐に比べれば、もっとゆるやかです。

中国人の好みは様々で、敢えて言えば、世界一です。

 

<学做麻婆豆腐>マーボ豆腐を作ることを学ぼう

主原料:柔らかめに作った豆腐 600グラム、赤身のひき肉 60グラム

調味料 

1)唐辛子の粉少し、ショウガ粉の1/2茶さじ。

2)四川の豆ばん醤(味噌)大きいスプーン2、米酒の1/2スプーン、ニンニクのすりつぶしたものスプーン1、しょう油スプーン1

3)白砂糖スプーン1/2、薄味スープ1杯半。

4)花椒粉少し、ネギのみじん切り2本分。

5)カタクリ粉を水に溶かした大きいスプーン1、ゴマ油スプーン1杯半。

調理法

1)豆腐は古い皮を取り除いて、1センチメートル平方の小さいサイノメに切ります。

2)鍋を火で温めた後に少し油を入れて、先にミンチ肉を水分がなくなるまで炒めて、続いて調味料(1)を入れて味がでるまで炒める。

3)また調味料(2)を加えて、かき混ぜて炒め均一になったら、豆腐を入れて調味料(3)を入れ、味がでるまで炒める。

カタクリ粉を入れて、とろみにして、ゴマ油をかける。

 

<閲読><三道茶>三道茶.

三道茶、意味はお茶を三回飲みことです。言い伝えでは、三道茶は古代大理の国王が客にご馳走したと言われているので、すでに1000年余りの歴史があります。大理は有名な古い都市で、そこの景色はとても優美です。白族の女の子はきれいなクジャクを身に着て、白族の最高な礼儀作法を用いて、両手を第一道の茶を頭より高く挙げて、客に捧げます。第一道茶は”苦い茶”で、雲南の沱茶を陶器の鍋の中に入れ、それから火の上であぶって、茶の葉が薄い黄色に変わり、そして、すがすがしい香りがついた時、やっと適量の湯を入れると、ただ1回だけ”ドン”という音が聞こえ、お茶はうまく泡立つ。このお茶はただ半杯だけを入れます、もしも満杯に入れると、白族人は客に対して礼儀正しくないと考えます。

苦い茶を飲み終わって、白族の女の子は第二道の”甘いお茶”を捧げます、第二道のお茶は茶杯を使わず、茶碗を使って、第一道の茶より茶が多い。お茶の中に砂糖、蜂蜜、クルミの実を入れ、さらにまだ、ほかのものをいくらか加えて、栄養が豊富で、香り良く甘い。

第三道のお茶は”香り茶”と呼ばれ、中国シナモンを使い、花椒、ショウガを煮て作り、さらに蜂蜜を少し加え、味は淡白で、少し辛いです。

三道茶は白族の人々の日常生活の中でとても流行っていて、親戚や友達が来ると、主人は必ず三道茶に招待します。この三道茶に、白族人はこういう言い方をします。第一道の茶が苦いのは、人生の道は辛苦の道だ。第二道茶が甘いのは、客人の長寿と健康を祝い万事思い通りになり、事業が甘く;第三のお茶の香りが良いのは、客に対して祝福を表し、また友情がとこしえに変わらないことを望むからです。白族の三道茶の中には”始め苦く、後に甘い”、”苦い後には甘みがくる”という人生の哲理があります。

 

<会話><水果之王的味道>果物の王の味.

みんな、いるよね。見てみて、私は何を持ってきたでしょうか?

そんなに良いものですか、見てみたい。

(ドリアンを一つ取り出す)知っていますか?

オーマイゴッド、これは爆弾ではありませんか?

どうしたら爆弾になるの、これはウリの一種でしょう?本当見たことがありません。

たとえウリだとしても、ずいぶん奇怪に育ったものですね。

あなた達、知らないの?これはドリアンで、果物の一種、人々はそれを果物の王と呼びます。

どんな味ですか?

まったく、どうしてこんな臭いにおいがするの?雨平、あなたは、また臭豆腐を持っているのではありませんか?

ハッハッ、これはドリアンの味です。

え?果物がこんな味がするのですか?

信じないなら、かいでみて。

(ドリアンをかぐ)まったくその味です。このものは食べることができますか?

ナイフをもってきます。(ドリアンを切って割る)見て、これが真っ白な果肉で、食べることができます、その上食べれば食べるほどおいしくなって、 初めは甘い味、それから一種の香りのある淡白な味がいっぱい出てきます。みんな味わってみてください。

それでは私が味わってみましょう。あ、少し甘くて、味はとても特別だ。

本当に?それでは私達も味わってみます。え、まあまあです。

どうです?あなた達をだまさなかったでしょう?

あなたの言う通り、このような果物はとてもおもしろい、形もおかしいし、また臭いもある、しかし食べ始めると味は本当に悪くありません。

 

54課 <我迷恋的北京城>私に夢中にならせる北京の街

現在の北京は、私が数年前よく知っている北京とは、全く違います。都市にある建物から、大通り、車、人々の生活水準、生活のリズムにいたるまで、至る所”変”の一字で表せます。

見てごらんなさい、北京の大通りは広くて美しく変わっていませんか?ほんの数年見なかっただけで、北京には、すぐに多くの新大通り、新しい建築物、新しい立体交差橋が現れています。環状の西直門の橋はなんとなく見えなくなって、それに取って代わったのは、高く大きな、広々とした新しい立体交差橋です。西単、王府井は国内外に有名な古い商業区ですが、豪華な新しい装いに変わり、世間の人の目の前に現れました。いまだに、かつて修理した大通りがまだたくさんあって、甚だしきに至っては北京人さえ道の名をあげられないほどです。

覚えているのは、以前、北京言語学院の学生だった時、毎回街に行くとき、まちがいなく決まって肉体的苦痛受けるのは避けられませんでした。というのは、唯一選べるのは375路線のバスだったのです。私はまずバスのドアの取手を、両手でしっかりと捉えなければなりませんでした、その後、自分の力で上へ押し合いをして、ある時は、皆”肉マン”のように押し合いさせられます。

しかしその前の数日間は、”女性にとって実家“のような北京言語大学を行き来し、先生と友達に会います、学校の入り口に、さまざまなバスがあるのを発見します:726路線、307路線、826路線、 951路線・・・・・どこに行こうと行くことができます、なんて便利でしょう!

北京市場内の商品も以前に比べて、ずっと多くなりました、大きいマーケット、スーパーマーケット、専売店の中の商品はすばらしいものが数多くあって、食べ物、着る物、何でもそろっている。何ゝが必要なら、どこどこ商城で中を一周しさえすれば解決することができます。

これらの大小のマーケットから、道路近辺の色とりどりの広告看板、ネオン灯まで、北京城のにぎやかな光景を見いだすことができます。

北京人の生活水準も、少なからず改善した。今回、私は何人かの友達の家に着くと、ほとんどが新しく買った家に住んでいて、エアコンを設置して、大きいカラーテレビに換えて、ある人は外国へ行く旅行の準備をしている。これらを見て、私は本当に少しうらやましくなりました!

生活水準は改善したが、しかし北京人はそれでも、親切で客好きで、これは多分北方人のさっぱりしていて、開放的な性格を体現しているのでしょう!今回私が北京に着いたときのことを話しましょう。私は大きいスーツケースを引いて、バックを手に持って、首都空港ホールを出てタクシーに座りました。運転手の先生は私が留学生だと知って、すぐ私とおしゃべりした、北京人の話し方では「とりとめなくホラを吹く」になる。彼は私が初めて北京に来たのだと思ったので、だから自発的に私に北京を紹介しはじめた。彼の話の中に、北京人の親切さが見えて、まず、おしゃべりで交通の軸になる路上にある鼓楼、景山の上の古いエンジュのことを話した。それから世界でも有名な故宮博物館、北京の小吃、たとえば豆汁に言及した。彼はまた、とても面白く私に言ったものだ:”地元ではない多くの人は、豆汁が少しもおいしくない、ある種おかしい味と感じているが、しかし、私達の北京人には、おいしいのだ。”

北京人はまた、とてもよくにぎやかです。ある日、私はちょうど地下鉄の駅から出てくると、道ばたに、たくさんの人が集まっているのが見えた。その中には多くの老人がいて、真剣に社交ダンスを踊っています。彼らの顔に笑顔を見て、あなたは彼らどんなに楽しいかを知るでしょう。

さらに、立体交差橋の下では、ひと山の人が集まっていて、ある人はしゃがみ、ある人は坐っています。皆下を向いて、着目しています。近付いて見ると、実は彼らは将棋をしているのです。みんなはお互いにそれぞれ一言いいます。ある人は、大声で争い始めました。彼らは争っていると思わないでください、実は彼らはほとんど毎日会う古くからの友人なのです。夜が深くなってから、彼らはやっと小さい丸椅子を抱えて、家へ帰らざるをえなくなります。行く前に、一言残します。”近いうち会いましょう。”これが私を夢中にならせる北京城です。

 

<閲読><上海外上海外灘.

外灘は、百数年を経て、ずっと上海のシンボルとして、世間の人の目の前に現れてきました。それは上海人の心の中の誇りで、それは世間の人に、十分に上海の文化を展示してきました。ここ数年来、新たに作られたものでは、彫刻の群、観光のためのトンネル、”愛人たちの壁”などの建築が、また世界にも聞こえた有名な外灘に、時代の新しい装いを加えました。

外灘の江南は、長い土手、グリーンベルトと雄大な建築群の構成した街並みが、最も特徴のある上海の景観を具有している。

早朝、外灘は人々のフィットネスの場所です:昼間は、にぎやかな遊覧の景勝地となり;夜、さらに恋人達の恋愛の天地となります。

ここで散歩して、近くで黄浦江の景色を見て、遠くを見ると、対岸の浦東地区の新しい容貌が見られ、大都市の緑の木、花壇、庭園の風味を感じることができ、都市では珍しい、清新な空気とあたたかい日光を楽しめます。

都市の美しさは三つの構成部分で成り立つ:建築、彫刻と緑化。都市の彫刻は、”都市の目”とも呼ばれていて、美化した都市の重要な部分となっているのです。外灘の都市彫刻群は「浦江の光」、「帆」、「風」の三つでステンレスの構成でないものを作っていて、外灘の長い緑色回廊の三粒の宝石になっている。

外灘の観光トンネルは、中国で第一番目に大河を貫通した通行人用トンネルで、全長646.70メートル、2000年末に工事が完成しました。

トンネル内は90年代の国際先進技術を採用します。全部大きな川を通り過ぎる時間はおよそ2.5から5分必要とします。トンネルは、さらに近代的なハイテクの手段を使って、人物、歴史、文化、科学技術、景色などの各種の画像を展示し、あわせてバックグラウンド・ミュージックを流し、人々が大きな川を通りすぎる過程で鑑賞させ、観光客にすばらしい記憶を残します。

”愛人たちの壁”は黄浦江辺に建てられ、全長の約1700メートルある。観光台の地面はカラーで彩られ、32個の半円形の景観台があり、たくさんのライト、花壇、方亭、六角亭とグリーンゾーン、観光客が休めあわせて黄浦江の両岸の美しい景色を観賞できます。人々が常に言うことは、外灘に着かなければ、上海に着いたことにはなりません。今日、新しい外灘に着いて、あなたは上海に巨大な変化が起きたことを感じることができます。

 

<会話><酒太情>酒をすすめるのは、とても親切

中国の酒の文化は、ひどいものです!

あなたはどうして、そのような見方をするのですか?

私はさっき《酒をすすめる》の一編の文章を読み終わりました。

どんな感想をもちましたか?

中国人と酒を飲んだという、自らの体験があります。だから私は中国の酒の文化がひどいと言ったのです。

これが文化だと言えば、そうだろうと言えるね;このような文化は、有る面で、確かに良くないものだというべきでしょう。

たとえば、ある人が酒を親切にすすめると、相手を受けざるを得なくなります。

私はその通りだと感じます。前回、銭社長と一緒に酒を飲んだとき、彼らは一杯、また一杯と私に勧めたら、私が酔わないわけはないでしょう?

そうです!楽しむために酒を飲んだのならば、少しずつ飲むこともできる、しかしたくさん飲むことはできません。

彼はあなたに飲むように勧めても、あなたは飲まなくても、または少なく飲むことができるはずでしょ。

それはここだから言うのでしょう、実際にテーブルでは、飲みたくなくとも飲まなければならず、飲めなくとも飲まなければなりません。

ひどいときは、たとえ毒薬だとしても、あなたもそれを飲みくださなければなりません。あなたはそう言いましたが、(たとえば)私は銭社長の酒を飲んだが、張社長の酒を飲まなくて、良いのでしょうか?みんながあなたの体の健康を祈って、家族皆の幸せを祈って、万事思い通りになるように祈ったとき、あなたは飲まないなんてことができますか?

飲むべきです。しかし一杯そのまま飲む必要はありません、少し飲むだけで良いです。

私もそのように考えました、しかし彼らは承諾しません。このように言いました”友情が深いなら、きっぱりと飲み干し、友情が浅いなら少し飲みなさい”。私は、どうすべきかだと思いますか。私はきっぱりと酒を一杯飲み終えるしかありませんでした。

道理であなたが酔うわけです。

私は酒を飲むのにも、自由があるべきだと思います。自分で飲みたいものを飲むべきです、飲める量を飲むべきです。

まったくその通りです。酒そのものは、飲みすぎるのと毒薬を飲むのとたいして違いません。それは楽しみではなく、命を縮めます。

 

55課 <新素食主来了>新菜食主義がやって来た

人々はよく菜食主義者とは、宗教のために、民族のために、あるいはある種の奇怪な習慣のためニワトリ、アヒル、魚、肉のなど動物性食品を食べない人だと理解します。しかし私達の聞いた"新菜食主義者”は、ある種の宗教を信奉しているのではなくて、"クール"であることを演じているのでもなくて、更に大きい魚や大きい肉に飽きたわけでもありません。彼らは身体の健康のため菜食を選んだのです。;彼らは、豪華な都市の中で、菜食を選ぶことで、にぎやかな都市の中で、一種の自然な気持ちを保とうとした;彼らは菜食を選ぶことにより、彼らの生活環境を守ろうとしているのだ;彼らは菜食を選ぶことにより、人類以外のその他の生命の平等な権利をあたえようとしているのです。彼らは自分の生活様式として菜食を選び、彼らは自分の健康を重視することに基づいて、人間以外のその他の生命に対して、さらにたくさんの愛情と尊重をあげるのです。

 

それでは、"新菜食主義者"は私達から遠い存在でしょうか?私達はオフィスビルでホワイトカラーのお姉さんがランチで菜食しているのを直に見ることができます。大学のレストランで、菜食だけを選んでいる大学生が見られます、菜食レストランを出たり入ったりする顧客を見ることができます。 私達は、新菜食主義は本当に来ていることを感じます。"新菜食主義者"は私達の身辺にあり、また少数とはいえ、結局、もう理解できないという人はもういないのだと感じます。多分、ほどなく、菜食は、もっと多くの人の、個人の選択になるでしょう。

 

新菜食主義者は私達に三つの理由を説明しました

1.環境保全

新菜食主義者は「環境を守る」という理由をもとに、彼らは、人々の飲食習慣が私達の生存環境に大きな影響をおよぼすことを知っている。肉類の食物の産業の発展は大量に資源の使用に関係し、大量の動物の糞便を発生させ、環境に対して深刻な汚染をもたらします。具体的に言うと、環境の影響に対しては

水の汚染:家畜を飼育することで、家禽のいる場所で、排出した汚水が、水源を汚染する。

大気汚染:動物の糞便から排出する気体から、大気を汚染するだけではなくて、その上まだ全世界の気候が暖かくなってしまう。

土壌侵蝕:全世界の約40%の穀類、米国で70%を上回る穀類が、家畜と家禽用飼料に用いられる。一斤の肉と卵を生産するため、土地は5斤の表層土壌を失います。

水の消耗:牛や羊を養うためのすべての穀類と干し草は、穀類と干し草の半分は灌漑が必要な土地で育てたと見積もって、牛肉一斤を生産するために、380リッターの水が消耗する。牛の羊を放し飼いにするため、米国西部では、大体10%の土地が、すでに砂漠になった。

エネルギー消耗:野菜と比較して、家畜の生産と運送には、家禽を使うエネルギーは10倍強も消耗します。

 

2.動物に平等な権利をあたえる。

新菜食主義者の一部の人が言うには、彼らが肉と魚を食べない理由は、彼らが動物を殺害することに賛成しないためで、その上、食物を得るために動物を飼育して殺害するのにも反対しています。これらの動物に権利があり、菜食は人と動物の生存権利の尊重を体現していると保護主義者は思います。全世界で毎年殺害させられている動物の数は、世界の人口の七倍です。人類の生活するすべての場所で、至る所すべてで動物を殺害していることになります。

特に現在の工業化によって飼育する方法は、伝統的な飼育方法に取って代わって、人類の肉類の食物に対する需要を満足させている;このようにして、殺害する動物はもっと多くなりました。

 

3.菜食は健康のために有利

菜食は現代人にとって、最も実際的なのは、健康に積極的に影響することです。調査に基づくと、菜食民族は、普通は一般的には皆健康で長寿だ。これらの民族の中では、ある人は110歳を上回ります。しかし肉の食品の消費量のとても大きい国家にあっては、次第に病気と肉を好んで食べることとは、関連があるようになっています。

菜食主義者は、最も健康的な飲食の方法は菜食であり、肉類の食品を少なく食べます。自分の健康のためには、やはり菜食主義を堅持することは良いようです。

 

<閲読><黑熊救命>ツキノワグマが命を助けた

初春のころ、中国の北方にある小さな山村から、一件の奇妙な二ユースが言い伝えられました―ツキノワグマが老何の命を救った。

その日、老何は外からいつものように家に帰ろうとした、約30里の道を歩いて、冬に凍結した河に到着しました。彼は氷上を横切って近道を取りたくなった、すると突然からだの前と後ろから氷面にひびが入る音が伝わってきた、身をひるがえして戻ろうとしたが、すでに間に合わなくて、あっという間に氷河に落ち込んでしまいました。彼の両方の手は迅速に氷層のふち周辺をつかもうとし、上へ登ろうと努力したが、氷は塊ごとに、ひびが入って、彼も凍って感覚がなくなりました。。。。

この時にあたり、老何の耳辺に「ウー、ウー」という叫び声が聞こえたように思うと、彼の体は水から外の方へ引っ張られたと感じました。しかし、彼はもう一度気が遠くなりました。。。。。

太陽はもうすぐ沈み、老何はだんだん目が覚めてきて、自分の体が対岸の地上の上に横たわっているのに気が付きました。

しかし、どのようにして凍った川の中から、自分で出てきたのか思い出せません。この時、彼は二頭のツキノワグマが前方の遠くないところに坐って、彼を見ているのに気が付きました。頭の上に白い毛のある熊は、「ウー、ウー」という声を口から絶えずだしています。

「あ、白だ!きっと白の母子二頭が私を救ったのだ!」老何はなんとか座ると、手を振りながら、大声で叫んだ:

「白!白!」その頭に白毛のあるツキノワグマは、なんと彼の方に向きをかえました。。。。。

 

三年前のある日、老何は山の上で仕事をしていると、突然山の中腹からひとしきり「ウー、ウー」と言う叫び声が聞こえました。その音を耳にして、彼は斧を取って好奇心で歩いていきました。二尺もの大きな一頭の、額に白い毛の生えた小熊が、後肢の一本が石のすきまにはさまれ、必死でいました。彼はまた大きいツキノワグマがちょっと振り返り、未練げに大きい石の後ろの林の中に潜り込んだのを見ました。小熊は人を見て更に怖わがり、必死に叫びました。外へ腿を抜こうとしました。。。。老何はしゃがんで、ゆっくりとそばに行って、斧を使って、熊の足がはさまれた石を壊して、小熊の足を抜き出しました。熊は数歩歩きましたが、また痛さに倒れました。老何は、すぐに小熊を抱いて彼の小屋の中に戻り、念入りに小熊の足に薬をつけて、そして傷口をしっかりと縛りました。小熊は物事をわきまえているように、ゆっくり登ってオンドルの中に着きました。老何の心がこもった治療と看護の下で、間もなくて、小熊の傷は良くなって、あるけるようになりました。老何はご飯を作って、小熊は彼のからだの前や後ろから離れず、山に登って仕事をしているときも、小熊も後ろにぴったりついてくる。老何は本当にこの小熊に好きになって、彼に「白」と名づけた。ある日の夜、白のお母さんがやってきて、小院の中に座り、苦痛でさけびました。家の中にいた白は、急いでぐるぐる回り始めた。老何は、雌の熊が子供を迎えに来てことを知りました。彼はすぐにドアを押し開けて、白を外に送り出しました。それから、何日も白を見ることはありませんでした。老何は深くそのことを考えていました。

 

5日目の夜、熟睡していた老何は、「ウーウー」という声で驚いて目を覚ました。彼は急いでドアを開けると、月光を利用して、白が戻ってきたのを見ました。老何は急いで携帯食品を取り出してそれにえさとしてやり、白は満腹になって、オンドルに跳び上がり昔寝た場所で眠りました。それからは、白は老何の住んでいる所に客人となって、たびたび来るようになり、毎回来る度に、老何は白を満腹にさせました。もし、長い期間白がやってくる気配がないと、老何はご飯を外に置いて白と母の二人にえさをやって、長い期間を経ても、老何と双方のツキノワグマは非常に友好的につきあいました。

今日、老何は夢にも思いつきませんでしたが、彼の生命が最も危険な時に、白の母子二人が彼を救ったのです。

 

<会話><减肥而锻炼ダイエットのための鍛錬

陸雨平、あなたはダイエットするべきだよ。

そうしたいのだけど、どうやって減らすのですか?

鶏、あひる、魚の身を少なく食べるようにして、脂肪を減らすのです。

私は肉食動物なので、肉を食べないようにできるかどうか?

それなら多く運動して、余分な熱消費量を消耗することです。

それならなんとかできそうです。それでは私は明日から、ダイエットするために鍛えます。

さらに、旅行も良い方法ですよ、私は明日旅行に出発します。

どこに行くのですか?

内モンゴル。

ダイエットのため、そんなに遠い場所ところまで行くのですか?

もちろんダイエットのためには不完全です、一つ目には旅行に行き、二つ目には、草原の環境を少しでも見たいためです。

聞くところによると草原で、ある場所では、草がないそうですね。

ここ数年で、人々の肉類の食物への需要がだんだん多くなり、生産高を増やすため、ある場所では放牧する牛や羊の状況が、過度になりすぎて、草原をひどく破壊したのが見られるようになりました。

これはとても危険なのです。

現在、ある場所では草原を保護するため、飼育方法を変えて、牛や羊を飼育場の中で養っています。

その方法はなかなか良いですね。

はい、草原では、気候の変化はとても大きいので、あなたは少し服を多めに持って行けば、寒くなったら着こむことができます。

そうですか、分かりました。

 

56課 <世界交水稻之父袁隆平>

世界の水稲交配の父、袁隆平.

2000219日、中国工学院院士である袁隆平に、中国政府は最高科学技術賞を授与しました。彼は世界”水稲交配の父”で、一生涯、一人の水稲を植える”農民”であり、科学者でした。彼は背が高く、やせていて黒い。外国の記者がかつて彼に会った時、皆は、彼が普通の一人の農民だと思いました。

袁隆平が上手な英語を使って水稲交配を紹介するのを耳にして、彼らはやっと、彼らが”水稲交配の父”を取材しているのだと認識したほどです。袁隆平はすでに、世界に名が知れている科学者だけれども、しかし彼はずっと自身が農民だと思っていました。彼は言う:”私の仕事は、私が農民と同じように生活するように求められているのです。”

袁隆平は1930年に、北京の知識人の家庭に生まれた。父は東南大学の中国語学部を卒業し、父は東南大学の中国語学部を卒業して、かつて小学校の校長になったことがあります。母もかつて先生になったことがあります。だから、袁隆平は小さいときから両親の影響を受けた。特に母の教育は、彼にとってとても影響が大きかった、母は彼に観察を多くするように求め、頭を多く使って、さらに彼は真剣に外国語を学び、これは彼の一生の事業にとって、とても大きい助けとなった。

袁隆平が小さかった頃、とても行動的で、好奇心がとても強かった。彼の母は花を植えることが好きで、部屋の前の花壇は花や草でいっぱいだった。袁隆平は、いつも母が花を植えて、育てる作業を手伝い、彼はとてもおもしろく感じた。 

ある時、学校は学生達をまとめて植物園を見学に連れて行った、草花は満開で、木の果実もいっぱい、袁隆平を深く引きつけた。このすばらしい印象は、ずっと彼の記憶の中で保たれていて、彼の専門に対する選択にさえ影響した。

それから彼は南西農業学院に合格して、作物遺伝育種を専門的に学びました。1953年に卒業した後に、彼は湖南安江農業学校に配置され先生になった。ふだんの仕事は非常に忙しく、教育以外、彼は余暇時間を利用して、かなりの研究を行った。

その当時、資料はとても少ないので、彼は手に入れることができる英文の雑誌から遺伝学の新しい成果を知った。彼が最初に水稲の遺伝を研究し始めたのが60年代だった。彼の夢は、こうだった。”もしも私達の植えた水稲の穂が箒のように長く、粒子は落花生のように大きかったら、どんなにすばらしいだろう。”当然、彼ははっきり知っていた、水稲をほんの一割だけでも増産させることさえも、それはとても困難なことを。彼は堅く決心をして、困難であろうともこの難関を突破しなければなりません。

袁隆平は、かつて取材者に対して言ったことがあった、60年代の初め、彼は、とても太く丈夫な水稲の一株を発見した。しかし、その頃、彼はこれが野生交配の水稲であることをまったく知らなかった。二年目、彼はこれらの種を植えました。しかし、去年のように太くて丈夫な、一株の水稲苗の成長にはなりません。どうしてこのようなことになるのでしょう?

純血種の水稲は分化をもたらすことができないので、ここから、袁隆平は自分が去年発見したあの水稲の苗がおそらく第一世代の自然交雑の稲であることを意識しました。”これは、水稲は雑交配で優位になることはないという伝統理論を打ち破っていたのです”

彼は言う、”これは私に雑交配種を育てるよう、決心を促しているようだ。”この考え方は、革命的性質のものでした。というのは、彼が見た国内外の資料の中で、まだこの問題を話題にしたのを見たことがありません。たとえ世界で最も有名な専門家であっても、まさか水稲が交配で優位になることなぞ、考えつかなかったでしょう

1973年、43歳の袁隆平は彼の夢の一部を実現して、彼は世界で初めて水稲交配で育成した水稲の生産高を、ムーあたりの300キログラムから500キログラム以上にあげた。それから、彼はいっそう努力して仕事をして、生産高をもっと高く、品質がもっと良く、”全世界をも支える水稲こう配を育て上げたいと希望した。

現在、袁隆平はすでに70数歳になったが、しかし彼には休む時間はない、彼の最新の研究プロジェクトは”超級の稲”です。1997年にすでにムーあたり700キログラム以上の目標を実現しました。1997年から、彼の次の目標は1ムー当たりの収穫量800キログラムで、計画は2005年に実現します。研究時間がもっと多くえるため、彼は渡り鳥のように、毎年の冬に寒い長沙からあたたかい海南島に飛びます。一年のうち、彼は三分の一の時間は稲田の中で働きます。種まきから収穫までに、袁隆平は毎日少なくとも二度は稲田に入ります。

中国で、稲田で植えられる半分の以上の稲は、袁隆平と彼らが研究して出来た交配のイネで、全国の水稲を占める年間生産量は総生産量の60%ぐらいを占めます。袁隆平は、中国人は自分でやり遂げ、自分で育種ができると堅く信じています。

40数年来、袁隆平によって、助けられ、生産高がだんだん高くなり、品質のだんだん良くなる交配の種もみで、国家は彼に最高な科学技術賞を授与しました。

袁隆平の研究成果は、全世界をも承認して、2004年に彼は農業の方面の国際最高な栄誉である―世界の食糧賞を獲得しました。

 

<閲読><袁隆平的演袁隆平の講演.

200341日午後、国家の最高科技賞の獲得者であり、水稲の雑交配の父、海南大学の特別招聘の教授、袁隆平院士は海南大学300数名の学生に講義しました。

当日の講座で、袁隆平院士は自分の人生の経歴を振りかえり、事業を求める人に対して最も重要なのは、彼は、「知識、汗、インスピレーション、チャンス」だと言いました。彼によると、博識なのは、成功のための基礎となるそうだ。彼は冗談で言った、自分は初級中学の時、「マイナスにマイナスを掛けるとプラス」になる原理の原因がはっきり理解しなかったため、数学に対して興味を失いました。数学をうまく学べなかったのは、彼の人生で最大の残念な思いで、それがなければ、自分で、まだもっと大きい業績を得ていたかもしれない。というのは、いかなる学科でも、最高度な段階では、すべて数量化が必要なためです。汗に言及すると、袁隆平は言った、書物の中では、小麦や水稲は出てこないので、成功したいと思うなら、必ず汗を流さなければならない。彼は若い人に、必ず、苦しみに耐え、苦しみの中にも楽しみがあり、楽も苦しみの中にあることを学んでほしい。袁隆平は、科学研究員に対して、言った。インスピレーションを得ることも重要だ。彼が言うに、インスピレーションは広い知識、長年の経験、怠らず追求し苦しみの中で思索した産物で、これも成功のための前奏となるとのことだった。

 

<会話><中国粮食安全问题

専門家が中国の食糧の安全問題について話す

1999年から、耕地面積が減少したため、中国の食糧の総生産量は5.1億トンだったのが去年4.3億トンに下がった。食糧の安全の問題は、だんだん人々が重視し始めた。今日、私達は何人かの専門家にお願いして、彼らの見方を話してもらいましょう。

権威部門の予測によると、2030年まで中国の人口は16億まで達するでしょう、1人当たりの食糧消費は400キログラム―450キログラムの計算で、食糧の総生産量は6.4億トン―7.2億トンまで達しなければなりません。耕地減少、水資源の不足、生態の環境悪化などの困難に対しては、30年もかからない期間で、私達はどんなやり方をとっても、3億トン近くの食糧増産するのを実現するべきでしょう?

 

私はこう思う、21世紀以降は、食糧増産は、面積を拡大することに頼ることができなくなります、多く植え、収穫が少ない栽培方法は環境破壊のやり方となり、必ず単位面積の生産量を大幅に向上させる道をとらなければならない。中国で食糧の栽培面積は約10億ムーあり、その中で生産水準が比較的高い耕地は5億から7億ムーあります。もしも中国農業大学が提出した提案を考慮に入れると、中国で一、二、三と熟した地区は、生産水準のわりに高い耕地を年間の1ムー当たりの収穫量で、それぞれ1000キログラム、1500キログラムと1750キログラム―2000キログラムと食糧の高い生産のできる田となり、食糧が年間総生産6.4億トンー7.2億トンを実現でき、さらに戦略目標である、「10億ムーを植えて、16億人を養う」を実現することもできます。

 

私はかなり以前から思っていました、生産力の要因は科学技術なので、トウモロコシの単位面積あたりの生産量を高めることが、第一位なのです。現在、トウモロコシの生産高を改善させるには、主に技術を実現させるかどうかによるのです、客観的に効果を見るため、多くの化学肥料と農薬などを与えて、生産高を増加させる方式に頼ってきたため、これ以上生産をあげるための潜在力はすでに大きくなくなりました。実践が表明しているように、現代では食糧が増産する過程で、技術の要因は35%占め、つまり100斤の食糧を増産しますと、35斤が技術の改良ために増産したことになるのです。さらに予想する人がいて、2020年まで、技術の要因による貢献は、45%まで達するでしょう。

 

専門家の科学研究の成果は、農民の畑で実現していて、中間を転化させる一環が必要となり、それはつまり企業なのです。私がいる研究所が、去年と企業協力して後で、新しい品種の生産規規模が、以前は50ムーの規範を示す田が激増して、現在では何万ムーをあげることができ、生産高は自然に上がりました。

 

各位の専門家の方に感謝します。食糧の安全問題は非常に大きい問題で、後で私達はまた各方面の人を組織して、この問題を引き続き討論していきたい、皆さん関心を持って下さい。ありがとうございます!

 

57課 <初人妻>初めて人の妻となって

婚姻は愛情と関連しているが、ある人にとっては墓だそうだ、ある人は、高めるもので、さらにある人には、結婚後の二年は、婚姻の危険時期と言う人もいます。。。。。

やっと結婚した時、私は自分の新しい家を見、本箱の中で一列一列並んだ本を見ました。あるものはよく知っている本で、それは大学から仕事まで自分で買い始めたものです;ある本はよく知らないもので、それは夫が彼の本箱の中から運んできたのです。休暇だったあの何日間、私は独りで自分の家にいて、なかなか慣れないと感じました。私が慣れないのは、新しいひとつの役です:娘から妻になったという。

小さい時、私の望みは男の子になることでした!あの頃、もしも私が男の子だったら、きっと孫悟空のように、一人も世の中で怖いものなしの男の中の男になると考えていました。ただ、これまで考えたこともないように、ある日結婚して、一人の妻となった。

”妻”というこの語、中学(高校)と大学では、私には自分からとても遠いと、いつも感じていました。寮で消灯した時に、ルームメイトはそれぞれに枕を並べて話をしました。今思い出しても、それは学生の生活の中で最も楽しい時間でした。開いている窓から、月光の外の光が入ってきます、月光の夜空は、私の未来の日のようです。私達の中国語学部の女子学生の寮は婚姻が女性にどんな影響があるかを討論しあった。また、中国の女性の解放の道を議論して、若い女性の知識人と男子の平等について議論しました。。。。私はよくただ聞いているだけで、とても興奮して、あるとき、とても幼稚なコメントを発表した、私より年上の同級生は言った:”若さというものは、恐れを知らないわね。”

 

夏休みに家に帰り、小さいときからいっしょに成長してきた男の子の家で遊んで、彼の傲慢な一言を聞いた。

”良い夫を見つけるため、女の子は大学に行って、妻になるんだ”、私は直ちにドアを開けて、去った。それ以降、彼と会っても、知らない人と会っていると考えた。私は、多分ただ恋愛だけで、結婚しないだけが最も良い生活への道だと考えていた。さもなければ、どうやって独立して、どのように中国の女性の伝統である良妻賢母の道を行かないようにできるのだろうか?

しかし、”愛情”はついに私にやってきました。あれらの恋愛の日々の中で、朝、私は勤務に行き、頭の上には空がいつも青青とし、道端の木はいつも緑がいっぱい、なんてすばらしい日でしょう!だから、このことは、私が以前にやってきた良いことの、見返りだと私は信じている。すぐ引き続き、”結婚”もやってきました。私は自分の家で、独りで本棚の上の本を一列一列ごと見てみると、やっと目が覚めて、本当に危険な時間が始まったのです。 夫は一日の仕事で帰って来ると、私が料理をしているのを見て、彼は称賛した:”本当に私の良い妻だね!”話し終わってすぐ食事を始めます。彼は結婚する前に、私がこれまで食事を作ったたことがないことを知っています。彼は饅頭が好きで、私はご飯が好きです。彼は食卓の上の饅頭を見て、また“本当に私の良い妻だ!”と言う。ご飯を食べ、私は、これはたぶん彼の男性優位な考え方だと考えます、私は一生ただ彼に従って饅頭を食べるほかありません。ここまで考えて、心の中は少しつらい。ご飯を食べ終わって、夫は言う:”あなたはとても賢くて、仕事に出勤し、終えることに満足し、安らかに日々を暮らす必要はない。あなたは書いてみたらどうですか。”しかし、私は何も聞こえないように、ただ部屋いっぱいに広がった落花生油の味を嗅いで、繰り返し家庭の中の男女平等な問題を考えています。

 

ある日、夫は大学の中の友達が集まると会があると言う。彼が行った後に、私は家でただ待ちます。開いていると、窓の外はだんだんに静かになり、他の人の家のテレビも早めに切られたが、彼はまだ帰って来ません。私はゆっくりやきもきして辛くなり、ついに怒りはじめました。みんな出て行った!私は服を着替えて、表門を閉じて街に出て行った。

街には人がいなくて、公共のバス停にも一人もいません。私は街を一回りして、また家の玄関に帰ってきました、私はこう想像しました、夫はきっとやきもきして私の手を取って聞くでしょう:”どこへ行っていたのですか?こんなに遅く出て行って、悪い人に出くわしたらどうしますか?事故が起きたら私どうしましょう?私はどうやってあなたの両親に説明できますか?”私は突然言う:”みんなは友達と会う自由があるじゃない。”しかし、私が玄関の戸を開けても、夫はまだ家に帰っていません。

 

翌日、一人の編集者が私に向って原稿の寄稿を依頼した、電話は両親の家に来て、お母さんがつないだのだった。お母さんは私に電話をかけ言った:”あなたは自分の一生懸命に作り上げた事業を失くさないで。あなたやっと25歳なのだから。”私の心の中はとても乱れていて、仕事がひけて家に帰ると、お腹が空腹なままものを書き、度々怒って厨房を見て、考えた、男女平等で、今日は、夫がご飯を作るべきだ。夫は重い足どりで上へ上がって、部屋の中に入り、驚いて聞いた:”病気にかかりましたか?まだどうしてご飯を作らないのですか?”

私は言った:”私はご飯を作っていないで、文章を書いているの。”男女平等のために、その時私は本当に夫と少し喧嘩しようと考えていました。夫はちらっと私を見ると、ブリーフケースをおろして、厨房に入って、ご飯を作り始めた。しばらくして、夫は小さな声で私に言った:”食事ができたよ。”

私が作ったのではないご飯を食べ終わると、私は”平等”の感覚が少しもなくて、心の中に、何か詰まっているようでした、特に夫が一日忙しく本を読んでいるのを見て、彼の眉間にひっきりなしにしわがよるのを見て、ランプが彼の大変さを映し出して苦しみが消えることも、情熱が終わることもないという彼の内心をも映し出しているようです。私の心の中に一種の暖かいものが灯火のようにいっぱいになるのでした。私は今の感覚が”平等”なのだということが分かります。妻になって、自分の夫を深く愛し、暖かい感情で自分の夫のめんどうをみる、彼女は精神の上で”平等”なのです。ここにはやさしい愛が満たしていて、これは世界中ですべての平等の中でも、最も良いものです。

 

<閲読><小两口客>若い夫婦のご馳走

春節を早くも過ぎて、私達2人は結婚後初めて家庭で宴席を設けることを決めた。

しかし、私たち二人、どちらもご飯を作ることはできないので、どうしたらよいのでしょう?今、学べばよいのだ!私の先生はもちろんお母さんになった。 彼女は先に私に熱を用いた料理の方法をいくつか教えた、たとえば比如芋扣肉,松鼠,麻婆豆腐,苦瓜炒肉片儿、青菜を炒めるなど。その他の冷菜は、スーパーマーケットで売っているので、買って持ち帰って皿の上に置く。

彼は友達家へ行って、アドバイスを請い、私は彼に幾つの料理法を学んだのかと聞くと、彼は言う:”一つ”。私は聞いて、心の中でひそかに喜んだ。私達は仕入れ始めた、それぞれ各料理を買った、彼はただ一つの料理だけしか学ばなかったが、しかし彼が買った大小の包みの種類は、少なからず、私が買ったのよりもっと多かった。

 

私達は、正月の初五に、ご馳走すると決めて、初四に私はすぐ準備し始めた。私は出たり入ったりと忙しく、彼は普通と同じように、まだ新聞やテレビを見ています。私は思った:もっと早く準備しないで、明日あなたはどうやって招待した客をもてなすのですか?

 

初五のその日、私達が招待した客は、皆来ました。宴会が始まって、テーブルの中間には火鍋があり、鍋の中には白湯がある。鍋の周りには温めた料理が並べてあり、いっぱいになりました:魚の甘酢かけ、サトイモの角煮、マーボ豆腐、ニガウリ肉炒め、青采炒め、さらに、いくつかの冷菜。私からすると、見た目と香りと味は”全部”そろった。私は客の称賛を待っていました。

 

客は食べながら、おしゃべりをし、彼は行動し始めた、まず火鍋のスープを入れ、さらにキクラゲを入れ、またニンニク粉末を入れ、しばらくして、みんなの箸は火鍋に伸び、羊肉のしゃぶしゃぶを始め、食べながら、しきりにほめる。少しを食べて、彼はさらに粉を入れ、また少し食べ、彼はさらにハクサイを入れる。。。本当にその味は尽きることがなく、その楽しみも尽きることがない。みんなはコップを挙げて言う:”火鍋を作ってくれて感謝する、あなた達の生活がだんだんに盛んに良くなるように。”

彼は、ただほほえんで、そばに立って言う:”ありがとうございます、みなさんもっと食べて下さい。しかし、私が作った温かい料理は、誰も少し食べただけで、ひとつの”冷菜”となりました。

 

<会話><物>ショッピング

隣近所から聞いたら、スーパーマーケットで、息子が食べたい魚の頭が売っているって、あなた、2斤買いに行ってくれませんか?

良いですよ、奥さんは私を買いに行かせるとき、私があえて行かないなんてことなかったでしょう?今すぐ行きます。

(先生が急いでスーパーマーケットに行く)

お母さん、お父さんは?

彼にスーパーマーケットまでに魚の頭を買いに行かせました。

彼の耳はあまり良くないのに、どうしてまた、彼を買い物に行かせたのですか?彼に醤油を買わせて、彼は白酢を買ったように;彼に魚を買わせたら、彼は肉を買ってくるのですよ。

お父さんが買い間違いをしても、それでもうれしいのです。私は彼を歩きに行かせかったのですから。

待ってね、お父さんが今日、私達に何を買って帰って来くるかを確かめてきますから。

(少しを過ぎて)

帰って来たよ。今日のスーパーで売っていたサトイモがとても良かったよ、とても大きく、またとても安かった。私はすぐ5斤買ったんだけど、どうですか見てください?

私はあなたに魚の頭を買いに行かせたのに、またサトイモを買ったんですか!前回買ったサトイモはまだ食べ終わっていないのに。

今日、また買い間違ってしまった、それでは私達は何度かサトイモの角煮を食べましょうよ。

おとうさん、あなたのは、”ショッピング”ではなくて、これは”買い間違い”です!

そのようですね、しかし、どうしてまた、いつも私を行かせるのですか?

あなたを行かせなければ、誰を行かせるのですか?私はこんなに忙しくて、お母さんの足はよくありません。

私をショッピングに行かせるが、しかし、毎回あなた達は気に入らないじゃないか。

おとうさん、怒らないでください、私達は気に入らないのではありません。他の人が買い物に行くと、ただショッピングメモに従って(買う)だけなのですが、あなたが、買いに行くのが最も適切です。(というのは、買い物で)あなたは体を鍛えて、さらに家族に、思いがけない喜びを持ってくるのだから。

 

58課 <背影>後ろ姿

私と父は会わないようになって、すでに二年余りです、私が最も忘れることができないのは彼の後ろ姿です。あの冬、祖母が死んだ、父は仕事を(他の人に)引き継ぎした、不幸は重なるもので、私は北京から徐州まで、父に従って肉親の喪に駆けつけ、家に帰るつもりでした。

徐州に着くと父に会い、建物(院子)の中が雑然としているのを見ると、また祖母を思い出して、思わずはらはらと涙を流しました。

父は、「物事はこのように、現在困難であったとしても、いつもまでも困難なわけではない!」と言った。家に帰って金に換えられる物を換金して、父は負債を返しました;また金を借りて葬儀をしました。このころ、家の中の光景はとてもうす暗かった、半分は葬儀ゆえに、半分は父が失業したためです。葬儀をすべて終わって、父は南京に仕事を探しに行き、私も北京に帰って学業します。私達は一緒に同行しました。

南京に着くと、友達がいて、歩きまわりました。一日とどまりました;二日目、午前中に河を渡って浦口に着き、午後には乗車して北に行く。父はやる事が忙しく、私を見送れないことが確かなので、私に付きそわせようと、よく知っているウェイターを旅館まで呼んだ。彼は再三ウェイターに言い聞かせ、とても注意深い。それでも不安そうだ、ウェイターを心配するのは適切ではなかったが;少し躊躇した。

実は私はすでに20歳で、北京とはすでに二三度往復したことがあるので、緊張することは何もないのだが、彼はためらった。ついに自分でも私を見送ることを決めた。私は二三回彼に行く必要はないと勧めました;彼は、心配ない、彼らではうまくいかないと言うだけ。

私達は川を横切り、駅に入った。私は切符を買って、彼は荷物を見張るのに忙しい。荷物は多すぎ、ポーターにチップを払わなければならない。やっと行ける。彼は彼らと値段を言うので忙しい。あの時私は本当に賢明過ぎて、いつも彼が話をするのがあまりかっこよくないと感じ、自分から口をはさみませんでしたが、彼はついに値段を決めて、私を乗車させた;彼は私に車のドア近くの椅子を選んで決めた;私は彼に私の作った紫色のウール製のオーバーを席に敷かせた。彼は私に路上では注意し、夜は警戒心を高めて、冷えないようにしなさいと言った。また信頼できるウェイターに、私の世話を頼んだ。心の中では、父の時代遅れに苦笑した;彼らはただお金だけのためで、頼めるのはディケアだけです!その上、私はこんなに年齢がいっているのに、まさか自分の面倒がみれないわけがない?ああ、私は今思うと、本当に賢すぎました!

 

私は言った、「お父さん、もう行っていいよ」。彼は車外をちょっと見て、言った、「いくつかミカンを買ってくるよ。あなたはここにいて、歩き回る必要はないから。」プラットホームの柵外で顧客を待っている物売りを見かけます。プラットホームまで歩いてゆき、鉄道を横切らなければならない、跳び降りて、また登って行かなければならない。父は肥っていて、歩くと自然と手間がかかる。私が本来行くべきなのだが、彼は承知しなかったので、彼に行かせるほかはない。彼が黒布の小帽をかぶって、黒い布のジャケットを着て、深青色の綿コートを着ているのを見た;よろめき鉄道の辺まで歩きつき、ゆっくりと身体を伸ばして行くが、まだ大きな難儀ではない。しかし鉄道を横切って、プラットホームに登ると、容易ではありません。彼は両手で上によじ登って、両足は再び上へ縮める;彼の太っている体が左へ小さくて傾いて、努力している様子がわかります。

このとき、私は彼の後ろ姿を見ました。私の涙はすぐに流れました。私は急いで涙を拭いて乾かし、心配しながら見ると、他の人も心配し見ています。私が再び外を見ると、彼はすでに朱色のミカンを抱いて戻ってきます。鉄道をまたぐ時、彼は先ずいくつかミカンを地面に落としました、自分でゆっくりとおりて、(落ちたミカンを)再び抱いて歩いてきます。こちらに着くと、私は急いで彼を腕で支えた。彼と私は車の上にたどりつき、ミカンを一気に私の皮のコートの上に置いた。そこで衣服の上に土がすこし飛び、心理はほっとして、少し経ってから彼は言った。

「私は行かなければ、;あちらについたころ手紙が着くよ!」私は彼が歩いて出てゆくのを眺めた。彼は数歩歩いて、振り返って私を見、言った、「中へ入っていなさい、中に人が少ないうちに。」彼の後ろ姿が行き来する人の中にまぎれこむことを待ったら、再び探し出せなくなった、私はすぐ座り込み、また涙がでてきました。

ここ数年来、父と私は二人とも東西奔走しているので、家の中の光景は日々乱雑になった。父の少年時代は外へ出て生計の道をはかり、単独で支え、たくさんの大事(仕事)をしました。以前のそういった環境の中で、やる気をなくしました!彼は目に触れるものが悲しくなり、自然な感情で自分を抑えることができなくなった。感情が落ち込む中で、自然に外に発散させなければなりません;家庭の些細な事は、しばしば彼を怒らせた。彼はだんだんに以前とは異なってきました。

しかし、ここ二年間会わないので、彼はついに私の良くなかったことを忘れてしまい、ただ私を気にかけて、私の息子を気にかけるようになりました。 

私が北へ来た後で、彼は私に手紙を書きました、手紙で言うには、彼の体は無事で、ただ上腕の痛みがひどく、箸を挙げて筆を取り、不便があるので、だいたい、死ぬ時期は遠くないだろう。私はここまで読んで、きらきらと透明な涙が光る中で、またあの肥満の体と、青布の綿入れコート、黒い布の短いジャケットの後ろ姿。ああ!私はいつ再び彼と出会うことができるのか分かりません。

 

<閲読><儿女常回家看看>息子と娘はいつも会うために家に帰る

ここ数年来、「いつも会うため家に帰る」と呼ばれる名前の一曲が、中国にあまねく伝わっている、人々の最も好きな流行歌の中の一つになった。この歌は人々に一つのとても重要な問題を気づかせる:息子や娘として、あなたは家に居る老人に関心がありますか?彼らの生活、彼らの気持ち、彼らの大変さに関心がありますか。。。。?

夏おじさんの連れあいは十数年前にすでに亡くなって、彼の唯一の娘は、まだ遠い上海で仕事をしています。この80歳の老人は、独りで西安の小区にある二階建ての上の階に住んでいます。ある日の朝、彼は突然気絶して倒れました。目が覚めた後に、彼は立ち上がるが、力がはいらず、電話もかけられず、さらに叫び声をだすことができません。。。。

彼の心中では理解できたが、もし誰もドアをたたいて彼を探しに来なければ、彼はただ死ぬことを待っていたでしょう。彼はドアの外を人が歩く足音を耳にすることができ、それはなんどもあの足音が(彼のドアで)停まることを望みました!しかし足音は、いつも近くから遠くへと、一度、また一度と。。。。夜になって、奇跡はついに現れました:娘がドアを開けて歩いて入ってきます。彼は夢を見ているようで、思いもしませんでした、

半年も会えなかった娘が、今日偶然にも出張して西安に着いたのです。

夏のおじさんのこのような「空巣家庭」は、現在中国でだんだんに多くなっています、すでに人々がたいへん関心を持つ社会問題になりました。少し以前に、またこのような事件が一件発生したことがあります、70数歳の王先生は自分の三人の息子と娘を法廷に訴えて、息子と娘達から扶養費が必要なのではなくて、彼らに家に帰ってくることを要求しました。

王教師には、二人の息子と一人の娘がいて、皆すでに結婚して家庭を持って、老人と離れて住んでいます。老人は毎月1000数元の年金を受け取ることができ、三部屋のある家に住んでいて、体もまだ良く、さらに自分で自分の生活をめんどうがみることができる。そのため、他人からみると、彼女の生活は充分幸せだった。しかし、しばらく前に、王先生は三人の子女を法廷に訴え、三人の子女に扶養義務を履行するように求めた。当の三人の子女はこの件を知った時、彼らはたいへんびっくりした。息子と娘達は思った。:母は食べて着るのを心配する必要はないのに、どうして私達を法廷に訴えるのですか?

法廷では、王先生は自分の本音を言い出しました。彼女は言った、私が三人の子供に訴えたのは、彼らから金が必要なためではない、私の唯一の要求は彼らに家にもどって私に会ってほしく、私に付き添って世間話をしてほしいのです。連れ合いがちょうど亡くなった時、彼らはまだ、よく帰って来てくれました。それから、来る回数はだんだん少なくなって、二三ヶ月に一度来るだけです。よく少し話をしないで行ってしまいます。

心中は、特に嫌な感じがするのです、私は孤独なことが嫌で、そのため、彼らが私に付き添うことができることを望むのです。三人の息子と娘が老人の話を聞き終わった後に、皆涙を流しました。彼らは司法官に対して言った、私達の仕事はとても忙しくて、しかも子供の勉強の指導も必要であるため、行く時間がとても少なくなりました、その上、いつも母は何も不足しいないと思って、ふだん電話をかけて、少し挨拶できたので、老人との交流を見落としました。三人の子女は司法官に向かって母の方に向かって謝罪し、そして相談して毎月一定時間、老人といっしょにいることを決めました。老人が幸せな晩年を過ごさせるのを保証します。老人は聞いて、笑って言った:司法官、「私は訴えません」、彼ら一家は楽しく家に帰りました。

司法官も満足に笑いました。彼は仕事に忙しくとも、両親と分かれて住む息子や娘達が常に必ず家に帰って見なければならない事が大切だと言う事にきがついたことでしょう。

 

<会話><核心家庭的问题核家族の問題.

現在、若い人は結婚の後でも、両親と一緒に住むのですか?

これに対して言うのが難しい、というのは現在の情況が以前とは異なるためなのです。

以前はどんなでしたか?

以前は、一般にはどこも大家族で、息子が結婚した後では、両親と一緒に住みました。両親が老いると、身辺を息子が面倒見ます。

;もし息子に子供があったら、両親も少しは(子供の)面倒をみる事を手伝うことができます。人々は常に”四世同堂”は幸福の家だと称賛しました。

現在はどうですか?

現在の情況は異なっています、多くの若い人は、結婚後、自分の小さい家庭を望んでいます、核家族なのです。

彼らは両親と一緒に住むことがあまり好きでありません。

この事は、西洋とたいして違いがありません。

こうなると、新しい問題があります。

どんな問題ですか?

老人によっては、とても孤独だと感じても、息子や娘が常に彼らに会いに来ることはできないのです。

どうしてですか?

息子や娘達は仕事忙しいし、家事を切り盛りして、また子供のめんどうをみなければならないので、時には老人との交流を粗末にしてしまうのです。

だから、ある母親は、子女を法廷に訴えたのです。

本当ですか?

これは私の書いた報道の一編で、見てみなさい。

 

59課 <十八年的秘密>18年の秘密

19985月、私は緊張して大学入試に受ける準備をしていましたが、お母さんが突然病気になり、その上、母の病気には大変重いものでした。

彼女は病院に入院しました。父は青年報の編集長で、仕事は非常に忙しい。しかしどんなに忙しいにも関わらず、彼は自分の手でチキンスープを作り、お母さんが最も食べたい料理を炒めて病院に送りました。私は父のお母さんへの愛に感動させられました。たぶん、他の人の眼には、お母さんは教養も何もなく、普通の女性労働者で、彼女とお父さんはつりあっていないと思ったでしょう。

しかし、私は知っています、彼らの間のギャップはどれぐらいあるのにも関わらず、彼ら二人とも深く愛し合っています。私は私達の家が世界一最も幸せなことを知っています。

しかし、このような幸福は、太陽が光り輝いているのに、午後突然なくなりました。その日に私と同級生の陳麗は本を買いに本屋へ行きました。私は偶然道にも道端にあるバーを見て、しかも、その情景を見て、私はぽかんと驚きました、もし自分の眼で見なかったら、どんな事を言われたとしても、信じなかったことでしょう:父はバーの中で座って、彼の向かい側には一人の40数歳の流行の服を着た女性が座っていました。その女性はハンカチを使って目を拭いていました、もう一方の手は、父の手の中にありました!陳麗も見て、彼女は静かに言った:”芸芸、あなたのお父さん、一人の女性といっしょにいるね。”

それ以降というもの、私は父を無視するようになりました。彼は依然として毎日病院に来て、依然として毎回行き来するのに慌ただしくしています。彼がお母さんと私にどのように関心を持とうと、私は自分の原則をしっかりと守って―彼を無視します。私が父に対して、冷淡なのを母さんさえ気が付きました。ある夜、父がいない時、母は私達を見て昔のことをやっと話した;”芸芸、もしもある日お母さんが本当にあなたから離れて(亡くなる)しまったら、あなたはお母さんに何が発生しようと、永遠にあなたのお父さんを愛するって一件約束して。”

私が七月の大学入試を受けた後、お母さんは亡くなり、永遠に私から離れてしまいました。お母さんは(あの世に)行ってしまい、父もやせました、彼は口数が少なくなりました。

誰が彼の心中がどんなに悲痛なのかわかるでしょうか。しかし私は依然として彼を無視し、自分で部屋の中で、閉じこもりました。

お母さんが亡くなって、二週間後のこと、ある午後、父は早く帰って来て、私を見つけ言いました:”芸芸、私はあなたと話しあいたい。あなたはずっと父さんのことを怒っているのではありませんか?”私は頭を低くして坐っている。この時、テーブルの上の電話が鳴った。私は当然のように受話器を取った。”ちょっとお聞きしますが、先生ですか?”私の父宛の電話です。私は分かっていました、間違いなくその女性です。私は受話器をテーブルの上に置いて、立ち上がって大きい目で父をにらみんでいました。父はすぐ電話を受け終わって、何か思いついたように、私に対して言った:”芸芸、これはお父さんの数年前の良い友達の一人で、半年前にちょうど米国から帰って来たのです、彼女はあなたと知り合いになる機会がほしいと言っている。”私はものを言わずに、また自分で部屋にはいり、閉じこもった。

間もなくて、私は北京大学の入学通知書を受け取りました。その時、私はすぐにでもこの家を離れたくて、また父にも会いたくありません。私は簡単な荷物に持って、北京行きの列車に着席しました。北京に着いた後に、父はしばしば私に手紙を書きましたが、しかし私は一通も返事を出したことがありません。

時間が経つのは本当に早く、あっというまに、第一学期が終わりました。ある日の午前、守衛が私のドアをノックして、言うには男が一人、手紙を彼に私宛に預けていったそうです。

私が手紙を開けると、なんとまた父が書いた手紙でした:

”芸芸、私はあなたがずっとお父さんに会いたくないこと、またお父さんに返事を出したくないことも知っています。しかしお父さんは一日も、あなたを思わない日はありません。あなたは私に対する誤解があまりに深く、このように冷淡になったのでしょう。芸芸、あなたのお母さんが亡くなる前に書いた手紙をあなたに見せるべきかどうかずっと考えていました。この手紙は、私とあなたのお母さんと苦心して18年に隠した秘密を明かすための手紙です。私はその秘密があなたを苦しませると恐れていました、だからぐずぐずしてあなたに知らさなかったのです。芸芸、お父さんは本当にあなたを思って、ついに北京までやって来ました。お父さんはあなたに対して言います:あなたは永遠にお父さんの唯一の娘です。”

封筒の中には、確かに整然と折られた一通の手紙が入っていました、お母さんが書いたのです。彼女はこう書いています:

19年前に、一人の若い軍人が新婚の妻に別れを告げて辺境の防衛前線に行きました。その時、父は一人の記者でした。

ある日、父は普段のように国境の警備の陣地に取材に行きました。わからないものだが、彼が写真を取っていた時、大きな石の塊が山の上から転がって落ちてきました。この危機一髪の瞬間、その若い軍人は父の体の上に倒れこみます。父はただ軽傷を受けただけでしたが、自分の安全を顧みないで、あなたの父を救助した若い軍人は、身を犠牲にしました。二ヶ月後に、父は辺境の防衛前線から戻ってきました。彼は若い軍人の遺物を持って、重慶でその軍人の妻に会いました。その時、彼女はもうすぐ子供を生むところでしたが、(生まれても)小さい頃から孤児となり、身の回りには身内が一人もいません

彼女のそのような物寂しい情景を見て、父は彼女の面倒をみるために重慶に残ることを決め、もう西安に帰りません。子供はすぐに生まれて、女の子でした。二ヶ月後で、父は恩人の妻と結婚しました。ここまで読んで、私は理解できました、と同時に驚いてぽかんとしました。恩人の妻はお母さんで、娘は私で、それに自分を捨てて人を救った若い軍人が私の父なのです。現在のお父さんは、私の養父!

お母さんは引き続き書いている:

”芸芸、あなたにもう一件教えなければならない、このことは、私があなたのお父さんと結婚して二年後にやっと知りました。あなたのお父さんは私と結婚する前に、すでにガールフレンドがあって、彼の大学の学友だった。彼らはとても深く愛しあって、もともと西安に帰って結婚するつもりでした、しかしあなたのお父さんが放棄したため、彼女は苦痛のあまり米国に行きました。それから彼女はやっとあなたのお父さんが離れた原因を知ったのです。18年来、彼女はずっとあなたのお父さんを忘れず、彼らの友情は純潔です。実は、あなたのお父さんに対する誤解を、私達は陳麗から知りました。しかしあなたのお父さんは、私に言わせませんでした。あなたの大学入試に受けるのに影響することを、恐れたのです。私はもうすぐあなた達と離れます、やっとこの手紙を書くことを決めました。。。。。”まだ手紙を見終わっていなかったが、私は泣き叫びました:”お父さん、私は間違っていました、私は永遠にあなたを愛します。”

 

<閲読><不知送的>誰が送ったかが分かりません

秋月という人が働いている仕事上での単位はとても大きく、数千人が働いています。秋月が単位の中でよく耳にするのは、誰が誰の恋人で、あるいはだれそれも恋人のうわさがあるということです。話が始まると、秋月はとても新鮮なことだと感じますが、聞くのが多くなると、彼女はつまらないと思いました。

ある日、一人の同僚と秋月は冗談を言います:”あなたの旦那さんはあんなにイケメンなのだから、恋人がいるのではないですか?”秋月の顔は赤くなり、言った。:”まさか、私の旦那さんはそのような人ではありません。”秋月は口ではでそのように言ったが、心理はその事を気にして、思わず暗く考えこみました、夫の手には権力が少しあり、ポケットの中にも金が少しある、イケメンの男に属して、彼は恋人がいないなんてことがあるだろうか?

週末の晩、食事をしながら、秋月は旦那に聞いた:”家英、あなたには恋人がありますか?”

”いないよ。”

”あなたのような男が、恋人がいないなんて、誰が信じますか?”

”他の人が信じるとか、信じないは関係ないよ。あなたさえ信じてくれればそれで良い。”秋月はそれを聞いて、心の中が蜜を飲んだように甘かった。しかし、彼女は旦那さんが言ったのが本当の話かどうか分かりません。バレンタインデーのその日、新鮮花屋の人は家英にバラの一束を送り届けました。花の中に一片のメモがあって、こう書いています:”楽しいバレンタインデーを!”しかし署名がなく、ただ書いてあるのは:”一人黙々とあなたを好きです。”家英の同僚達は笑って聞きます:

”どこの恋人が送って来たのですか?”家英はそこに立って、どう言ったら良いか分かりません。彼もとても奇怪なことだ思い、この花は誰が送ったのでしょうか?この事を、もし嫁さんが知ったら、彼女はどう考えるだろうか?

家英は仕事がひけて家に帰った、彼はドアから入ると、秋月は聞いた:”今日はバレンタインデーでしょ、誰か他の人が送った生花を受け取りましたか?”

家英は小さな声で答えた:”ありません。”

秋月はまた大声で尋ねた:”本当にありませんか?”

家英はただ正直に言った:”赤いバラ一束を受け取ったが、誰が送ったか知りません。本当のところ、私は元来あなたに教えたくない、いらぬ疑いをいだくのではないかと恐れるからです。あなたは私に尋ねたので、すぐ言うほかはなかったので。”

秋月はほほえんで言った:”これは正直に言いますね。私のイケメン、あなたに教えましょう、赤いバラは私があなたにあげたのです。私はあなたにまさかと思うような喜びをあげたかったのです。”家英は喜んで言いった:”天よ、丸一日私は’まさかと思うような喜び’にひたっています。”

 

<会話><《梁山伯与祝英台》(段)>《梁山伯と祝英台》

(伝統的な演劇の抜粋個所)

とても暑いね、ぼっちゃん、ここから杭州城までどれだけ遠いですか?

まだ18里もあるよ、休みましょう!

見て、人が三三五五群れをなしているね、なんとにぎやかなのだろう!俺達、二人とも、あいつらについていったらどんなに良いだろう。おーい、あなた達はどこまで行きますか?俺達は杭州城まで勉強しに行くのです。

あ!あなたは勉強に行くのですか。

おれは、ちがう、おれは、ぼっちゃんだ。

なんてうれしいんだろう、私達も杭州城に行って勉強するんだよ、お姉さん―――

姉さんは、家に居ます、あなたは彼女のことを言うの!

私は、お姉さんがもしも私達といっしょに勉強しに出て行くのなら、なんとすてきなのだろうと思っています!

そうですか!

こちらの兄いからどうぞ。

どうぞ。

どうでしょう、兄いも杭州城に行って勉強してもらえますか?

はい、兄い、あなたもですか?

そうです、ちょっとお聞きしますが、ご尊名は。

弟分の姓は祝といい、祝英台と言います。

よ!祝兄い。

恐れ入ります。まだ教えてもらっていませんが。。。。。

私は梁山伯と言います、私達が路上でめぐり会うなんて、本当に縁がありますね。

兄い、いろいろ指導してください。

いやいや、こちらの兄さんの話を聞くと、あなた家には、勉強したいお姉さんもいるとか。 

兄い、あなたは知らないかもしれませんが、家にいる妹は本を読み文章を書くことが好きなのです、しかし父親は彼女が一緒に杭州城に行って学ぶことを賛成しません。

男女は平等であるべきで、女子を学校へ行かせないのは、人情がないね。

私は天下の男子も皆同じだと思っている、兄い、が女子のために義憤を抱くのはめったにないことだ。

弟分である私が口を開くと、話をするにはふさわしくない。

率直に言ってください。

それで私は率直に言いましょう。もしあなたが嫌でなければ、私はあなたと義兄弟の契りを結びたいです。 

私達は縁があってここで契りを結びます、そのため私達は実の兄弟のようにいっしょに学ぶことができる。しかし線香とろうそくがない、

どうしようか?

大丈夫、私達は線香に代えて柳を挿し込みましょう。ちょっとお聞きしますが、兄い、あなたは今年、年は、いくつですか?

私は十六、あなたは?

十七。

私はあなたを兄貴と呼びます。

私を弟として扱いください。

 

60課 <珍珠真珠鳥

なんてすばらしい!友達が私に一対の真珠鳥を送ってくれました。簡易の竹かごの中に置いた、かごの内に干し草があり、それは小鳥にとって心地良く、またあたたかい巣になります。

ある人によると、人を少し怖がる鳥だと言う。私はそのカゴを窓の前に掛けた。そこにオリズル蘭がフランス式の鉢で育っていて、蘭の緑葉がカゴにかぶさり、二匹がジャングルに隠れ安全のようです。中から、細く高い声が聞こえます。特別に気持ちよくリラックスしているようです。

太陽が窓の外から射し込み、ここまで光が透り、蘭の葉っぱが、半分は黒影となり、半分は光が透き通っていて、まるでヒスイのようです;繁茂した緑です。小鳥の影はこの中間できらめいて、見てもはっきりしなく、時にはカゴさえ見てとれないが、彼らのかわいく、あざやかな赤い嘴が緑の葉から伸びてきます。

私は彼らを見るために、少し葉をよせました。彼らは私を見るために、だんだん大胆に小さい頭を伸ばしてきた。私達はこのように少しずつ知り合いになりました。

三ヶ月以降に、あの更に繁茂した緑の葉の固まり中から、か弱い叫び声を出しています。私は、それらは雛がいるのではと思いました。私はどうしたか?決して葉をめくって中を見ません、食を与え、水を加える時さえ驚かさないようにしました。それほどたたないうちに、突然、葉の間から小さい頭が伸びてきました。更に小さい、ひな!正にこのチビです!それは小さくて、簡単に竹のかごの中を行ったり来たりすることができます。見てごらん、なんと母親に似ています:赤い口赤い足、ブルーグレーの毛、ただ背中はまだ真珠のような丸く白い点が生えていません:それは良く肥えていて、全体の身体が絨毛のボールのようです。

最初に、このチビはカゴのそばで活動はじめ、それから家の中を飛びたち、飛び来る。しばらくサイドボードの上に降りたち、本棚の上に留まり、本の背にある字をつっつき;しばらくしてランプコードをぶつかって何度も揺れ動き、引き続いてまた絵の額縁までジャンプしました。大きい鳥がかごの中で怒って一声叫ぶと、それは直ちにカゴの中に飛び去ります。

私は気にかけないようにしました。このように時間が経つと、窓を開けても、それは最多でも、窓枠の上でしばらくただ立つだけで、決して飛びたちません。だんだんそれは大胆になると、私の机の上に降りてきます。それは私から比較的遠く離れ、私が彼を傷つけないとわかると、ほんの少し近寄って、その後、私のコップの上まで跳んできて、うつむいて下にある茶を飲み、斜めに顔を見て、私の反応を見ています。私はただ微笑して、依然としてものを書いています、さらに大胆になり、テーブルの上を走り、私のペン先の周りを動き回り、跳び近寄り、跳びさります。私は顔色ひとつ変えずに書いていて、黙々としてこのチビの友好的な愛情を楽しんでいます。このように、それは全く安心して、小さくて赤い口で私のペン先をつっついています。私は手でその絨毛をなで、それも恐がらず、かえって友好的に二本の私の指をつつきます。

ある時、それはなんと私の空いているコップの中に跳び込んで、ガラスを通して私を見ています。それは私が突然コップの口にフタをかぶせても怖がらないでしょう、はい、私にはできません。昼間、それは、そのようにいたずらっ子のように私の傍にいます。日がもうすぐ暮れて、それは両親の再三叫び声で、かごに向かって飛んでいき、まるい体を揺らしながら、それらの緑の葉を開いて潜り込みます。

ある日、私は書いている時、それはなんと私の肩の上に降りてきました。私の手にもったペンは思わず止まって、それを驚かして逃がさないように。少しを待つと、頭をまわして見て、このチビはなんと私の肩先で寄りかかるように眠ってしまいました、銀灰色のまぶたで瞳をしっかり覆い、小さくて赤い足はちょうどとても長い絨毛で覆われています。私はそっと肩をもちあげても、それは目が覚めません、よく眠っています!

私はペン先を動かすと、一時的な経験を書いています。:信頼は、すばらしい境界を作りだします。

 

<閲読><美猴王>覧猿王.

東勝神州、という海外に一つの場所があり、名前を傲来国と言います。それは海に接していて、海の中に名山が一つあって、花果山と呼びます。

山頂の上に、ひとつの仙人の石があって、仙人の胎児を抱いています。ある日、仙人の石は裂けて、1つの石の卵を産みました、円球は、大きなものでした。風に出会うとそれは、石猿に変化しました。 その石猿は山中にあって、歩き跳ね、野草の果実を食べて、泉の水を飲んで、一群のサルと一緒に遊びました。

ある日、このサルは少し遊ぶと、熱いので、小川の中で泳ぎます。サル達は言った:"この河の水は多いが、どこから流れ来ているのですか?私達は今日なにもすることがないので、河の水に沿って上へ歩き、川の源流を探しに行きましょうよ。"老サルは、大きな声で叫んだ:"行こう!"サル達は子供を連れていて一緒に上へ行きます。彼らは何度も山を越えて、以前は大きい滝だった、小さな川の源流を見つけだした。サル達はうれしさのあまりほえ、叫んだ:"良い水!水だ!ここは高山が連なってまた海に通じている。”老サルは言う:"あの(滝の)中に入ってみることができて、その上、体を傷つけなかったら、私達は彼を王にしよう。" 彼は三遍言うと、突然石サルがサルの群の中から跳びでると、大声で言った:"俺が入る、俺が入る!"

石サルは目を閉じると、身体をしゃがめ、力いっぱい中へ跳びこんだ。滝の泉の中に跳び込んで、眼を開けて、頭を上げると、そこのまわりには水がなく、1本の大きい鉄の橋でした。橋の下の水は、石が縫う中から逆流してきて、滝になっています。橋の門は覆い隠されている。石サルは橋のたもとに上がって、あたりを歩き、あたりを見回す。ここは人が住んでいるような、本当に良い場所だ!

石サルは橋の中間から跳んで、真ん中にひとつの石碑をみつけた、表面に一行の字を刻んでいる:"花果山は恵まれた所、小さな滝には水帘洞という洞窟がある。"石のサルはとても嬉しくなった。急いで身をかえして戻っていく、また目をつむって、身体をしゃがみこみ、

水から飛び出した。ハッハッと笑って言った:"ラッキー、ラッキー!"サル達は彼を囲んだまま、尋ねた:"中はどうでしたか?"石サルは言った:"とても良かったよ!ここは本当に暮らすには良い場所だ。中はとても広い、千百もの家族が住むことができます。私達は中へ入って、神様からのいじめを免れようよ。"

サル達はそれを聞いて、みなうれしく思った。みんな言った:"やはりあなたが先に行って、私達を連れて入って。"石のサルは、また目をつむって、体をしゃがめるとひとっとび、叫んだ:"皆私について入ってきなさい!入って!"度胸が大きくなって、皆跳び込みました;臆病なものは、大声で少し叫んで、同じように皆跳び込みました。

石サルは上面に座って言った:"各位、あなた達はこう言ったよ、誰でも能力があるなら入って来て、出て行って、その上、体に傷つけなければ、彼を王にすると。私は現在、中に入って来てまた出て行った、また出て行き、また中に入った、こんなに良い場所を探しだした、私を王にすべきでじゃあないか。"サル達は言った:"そうすべきだ!そうすべきだ"みんな年齢によって大小の列をうまくつくり、上に向かってお辞儀をした:"大王千歳!"それから、石サルは美猿王と呼ばれた。

 

愁>郷愁

小さい頃

郷愁は一枚の小ちゃな切手に

私はここに(居る)

母はあちらの方に(居る)

大人になってから

郷愁は一枚の細い乗船切符に

私はここに(居る)

私の新婦(奥さん)はあちらの方に(居る)

それ以降は

郷愁は、四角い小さな墓に

私は(墓の)外にいる

母は(墓の)中にいる

さらに現在

郷愁は港の浅い海峡に(居る)

私はここに居る

(しかし、)大陸はあちらの方に

 

北京レポート(76)中国語語学学校<5>新实用汉语课本4テキスト和訳

このブログは、新実用漢語課本4の本文を和訳したものである

{新実用漢語課本4 和訳}

第39課 <别总说亲爱的,好不好>

いつも「親愛な」と言わないこと、良いですか

、ご飯ですよ。今日は私の作った料理を食べてもらいますからね。

親愛な人、午前中かかって、やっと食事を作って疲れたでしょう。ありがとう。こんなにおいしいものを作るなんて、本当に才能があります!

先に褒めないでください。まだどんな味かどうかわかりません。あなたは、御飯をどれだけ食べられますか?

こんな良い料理を見ると、特に空腹を感じます。ご飯は山盛り一杯の碗が必要ですが、たぶんまだ足りません。

食べたかったらどんどん食べて、ご飯はたくさんあります。

料理は本当においしよ、あなたの料理の技術は一日一日うまくなっています。特にこの鶏肉を炒めたものは、おいしいだけではなく、その上、様子もとてもきれいです. この料理はレストランで作るものと比べてずっと良いよ、ありがとう、親愛な人!

そう、感謝しなくてよいのよ。おいしいと思ったら、もう少し多く食べて。

それに、炒めたこのエビはとてもおいしいです。思うんだが、結婚の後で、米国でレストランを開いて、あなたはコックで、私が社長で、二人できっと多くのお金を稼ぐことができるよ。

あなたが社長で、社長が私にアルバイトさせるなら、私はやらないことにします。

これは誰が誰にアルバイトさせのではありません。私達二人が分担を決めて協力し合うのです。あなたは技術があり、私はマネジメントがわかり、私達一緒にやれば、どんな不都合がありますか?見て、一碗を食べ終わりました。もう一碗持ってきて、親愛なる人!

あなたは、口を開けば、すぐ”親愛な人”と言うわ?本当に一日一日話をするのが多くなりますね。

私がどうかしましたか?どうして嬉しくないのですか?レストランを開くのがいやですか?本当のところ、これは、とても良いアイデアでしょう。

知っていますか、多くの華橋の人は米国でレストラン開き、金を稼いでいます。さらに、中国料理は世界的に有名で、もっと西洋人にあなたの料理を食べさせ、もっと中国の文化を理解させる、 これはとっても良いでしょう?

金を稼ぐ方法はとてもたくさんあります。レストランを開く必要はありません。私は食事を作ることが好きですが、コックのレベルまではまだまだ遠いです!コックは必ず専門学校を卒業しなければなりません。それに、いつも「親愛だ」と言わないように、いいですか?聞いていて、私いつもおちつきません。

いいでしょう、親愛なる人よーねえ、どうやら、くせは直らないようです。しかし本当にわかりません。あなたは一体どうして三文字(親愛的を聞くのが嫌なのですか?

 

<没有出的「愛」を言い出せなかった

王小雲は林娜に一つの物語をかたりました。

12歳の男の子一人と13歳の女の子一人が同じ年に初級中学にあがりました。男の子と女の子はどちらもあまりおしゃべりが好きではありません。

彼らはいつも何人かの仲の良い友達と一緒に勉強し、一緒に遊びます。

女の子はいつもお姉さんのように男の子にふるまい、男の子も彼女にそうふるまわせることが大変好きです。

三年経って、男の子と女の子はどちらも高校に合格しました。男の子は女の子の誕生日を覚えていて、彼女に手紙を送り、彼女の誕生日を祝いました。彼は女の子が怒るのではと思い、あえて自分の名前を書きませんでした。女の子は彼に返事を出しましたが、彼女も名前を書きません。高校は初級中学に比べてとても忙しく、彼女と彼は勉強以外の事は、他に考えません。

中高学校を卒業したころ、彼らはすでに若者と年ごろの娘でした。若者は北京大学に合格して、女の子は上海の大学に合格して外国語を学びます。女の子が上海に行く、前日の夜に、若者は彼女の家の入り口にやってきました。しかし、彼はあえて門のドアをたたきません。彼、一人の若者が、一人の女の子に会ったら、彼女の家人はどのように思うでしょうか?

女の子はその日の夜は、寝るのがとても遅くなりました、彼女は彼が彼女に”再見”というのを待っていたのです。

1ヶ月が過ぎて、さらに2ヶ月がすぎました。女の子はあれこれ方法を考えて、やっと若者がいる学校の住所を聞き出しました。

ある日、若者は突然一通の手紙を受け取りました。女の子が書いたものです!手紙にはひと言のみあります:大学生活が始まったことをお祝いします。

若者は喜んで、気が狂ったようです。彼は毎朝、昼、夜と寮で一回は手紙を読みました。

二年目になって、女の子は病気になりました。一年間は休みが必要です。彼女は一人で家に帰り、誰にも教えませんでした。

若者は一通、一通と手紙を彼女の学校宛てに出しました。しかしまったく返事が来ません。彼女はどうして返事を出さないのだろう。女の子は本当にどうしたのだろう?

若者は一日一日とやせていきました。1年後、女の子は病気から回復し、また学校に戻り、若者はやっと女の子から返事をもらいました。

彼らは手紙で生活のことや、勉強のこと、世界の大事なこと、を話しましたが、彼らは”愛”の一字も言ったことがありません。

若者は心の中で、女の子は彼の理想で、彼の夢でした。;女の子の日常の手紙の文面から、彼も彼女の心の中が読めました。

彼は女の子より一年早く卒業し、大学院を受験します。女の子は(教育)実習のため、家に帰る時間がありません。

若者は上海にある大学の一大学院生になりました。その年の夏休み、彼らはついに顔を合わせました。

若者はこの背が高くて美しい女の子を見て、心の中は言うべきことがたくさんありましたが、一言も口に出てきません。彼は女の子と握手することさえ忘れました。

その夏休み、彼らは毎日いっしょにおしゃべりして、散歩して、公園に行きます. ある日、若者はやっと彼女に伝えました。

心の中に一つの字があり、最も貴重な一字を伝えたのです、この日まで、彼はこの字をとっておいたのです。。。。

王小雲は、これは30数年前の話だと言いました。ストーリーの中の女の子は彼女のお母さんで、若者は彼女のお父さんです。

 

<閲読><宁静咖啡屋>静かな喫茶店

私は会社の仕事を辞めて、自分で小さい喫茶店を始めました。昔の人はこういいました。「静かは深遠をもたらす(落ち着いてゆったりした気持ちでないと、遠大な境地に達することができない)」

私の名前も宁静(静かさ)です。だから私は喫茶店を「静かな喫茶店」と名付けました。

喫茶店のテーブル、椅子、コップと壁はすべてコーヒー色にし、家の中はあたたかくて、また静かです。

今年、西洋のエイプリルフールであったその日、夜九時すぎに、多くの客が来店していたころ、彼は入って来ました。

私は今まだ覚えています。彼はダークブルーのコートを着て、窓のそばの席の一つを選んで座り、1杯のコーヒーを求めました。

そんなに多い客の中で、彼は特に私の注意を引いきました。彼はとても格好がよく、とても知的な特色があったためです。

その日、彼はコーヒーを楽しんでいるようではなく、壁に掛けてある書画を観賞していました。その書画には「寧静致遠」と書いてあります。 

おそらく彼は私達のコーヒー店の"静かさ"の風格が好きになったのでしょう、エイプリルフール以降も、彼は毎晩九時にはやってきました。

彼はいつもダークブルーのコートを着ていて、窓の傍の席を選び座って、私に向って少し手を振り、一杯のコーヒーを注文します。

そして、席に座ったまま静かに深く考えこみます。毎回、去るときには、かならず私に対して"謝謝"と一声かけます。

夏が来て、天気は一日一日暖かくなります。彼はダークブルーのコートに替えて、ダークブルーのシャツを着て入ってきます。

今回は、彼またコーヒー一杯を注文し、それから私に聞きました:"あなたは寧静さんではないですか?" 私は言います:"はい、そうですが、あなたのお名前は?"

彼はちょっと笑って、私に名刺をくれました。もうそれ以上何も言わずに、静かにコーヒーを飲んでいます。

この後で、彼は二カ月以上、"静かな喫茶店"にやってきませんでしたが、毎日夜九時に、私は彼を待っていました。

私は彼の事をあまりよくわかっていませんでしたが、心の中では彼を自分の良い友達になっていました。コーヒー店の従業員の二人私に対して言います。

"社長、あなたは彼を好きになったのではありませんか?"私はただちょっと笑って、彼女たちに言います:"誰が彼を好きになったというの、冗談でしょう。”

私自身、本当に彼を好きなのかどうか、はっきり言えません。ある日、私は突然包を一つ受け取りました。それはひとつのコーヒーケトルでした。

さらにショートメッセージが一通ありました。

寧静へ:

私があなたをこのように呼ぶことを許して下さい。この何ヶ月間のコーヒーをありがとう、あなたのコーヒーとコーヒー店は私に落ち着きを与えてくれました。

私の以前の彼女も寧静といいます。しかし、今では彼女は私の彼女ではなくて社長の奥さんになりました。

寧静、あなたのコーヒーが私の苦痛という感情から救ってくれました。あなたにコーヒーケトルをプレゼントします。

これは私がヨーロッパに行った時、買ったものです。気に行ってくれることを望みます。

手紙を読み終わった後で、私は驚き、心配になりました。驚きは彼がついに私に手紙をくれたことです。心配は彼が恐らく再び来ないかもしれません。彼は、過去の愛の苦しみを再びあじあわないように、これ以降、コーヒー店に来ないかもしれません。

その日の夜、私は彼の送ってくれたコーヒーケトルでコーヒーを煮ました。9時に、彼は突然来ました。今度は、彼は微笑みながら、私の目の前に近づきました。

私にこう言いました:"こんにちは、このコーヒーケトルは、悪くないでしょう?それでコーヒーを煮ると、味はきっととても良いですよ。”

私も冗談で言いました:”味はとてもおいしいです。あなたに一杯をあげますか?"

彼も笑って答えます。;"当然です、こんなに香ばしいコーヒーで、こんなに親切なサービス、このような静けさを探していたのです、どうして要らないなんてことがあるでしょうか(あるわけがない)………"

 

第40課 <半天和全太太>天の半分と専業主婦

女性の中には、結婚届けを出した後や、特に子供ができた後で、専業主婦として、家庭に入ってしまう人がいます。子供の面倒をみるために、家事に専念する必要があるのですが、この問題、あなた達はどんな見方をしていますか?この考えは、たぶん男が考え出したのではないでしょうか?女性は何世紀の間に努力をして、ついに家から出てきました。

仕事をする権利を得て、さらに「天の半分」のおかげで、さらに発揮できるようになりました。これは社会の進歩であるのに、どうして女性を台所に戻したりできるでしょうか?これは男の考え方だけなのではなくて、女性自身でさえこのような考え方をする人達もいます。

みんなが知っているように、都市では、ほとんどが共働き夫婦の家庭で、夫も妻も毎日外で働かなければなりません。夫婦は子供をめんどうみる時間がありません。自分の子供に関心を持たない母は一人もいません。もし女性が家に戻るなら、子供の教育問題は、すぐにうまく解決できるでしょう。これは女性を見くだしているのではなく、もっと女性が発揮できるようになるからだと思います。

私は、家事や子供の世話をすることが、女性の仕事だけではなく、男性の仕事でもあると思っています。男女はすべて同じようにするべきです。もし、家に戻って子供の世話をしたいなら、すぐ家に帰って子供の世話をします;もしも働きに出たいなら、すぐ働きに出ます。

もし、みんなが働きに出たくなく、家に戻って子供の世話をしたいなら、どうしますか?

それはあり得ないでしょう。働きに出たくない人などいるわけがないのです。ある人は、中国の人口は多すぎて、就業の問題はとても大きい問題だと考えます;もし、女性が家庭に戻るなら、この問題は比較的簡単に解決されるでしょう。

就業の問題を解決するため、女性は必ず家庭に戻らなければなりませんか?これは不公平です。まずは、就業中の男女平等問題を解決します。例えば、ある仕事は、男女両方することができます。しかし、ある部門は男性のみで、女性は必要ではありません。私は、これは正しくないと思っています。

ある仕事は、男性により合っているとは思わないのですか?

もちろんそういう場合もあります。しかし、ある仕事は女性の方が男性よりあっている場合もあります。

重要な事は、男女とも、公平な競争の機会があるべきです。

最後に、私達はこの問題に言及しないわけにはいきません:陳先生、あなたが一体どのように男女平等を実現することができると考えますか?

各方面の男女ですべて同様な権利を享受することができれば、男女とも、やっと平等になれます。あなたがた、私の(インタヴィユー)のための訪問を受けてくださり、ありがとうございます。

 

谈谈中国女的地位>中国における女性の地位についての話

先生方、同級生方

皆さんに、中国の女性地位の問題を話す機会がもてて、大変嬉しく思います。これはとても大きい問題の一つで、私は四つの方面から簡単に話そうと思っています。

まず、私は中国の女性の社会地位を話しましょう。

中国人はいつも、女性が天の半分だと言います。天の半分とはどんな意味でしょうか?女性がほとんどの社会的な仕事の半分を背負っているという意味です。彼女らは男と同じように、社会の進歩と国家の発展に対して重要な役割を発揮しています。全中国の従業員の中で、女性の従業員は40パーセント占めます。

現在、中国には既に女性の副首相、女性の部長、女性の外交官、女性社長、また女性の科学者、女性の教授、女性の画家、女性の詩人がいます。

一般的に言えば、男性ができる仕事で女性ができない仕事などありません。たとえば紡織職人、看護婦のように仕事によっては、ほとんどが女性です;中小学校の教師、大学の外国語の先生は、女性が男性に比べて、より多いです。

みんながご存じのように、中国の二千年余りの封建社会の中で、女性は社会的地位がありませんでした。彼女らは一生涯、自分の両親、夫と息子に従います。彼女らは教育の権利を受けていず、家を出て行って外で仕事をすることもできません。ただ、家で家事をして、夫と子供の世話をすることしかできないのです。

現在の情況はちがっています。「天の半分」の効果が発揮されて、女性は社会でと男性と平等な地位になりました。

これは中国社会の進歩です。

第二、家庭での中国の女性の地位。

一般的に言えば、女性は社会の地位が改善されて、家庭での地位もやっと改善されました。彼女たちは外では、自分の仕事と経済的な収入があり、家では地位は平等です。過去には、家の大事な事は、いつも夫によって決定されましたが、今では夫は妻と相談します。過去には、家事はいつも妻だけが一人でやってきたが、今では夫は家では、天の半分の効果を発揮しています。

多くの家庭の家事には、すべて分業があります:夫がいつも野菜を買い、妻はご飯を作る:夫は部屋を掃除し、妻は衣服を洗う;夫は子供の勉強を管理し、妻は子供の衣食を管理する。ある外国の友達は中国の男性が料理をするのを見て、とても奇妙だと感じます。あなたが中国人の家庭で生活すれば、夫が毎日台所にいることを発見する、彼らの料理技術はこのような(日常の)練習からきているのです。当然なことだが、総じて言えば家事は女性の方が男性に比べてすることが多くて、さらに、家事をしない夫は、今ではほとんどおりません。

第三、職業婦人の困難

職業婦人は外では、決まった仕事の重責を担い、家でも、家事の重い重責を負います。彼女らは一人の良い従業員であり、また一人の良い妻で、良い母親なので、生活はとても容易ではありません。

男性の苦労より多いです。ある女性の従業員が言うには、一日24時間、食べることと眠る以外、一分間も、ほとんど自分の時間がありません!彼女たちは学ぶための時間がなく、ゆっくり休める時間がありません。

家庭と事業の対立は職業の女性の解決しにくい問題です。

最後に、私が話す問題は、今の男女は、すでに平等なのでしょうか?

多くの中国の女性は、今いくつかの方面で、まだ男女平等は完全に実現していないと思っています。たとえば、このような例です。ある場所では女性に対していまだにとても不公平です、女性は同じ仕事をしているのに、得る報酬は男性ほど高くはありません。いくつか農村では、女の子は、教育の機会を受けるのは男の子よりずっと少ないです;科学者、教授、社長の数は、女性はまだまだ少ない。これらの情況は中国だけではなくて、世界の多くの場所でもみられます。総じて言えば、完全に男女平等を実現するためには、私達はまだまだ、遠い道のりを歩く必要があります。みなさん、ありがとうございました。

 

<閲読> <女民企家>女性農民企業家

河南省新郷市から西へ30キロメートル歩くと、南小村に着きます。人々は世界建物博覧会に入ったかのようです。それぞれ風格の異なる建物を見ると、欧州式、アメリカ式、イスラム式がある…しかし、ここは都市ではなく農村です。この”農村の都市”を建てたのは、南小村の農民です。彼らの作った企業は、”京華実業公司”と呼びます。全村に73戸の農民がいて、ほとんどどの住んでいる家は、二階建ての小さい建物です。

彼らの社長は1人の女性で、彼女は林志華と言います。

1972年、この村には四頭の牛がいて、三軒の破れた藁葺きの家、1台の古い馬車、さらに銀行に8000元の借金がありました。その頃、村の中の仕事を管理するのは生産隊長でした。年取ったリーダーは、確かな手段もないので、彼は再び隊長をやろうとは思いませんでした。この古いリーダー以前には、村の中の男は、ほとんど全部リーダーになったことがあります。

誰も再び、この困難な仕事を負うことを願っていません。このようなで状況で、林志華という一人の普通な農村の女性が、勇敢に立ちあがりました。 彼女はとても自信を持って言った:”男性のしないこと、私達、女性がしよう!この貧しい村を変えるため、私はリーダーになりたい! ”この年、彼女はみんなをひき連れ、努力して、ついに村の中の人達に腹いっぱいのご飯を食べさせました。

彼らは三年を使って、食糧1ムー(6アール)あたりの収穫量を800数キロまで改善しました。ただ作物をつくるだけでは、農民は富みません。副業さえやれば、農民はやっと多くの金を稼ぐことができる、と彼女は思いました。しかし、農民の中には銀行ローンまでして、副業をやりたくない人もいました、林志華はみんなに対して言った:”儲うけた金は、はみんなのものです、損した金は、私一人のものとして計算しなさい。”500元のローンにたよって、彼らは一つの小さい工場をやり始めました。林志華はただ5%の労働力だけを耕作にまわして、95%の労働力で副業をやらせました。雪だるまを作るように、数年後には、彼らは相前後して12社の郷鎮企業を始めました。

全国郷鎮企業同士の競争はとても激烈で、林志華は金を儲けのない小工場を停止して、第三次産業を始めました。

村の中で観光業を発展させました。今では、村の中の旅館、遊園地、ホテルは毎日かなりのお金を儲けることができます。

第一次産業を初めてから、第三次産業に発展するまで、林志華は確かに一人の女性企業家としての才能を発揮しました。

林志華はいつもみんなに対して言った:私の理想はとても明確です、農民を裕福にさせることです。私達は農民のポケットを富ませるだけではなく、さらに頭のポケットも富ませなければなりません。林志華は特に村民の教育水準を高めることを重視しました。

10数年来、会社と大学は協力して従業員養成訓練グループを作りました。全公司の従業員の中で、初級、中級、高級な職人と呼ばれる人は50%以上を占めます。次世代にもっと良い教育を受けさせるため、京華実業公司は2500万人民元を持ちだして、子供の教育方面に使い、幼稚園、小学校と中高校を始めました。林志華は言いました:”農業を発展させるには、科学と教育にたよらなければなりません。”

 

第41課 <我想自己开个律所>

私は自分で弁護士事務所を開きたいと思っています

宋華、卒業の後で、あなたは何をするつもりですか?

私はまず、一つの弁護士事務所で数年働き、この方面の情況を少しは熟知するようになって、それから自分の弁護士事務所を開きます。

それは良い考えだ。私達の国では、弁護士はかなり新しい職業です。まだ、多くの人は訴訟に持ち込むことを怖がっています。

彼らは、自分の訴訟でどのように弁護士に助けを求めたらよいのか良くわかっていません。しかし、皆は法律を使って自分の権利を守ることに既に注目し始めました。私は人々がだんだんに弁護士が必要になってきていると思っています。

でも、私のお父さんは見方が異なります。彼は私が国家公務員、裁判官、先生などの試験を受けるべきだと思っています。お母さんも私に国営会社に仕事を探させて、二人とも私が弁護士になることに賛成しません。彼らは、弁護士は他の人の訴訟を助けて、金を稼ぐもので、公務員のように安定した収入ではないと言っています。

そうです、思い出しました。前回君の家に行った時、彼らはそんな意味の事を言ったことがありましたね。そのような見方に賛成しますか?

もちろん賛成しません。私のお父さんは私が安定的な仕事を探すことを望んでいます、つまり、国家の給料を持って、平穏に暮らすのです。

彼らのあの世代の人たちは、大学の卒業後は、すべて国が配分した仕事についたのです。国はあなたにどこに行けと言い、すぐそこに行く。たとえ自分の考え方があったとしても、国の配分に服従しなければなりません。

確かにそのようです。就職の問題に関しては、私達と一世代前の人の考えは異なっています。私達はまずどのように自分の好きな仕事をすると、自分の理想を実現することができるかどうかを考えます。私達は生活の中に挑戦があり、仕事の中に競争があることを望みます。

さらに、比較的に満足する収入を得ることができます。

そう、私のお父さんとお母さんは私がいつか、事務所を開こうとしているのを聞いて、更に焦ったようです。

老人がどう思おうとも、あなたは自分の理想を実現するよう努力するべきです。

当然です。現在、企業や会社も自分の弁護士が必要です。だから弁護士のような職業は日に日に人気があがっています。

私は努力して仕事さえすれば、きっと良い前途があります。小雲、あなたはどうするつもりですか?

大学院の試験を受けようと考えています。しかし、今は、まだ決定していません。もしも適当な仕事があるなら、私は先にそうします(働きます)。

 

<招聘男主角>男の主役を募集

張山は大学を卒業した後で、広告会社を開きました。彼は友達の何人かと共に数年の間、苦しみながら(事業を)やりました。

現在では、商売はだんだん良くなって、会社は発展するのが速くなり、すでに4050人が(会社で)働いています。

ある日、張山は副社長を呼んで来させました。彼は言いました:”ここ数年間、私はほとんど休暇を取っていない。今、二ヶ月休みを取ろうと思っています。この二ヶ月間、会社の事はあなたにまかせます。とても特別に急な事がなければ、私を探すために電話をする必要はありません。

副社長は言った:”そうですか、安心して休暇に行ってください。”

張山は家に帰ったが、休んでなんかいません。彼は多くの趣味を持っていて、特に演ずることが好きです。この方面の能力を、自分で試したいと思っていました。張山は毎日のように新聞紙の募集広告を見ました。ある日、彼は”男の主役募集”の広告を見つけました。

彼は、一回でも映画俳優になれるなら、どんなにすばらしいだろうと思いました。もし彼が有名になったなら、広告会社の発展に対して、とても良いはずです。仮に、たとえ成功しなくとも、大丈夫で、彼はまた彼の社長になるだけです。

張山は役者を募集した場所を探しだしました。募集の試験はとても複雑で、まず副監督による面接試験をして、張山は合格しました;その後、また監督による面接試験、張山はそれも合格しました。映画監督は満足して言った:”私達は百数人を試験して、ただあなたの才能だけが私が想像した男の主役と同じです。おめでとう。男の主役は、まさにあなたです。”

”本当ですか?”張山は喜んで映画監督を聞きました。

”もちろん本当です。あなたが賛成さえしてくれれば、私達はそのように決定します。でも、あなたはどんなことがあっても考えを変えませんか?もしも、あなたが考えを変えるなら、私の損失は大きくなります。だから、あなたは先にここに一千元の金を払わなければなりません。二週間後に、私達は仕事を始めます。あなたは時間どおりに出勤してくれれば、私はお金をあなたに返します。

張山は言った:”できます。”

”いいでしょう、あなたの電話番号を下さい、二週間以内、あなたにどこへ出勤すべきかを知らせます。”

張山は一千元を払って、楽しく家に帰って電話の知らせを待ちました。二週間すぎて、誰も彼に電話をくれません。

三週間目の月曜日の朝早く六時に、電話は来ました。しかしあの映画監督がかけてきたのではなくて、彼の自分の会社の副社長がかけてきたのです。副社長は急用ができたので、すぐ戻るように彼にいいました。

張山は言った:”駄目だ。私も重要な事がある。会社の事はあなた達で、討論して決定するように言ったでしょう。”

”この問題はとても重要で、あなたは討論に参加しないわけにはいきません。”

張山は、監督が彼を男の主役に選んだことを副社長につたえました。

副社長は言った:”あ!私は分かりましたよ。派出所もあなたを探し電話をかけてきました。あなたが言った監督は既に逮捕されました。彼は大詐欺師だと聞いています。”

張山は言った:”え!大詐欺師ですか?新聞はどうしてあのような人に広告を載せて、みんなを騙させたのですか?”

 

<閲読> <四部歌王>西部の歌王

王洛賓、人々は彼を西部の歌王と呼んでいます。彼の歌は、中国大陸だけではなく、香港、台湾でとても有名です。

海外にいる華橋の地区でも、とても人気があります。多くの人が彼の歌を歌って成長しました。

王洛賓は北京人で、漢族です。彼が若い時、新疆にたどりつき、新疆で少数民族が居住する場所で50年余も生活しました。彼はそこの民族と音楽を深く好きになって、新疆に関する愛の歌を数百曲創り、編曲しました。

ウイグルの一族の人は彼を”我らウイグル族の音楽家”と呼びます。

王洛賓も言います:”新疆少数民族の優美な音楽がなかったら、今日の王洛賓がありません。”彼は少数民族で、深い心情を築きあげたのです。《あの遥か遠い地方で》はカザフ族の民謡の一つです。王洛賓が編曲した後、ほとんどの人が愛の曲として歌うようになりました。

 

遥か遠い地方に、

一人の良い娘がいた

人々は、彼女の帳場を通り過ぎては、

振り返って、恋に望みをかけた。

 

彼女のあのピンクの笑顔、

まるで赤い太陽のようです。

彼女の活発に動く瞳は

夜の美しい月のようです。。。。。。。。

 

《達坂城の娘(ダーバン市の娘)》は王洛賓の有名な歌の一つです。ダーバン市の生活環境はとても苦しく、60年代に、王洛賓はここにたどりつきました。彼は農民の家に住んで、農民と一緒に生活しました。いっしょに羊を放牧し、ウイグルの老人と一緒に歌を歌い、若い人と一緒にダンスをします。彼はそこの老若男女を自分の身内に思い、そこの人達も彼を自分の兄弟と思いました。老人達は彼が音楽家なことを知っていました。

自分の民族の歌曲を一曲、一曲歌って彼に聞かせました。王洛賓は多くの民謡を聞いた後に、《ダ-バンの娘》を編曲しました。

ダーバンの石は円く、大きいよ

スイカは大きくて、甘いよ

ダーバンの娘はお下げが長いよ、

二つの瞳はとっても美しい。

もしもあなたが嫁ぐなら、他の人に嫁がないで

きっと私に嫁いできて。。。。。。。。

 

この歌はダーバンの人民に対する愛情からでました。ダーバン市という、この小さな町の名も、歌のために有名になりました。

1993年秋、この西部の歌王が再度、ダーバン市に帰ってきた時、彼はすでに70数歳の老人になっていました。ダーバン市の各民族の人々は、熱烈に、彼を歓迎しました。

 

第42課 <洋姑

外国人の婿は農村で春節を過ごす

ジャックと玉蘭が家に帰って春節を過ごすことを歓迎します。私達の家族全員、一緒に年夜飯を食べられ、私とあなたのお母さんはとてもうれしいです。さあ、私達は先に乾杯しましょう!

お父さんを祈って、お母さんの身体の健康に!

恭喜発財!

好、好。恭喜恭喜!あなた達が新年万事順調なことを祈ります。ジャック、もしも少し変に感じるなら、私のことを先生と呼び、奥さんを太太と呼んでいいです。どのように呼んでも、良いです、気にしません。あなたには、あなた達の習慣があります。

あなたは怒らないのですか?

あなた何の事を言っているんですか?私は怒るどころか、かえってとても嬉しいです。私も”太太”になりました!

食事を食べて、食事を食べて、食べないと、食事が冷たくなります。

この紅焼魚(魚の醤油煮込み)を味わってみて。

もう少し食べたら。ジャック、私達が年夜飯を食べる時、鶏と肉以外、かならず魚が一匹います、これがどうしてそうなのか知っていますか?

鶏、アヒル、魚、肉はすべておいしい料理で、まさか別の意味があるのではないでしょう?

あります。「魚」(ユ)の発音と余分の「余」(ユ)が同じ発音なため、「有魚(魚がある)」は「有余(余分がある)」となる。意味は新しい一年で、皆の生活がよりよく、皆の家庭で余裕があることを願うためなのです。

あ、わかりました。ある人は携帯電話の番号が好きで、自動車の番号も”8”を含んでいて、”188”ではなく”518”です。これらも,おなじ考え方からきていると思ってよいのでしょうか?

そうです。南方の人達が”8”を読むのと”発財の発”の読み方がほぼ、同じ。「5」を読むのと、「我」もほぼ同じです。だから、

188”と”518”も同じで、”要発発”や”我要発”となります。彼らは”発”を希望するので、だから”8”が好きです。

それからというもの、別の場所の人達もこのような(やり方)にしました。

私達の外国人の婿は、ずいぶん中国の事を多く知っていますね。年夜飯を食べ終わってから、テレビを見たり、ギョーザを作ったりするのですよ。

みんな晩ご飯を食べ終わって、どうしてまたギョーザを作るのですか?まさか、まだ来る客がいるのではないでしょうね?

これは私達の北方の風習です。今日除夜で、古い一年がもう過ぎ去り、新しい一年が始まります。だから各家庭では寝るのが皆、とても遅いのです。これは”守年(夜を徹して新年を迎える)”と呼びます。北方人は、いつも多くのギョーザを包んで、新年にゆっくり食べます。

ジャックはギョーザを作ることができません。ジャック、夜を徹し新年を迎える時、あなたは何をしますか?

私はなんでも大丈夫です。私は何をしてもみんなおもしろいと感じています、郷に入れば郷に従います。

ギョーザを作れないことは、大丈夫です。彼に子供達と一緒に外へ行って花火を鳴らさせましょう。

それは、彼はとても喜んでするでしょうよ。北京市内は花火を鳴らすことを禁止し、都会の人が春節を過ごすのがますます簡単になり、どこに農村のようなにぎやかさがあるでしょうか?

今では春節に長い休暇の間に、道理で多くの都会人が地方に旅行にでかけて行って、農村まで行って祝日を祝いに来るわけだ。

私達はここ(農村)で花火を鳴らすことを禁止するどころか、かえって花火を鳴らすのが以前より多くなりました。今年は、私達の家ではかなりの大花火、小花火を買いました。12時になったら、あなた達は花火を鳴らしましょう。

今では、私達、農村が春節を過ごすのは都会よりずっとにぎやかなのです。年夜飯を食べる以外にも、私達はまた春聯を書き、切り紙細工を貼って、ヤンコ踊りを踊り、さらに各種の演じる催しや試合がまだあります。あなた達はここで何日か住んで、私達の村が観光事業、特に文化旅行で発展することができるかどうかをみてください。

 

远亲不如近遠い親戚より近くの他人>

今春、私達は郊外の農村で四合院を建てました。土曜のある日、私達はトラック一台に木材とセメントを満載に積みました。

私達の新しい家を新装にするための準備です。私達が村落に着いた時、各家庭は皆晩ご飯を作り始めた頃でした。

隣近所の人達は自動車の音を聞くと、走り出てきて、離れたところに立って、好奇心で私達を見ています。

私と夫は車から飛び降りて、忙しく木材を運びました。早く物を降ろし終われば、運転手を都会に戻らせることができるからです。

都会生活は長かったので、骨の折れる仕事にあまり慣れていません。ちょうど二回運んで、二人とも疲れて、歩けなくなりました。

隣近所の人達は、私達を笑いものにするどころか、むしろ助けたいと、私達を取り囲みました。しかし私達がどう思っているのかわからず、彼らは多少ためらっているようでした。若者の一人が冗談で言った:”どうしましたか?まさか二人で明日まで続けるつもりですか?あなた達このようにして、たとえ明日の朝までしたとしても、恐らく終わりませんよ!”みんなは聞いて笑いました。

私は車の上に、よりかかっています。彼らと一緒に笑いました。

 

その若者は、私たち二人も一緒に笑うのを見て、引き続いて言った:”ちょっと調べて、なにか重要なものがありますか?もしもあるなら、先にそれを全部(家に)おさめましょう。”それからまたみんなに対して言った:立っていて見るだけではだめだ、みんなは手伝おうよ!隣近所の人達は自分の運搬車をすぐ出して、私達をすぐに手伝います。彼らはとても早く、一時間もかからず、車のものを降ろし終わって、整然と中庭に並べます。

運転手は自動車を運転し、走り去り、隣近所の人達も少し服をたたいて、帰ろうとします。一人一人にどれだけ報酬をあげるべきか、急いで夫と相談します。隣近所の人達は、お金をあげる話を聞くと、皆急いで車を押して帰りました。私達が何と言おうと、彼らは、聞く耳を持ちません。特にその若者は、彼は歩きながら、こう言いました:”あなた達の都会の人は、なんでもすべてお金がものを言いますね!家のご飯が、みな冷たくなってしまうため、私達は家に帰って食事をするべきです。これ以降は、私達は、皆隣近所づきあいです。もし何かあったなら、すぐに声かけて、遠慮しないで。。。。。。。“

彼らは皆歩き去りました。私たち二人で、中庭で休みます。私は夫に対して言った:”都会のビルの中では、隣近所の人達が、誰が誰であるかを知りません;しかし今日、村の中で、私はこう思いました。”遠い親戚より近くの他人”。

 

<閲読><舅舅城拜年>叔父は町に行って新年の挨拶をする

春節がもうすぐやってきます。

私が小学校に入った頃のことで覚えているのは、毎年、春節前には叔父が二人の子供を連れて一度、北京にやって来たことです。

彼らは、落花生やスイカの種、あるいは、ナシやアンズなどなどを持って来て、私達に一足早い新年の挨拶をするのです。

帰る時は、お母さんは、彼らが持って帰れるように、早くから準備した贈り物を渡します。:大人と子供には、それぞれ、着替えるための新しい服、いくらかのお菓子、飴と新年を祝うためのものを持たせます、さらに、子供が学校の本代に払うために、それぞれの子供に数十元のお年玉をあげるのです。

”いつものように年末になったのに、彼らが来ないなんてことがあるのだろうか?”お父さんはお母さんに聞きました。お母さんも少し変だと感じて言った:”彼らはすでに三年も来ていません。まさか私達に対して(何か)言いたいことがあるんじゃないでしょうね?”

私は言った:”現在の農村は、変化がとても大きく、学校組織で、私達が郊外の農村へ見学したことがあるが、そこの農民は都会の人よりずっと富んでいました。かなりの農民の家には車があります。叔父たちは、恐らく金を稼いで金持ちになることに忙しいのです。”

お父さんは言う:”そんなに簡単ではない、あなたが行ったのは北京郊外の農村だからです。私は思う、全国では、やっと快適な生活を過ごしやすくなったものの、かれらのいる遠い山間部では、あまりに大きい変化があるとは思えない。。。“

私達がちょうど話していると、叔父は一台の新しいトラックを運転していました。

”叔父さん、どうしてあなたは一人で来たの、私の従兄や、従姉は?”私は聞きます。

”彼らは家にいて、あなたの叔母と温室で忙しく、仕事をしているよ。私は今度北京に来たのは、ひとつには、あなた達に新年の挨拶をするためで、二番目には、北京で一台の大きいカラーテレビを買おうと思っている。二人の子供は、テレビから多くの農業技術を習うことができると言っている。去年、村の中に電気が通じて、彼らは私に買って来るよう頼みました。この二年、私は確かに暇がなくて、だからあなた達に新年の挨拶ができなかった。今年どんなに忙しくとも、あなた達に会いに来なければならないのです。”

叔父は、大きいカラーテレビを買うため、トラックを運転してきたというが、私のお父さんとお母さん二人には、とても突然なことだと感じた。

叔父は二人と会ったのに、話をしていなので、あわてて、笑って言った:”あなた達が知っているように、都会の人は良い暮らしをしています。今は、私達、貧しい山間の農民でさえも金持ちになりつつある。政府が農業の技術員を派遣して、私達の果樹の植え付けを助けてくれるし、また私達に養蜂の仕方や、羊の飼い方を教えてくれる。果樹の収入は、もちろん言うまでもなく、蜂蜜を売るだけでも、一年で数千元の収入がある。

今回、叔父は北京に住んだのは、一日だけだった。買わなければならないものは、彼はすべて買いました。大きいカラーテレビ以外にも、さらに多くの農業技術の方面の本を買いました。彼は言いった:“これらの本は、あなたの従兄が私に買うように言ったものです。私達のとこでは、こういったものが欠けているのです。”彼が去る時に、彼は私に二百元のお年玉をくれました。私に対して言った:今年、家を建てるのを待てば、あなた達を迎えるために、私は再び来て、家に着くと春節を過ごすことができます。”

 

第43課<《孔乙己》>《孔乙己》を読む

力波、あなたは何を読んでいますか?

《孔乙己》

今、《孔乙己》のような小説を読んでいて、難しいと感じませんか?

死ぬほど難しいです。文中に新しい単語はありませんが、しかしそれでもいまだその意味が読んでも分かりません。

どんな文ですか?

例えば、”孔乙己は立ちながら酒を飲んでいる、長衫を着ている唯一の人です”。このセンテンスの中で、魯迅先生は孔乙己をこのように書いていますが、どんな特別な意味があるのですか?

(意味が)あるのです。当時は、”長衫”を着ているのは、学者か金持ちのどちらかでした。彼らは咸亨ホテルに行って、座っては、酒を飲み、料理を食べます。ホテルの中では、立ちながら酒を飲む人は、貧乏な労働者で、皆短い服を着ています。孔乙己が他の人と同じでないのは、彼は自分を学者だと思って、いつも長衫を着ているのです。しかし、彼は大変に貧しかったので、 金持ち一緒に座って飲んだり、食べたりすることができません。短い服を着ている貧乏人と一緒に”立ちながら酒を飲むだけだったのです。”この文の話の意味は、彼はとても貧しいが、それでも学者として虚勢を張ることが必要でした。その時の社会の情況がわからなければ、これらの文の意味を理解することは難しいのです。

それだとすると、この文の意味は、孔乙己を風刺しているのでしょうか?

孔乙己を風刺しているのです。魯迅先生は、この小説の中で、封建社会を暴き出しました。

その通りです。小雲、ありがとう。あなたの説明がなかったら、この文の意味がはっきり分かりませんでした。

そんなに遠慮しないで。聞くところによると、昨日の午後、貴方の学部が、中国語演目大会を開催しましたか?

はい、私達のクラスが演じたのは漫才で、みんな全員笑い転げました。あなたは知っていましたか?プログラムの中には、まさに孔乙己を演じて咸亨ホテルで酒を飲む場面があります。

誰が孔乙己を演じたのですか?

高学年の留学生の一人が孔乙己を演じました。彼の背丈は高く、髪の毛は長く、汚く破れている長衫を着て、カウンターの前に立ち、店の中にいるウェイターに尋ねます。:あなたは本を読んだことがありますか?「回」の字はいくつか書き方があることを知っていますか?彼が役を演じたのは、すごくおもしろかったです。

道理であなたは、今日ここで《孔乙己》を呼んでいたのですね。残念ながら私は昨日の午後、出かけてしまいました。あなた達のプログラムを見ていません。もう少し早く知っていたら、うまく間に合ったのに。

大丈夫です、来年の頃に、私達の学部はまだ、中国語のプログラムがあり、来年には《阿Q正伝》を演じたいとおもっています。

 

<跟巴金先生握手>巴金先生と握手

私は中国の現代文学に大変興味を持っています。特に魯迅、巴金、老舎のこれらの有名な作家が好きです。北京に来る前は、私は巴金の小説《家》を読んだことがあります、それは英文に訳したのもので、《家》の映画をも見たことがあります。

私が北京に来た後に、新劇《茶屋》とドラマ《阿Q正伝》を見たことがあります。私はこれらの作家の状況をもっと理解したいと思いました。先週、力波は私に対して言いました:”あなたはやはり中国現代文学館を少し見学しましょう。

中国の現代有名作家の資料はそこにすべてあります。私はその日に午前中に見学して、見終わることができませんでした。私は、死ぬほどくたくたに疲れました。でも私はまた再び何度か来たいと思っています。私達は、北京にいる間に、少しでも見学に行かないと、後できっととても後悔するでしょう。”力波はとてもまじめに私に対して言った:”あなたが文学館を見学する時、巴金先生と握手することを忘れてはいけません。”私はとても奇怪だと感じました、巴金先生は、こんなに年齢がすすんでいるのに、まさか彼は毎日、そこで見学する人と握手するのでしょうか?これはもちろんあり得ません、それでは、力波はどんな意味で言ったのでしょう?

今日の午前中に、学院は現代文学館を見学することをアレンしました。それは一個のとても普通な新しいビルで、外から見ると、普通でいつものように、シンプルでした。しかし、ビルに入った後に、私達は文学の宝庫に来たと感じました。

説明係は私達にたくさんの有名な作家の情況と彼らの作品を紹介しました。彼女は解説するのがとてもまじめで、とても明らかです。私は一方で見て、一方で聞いて、一方で覚え、時にはまた彼女にいくらかの問題をしました。

私は、このような見学がとてもおもしろいと感じました、作家の情況が分かるだけではなく、その上、更に彼らの生活の時代を理解できます。これは作家の作品を理解するうえで、とても助かります。私達は階下から上の階まで見学し、文学館を一遍見終わりました、すでに早くも11時です。あの説明係は親切にみんなに言った:”あなた達が帰る時に、巴金先生と握手することを忘れてはいけません。”

同級生の一人はあわてて彼女に聞きました:”巴金先生はどこにいますか?”あの説明係は笑って、私達を文学館の入り口に連れて行き、彼女は門にあるドアノブを指していて言います:”あなた達、見て、これは何ですか?”この時に私達はやっとドアノブが、とても特別な事に気がつきました、本当に一本の手のようです。説明係は続いて言った:”これが巴金先生95歳の時のものです、彼の右手を押しつけて、模型にしました。この銅のノブがあるので、巴金先生は毎日すべてここで見学する全部の人と握手することになるのです!”

私は巴金先生の手を握っていて、心で思います:尊敬する巴金先生、こんにちは!私はとてもあなたの作品好きで、あなたは中国青年の友達で、私達の友達でもあります。

 

<閲読><我的伯父迅先生>私の伯父、魯迅先生

伯父である魯迅先生が生きていた時、私はまだ小さくて、魯迅が誰なのか知らず、伯父は伯父で他の伯父さんと同じだと思っていました。あの頃、週末となると、私達の三姉妹はいつも父母と共に、おじさんの家に集まりました。

ある時、おじさんの家で、みんなはテーブルを囲んで晩ご飯を食べました。私は父の鼻を見て、またおじさんの鼻を見て、彼に言いました:”伯父さん、あなたと父は、どこか良く似ているところと、少し似ていないところがあります。” 

”どこが似ていませんか?”おじさんはふり向いて、ほほえんで私に聞きます。彼がものを食べる時、唇の上のひげも続いて動きます。

”お父さんの鼻は高くてまっすぐで、あなたの(鼻)は?偏平で平らです。”

”あなたは知らないかもしれないが、”おじさんは、笑って言いました、”私が小さい頃、鼻はあなたのお父さんのと同じで、高くてまっすぐでした。”

”なら、どうしてー”

”しかし、それからというもの、何度か壁(困難)にぶつかって、鼻が平たくなりました。”

”壁にぶつかった?”私は、言った”あなたはどうやって壁にぶつかったのですか?歩いていてうっかりしたのですか?”

”考えてごらん、周囲が真っ暗では、壁にぶつかりやすくないですか?”

”え!分かった、壁はもちろん鼻よりずっと硬いものね、道理で、あなたの鼻はぶつかって平たくなったのですね。”

同席する人は皆大いに笑いました。

その事を現在まで、いまにいたるまで、はっきりと覚えています。

ある日の夕方、北西の風が吹いて、街頭の人は皆忙しそうに急いで家に帰ります。父と母は私の手を引いておじさんの家まで連れて行った。おじさんの家の入り口から遠くない場所まで歩いて行くと、人力車を引く人が座って地面の上でうめいているのに出会いました。私達が通りかかると、彼は頭を上げて、とても苦痛な様子のようです。

”どうしましたか?”お父さんは彼に聞きました。

”先生、”彼は、小声で言いました。”ガラスの破片を土踏まずに刺してしまいました。死ぬほど痛くて、家に帰れないのです、どうしたらいいのかわかりません?”

父はおじさんの家に走って行って、しばらくして、おじさんと一緒に、薬とガーゼを持って出てきました。人力車引きを人力車の上に座らせて、その二人は、彼からガラス片を取り出し、薬をつけて、ガーゼで包みました。その人力車を引きは感謝をこめて言いました:

”私は本当に、どうやってあなた達に感謝すべきかわかりません!私の家はここから遠くないので、これでゆっくり歩いて戻ることができます。”

おじさんは、さらにいくらかのお金を取り出して、彼に与え、彼に家で何日か休むように、残った薬とガーゼをも彼にあげました。

 

第44課 <的没有的精>

売り手ほど賢い買い手はいない(売り手のほうが買い手より賢い)

すぐ来て見てごらん! パジャマが安いよ。刺繍があるパジャマ、一枚買えば、一枚無料です!ここにある数だけだよ。

そこの外国の友達、あなた一枚買いたくありませんか?あなた達、見て、二匹のパンダの刺繍が上手でしょう、目はとても丸くて、とても黒く、あなたが着るとぴったりです。それを着てみてごらん、きっともっときれいになるよ。

そんなわけないけど、本当のように思えるわ。でも、このパジャマの上の花の刺繍は本当に美しい。

デザインは悪くありません。もしも値段が釣り合っているなら、私は一枚買いましょう。社長、このようなパジャマは一枚いくら?

98元、一枚買うと、一枚無料です。

一枚買うと、一枚無料?そんな良い事があっていいの?信じられない、一個買えば、一個無料という店はあったけれど、小さい櫛(くし)か、手鏡が無料になるくらいでしたよ。

信じられませんか?無料になるものは、櫛(くし)ではなくて、これと同じパジャマですよ。自分で自由に選んでください。

社長、少し安くすることができますか?別の店でさえも、こんなに高くありません!

あなたは知らないでしょうが、商品が異なります。これはブランド品で、普通のブランド(品)に比べて、品質はずっと良いです。私達は直接工場から商品を仕入れました。直接仕入れなかったら、値段はこんなに安いことはできません。だましたりしません。たとえあなたが北京市内をすべて歩いたとしても、ここより更に安いものを探し出すことはできません。安心して買ってください。

もし、値段を少し安くするなら、買いましょう。

価格を示してください?

70元はどうですか?

70元でさらに一枚無料ですか?お姉さん、あなたの値切り方はあんまりです。このように売ったら、金を儲けられないだけでなく、かえって元手を割ります。今売っている価格は、ほとんど商品の仕入れ価格で、あなたから一枚売るごとに数元を儲けるだけです。

こうしましょう、あなたが本当に買いたいなら、95元で二枚持って行くことができます。

いいでしょう、私はこの青いのと、あのパンダの刺繍がしてある(品)にします。お金を払いますので、それを包んで下さい。

これは百元、お釣りが5元になります。つつんでさしあげます。

社長、この服の、一枚49元と書いてあるではありませんか?どうして98元と言って、一枚買えばもう一枚プレゼントなんて言えるのか?(値段そのままだよ、一枚買うと一枚無料でも、ちっともやすくなっていないよ)

一枚が49元、二枚だと98元ではありませんか?なんと言おうと、私はあなたの一分のお金も要求していません。それに二枚買うと交換して着ることができますよ。それに買って、友達に贈り物することもできます。これって良くありませんか?

え!もし、率直に言わせてもらうなら、私達は一度に二枚買わされるのですか?道理で、人々がいつも言うが、南京から北京まで、売り手ほど賢い買い手はいないと言います。社長、あなたの本当に良いビジネスをしています。

 

<”胖阿姨”文具店>”太っちょおばさん”文具店

1992年、太っちょおばさんは、上海にある一軒の紡績工場で職を失いました。彼女は、19歳に工場に入り、この工場で16年も働きました。現在、職を失ってしまい、彼女は本当に自分がどうするべきかわかりません。夫は労働者で、給料は高くありません、子供は学校に通っており、一家三人の生活は急に困難が多くなりました。太っちょおばさんは、新しい仕事につきたいと、何度か求職の窓口(単位)に行ったことがあります。しかし、これらの職場は彼女の年齢が高いか、彼女の知識(文化)が低い点を言って、彼女はいつも仕を見つけられません。太っちょおばさんは自信をなくしてしまい、自分で自分を雇いたいと思うようになり、まず小さい屋台で、いくらかの子供のおもちゃを売りました。

ある日、老先生がおもちゃを買う時に、太っちょおばさんに対して言いました:”もしもあなたが、さらに文房具をいくらか売るなら、小学生にとって、大変便利なんだが。”その先生は気軽に言ったのだが、しかし、太っちょおばさんは、これは良い考えだと思い、彼女は、試してみたくなりました。彼女は6平方メートルに満たない一軒の家を借りて、” 太っちょおばさん”の文具屋をオープンしました。

太っちょおばさんは毎日早くから店を開けて、遅く閉めました、小学生に対しては、特に親切です。彼女は、文房具を売るとき、子供達から一分銭の金を多く受け取ったことはありません。もしも子供がつり銭をもらうのを忘れたなら、彼女は追いかけて、お金を子供に渡します。さらに彼らに告げていわく、どんな事情があっても、いい加減にすることはできない。小学生は時々、かばんを店の中に忘れます。彼女は店にちゃんと保管して、彼らが取りに来ることを待ちます。小学生の中には、夕刊に手紙を書く人もいて、太っちょおばさんのサービス態度をほめたたえます。近くの中・小学生は皆ここへきて買い物をすることが好きです。” 太っちょおばさん”の文具屋の商売は一日一日良くなりました。

今では、”太っちょおばさん”の文具店は、すでに発展して、彼女は第一チェーン店を開き、六人の職を無くした女性労働者を雇いました。太っちょおばさんの家も以前より金持ちになった、しかし彼女は依然として勤勉で質素な生活をしています。

人によっては、彼女に家を買うように提案する人もいます。彼女は言った:”今まだ家を買うことができませんが、私は「太っちょおばさん」の文房具のスーパーマーケットを開くつもりですし、それでビジネスはもっと更に大きくなります。私は信じています、事業が本当に発展し始めたら、家を持とうとすれば有るようになるし、車ももとうとすれば有るようになる。生活がさらによりよくなるものです。それにあなたは、賛成ですか、反対ですか?”

 

<閲読> <老百姓手里的多了>

民衆に多くの金が手に入るようになりました

最近、20数年来というもの、中国市場ではとても大きい変化がありました。大きな商店が多くなり、商品も多くなって、民衆の手にお金が多く入るようになりました。改革開放の前は、北京で最大の商店といえば王府井デパートでした。あの頃、どんなものを買うにせよ、皆とても長い列に並ばなければなりませんでした。かなりの商品が、まだ券によらなければならず、衣服を買うのに布券、レストランへ行き食事をするのに食糧券が必要でした。その頃、人々の三種の神器といえば、腕時計、自転車、ラジオでした。

特別な(物)は、国外から輸入しました、普通な民衆は買うことができなくて、見ることすらできません。国外から帰って来る人だけが、やっとこれらの商品を買えました。その時、誰の家であっても、小さい白黒テレビが一台あれば、近所の人達は死ぬほどうらやましく思いました。自動車を買い、家を買い、国を出て旅行し、子供を外国へ自費留学させるなど、そうしたいと思っても、夢のような事でした。

改革開放の後で、国家の経済は大きな発展を遂げます。20年余りの努力を経て、日用商品から工業製品まで必要な物はなんでもあるようになり、現在では何を買うのにも券が要らなくなりました。国産品があるだけではなく、その上、輸入品まであります。中国がWTOに参加した後に、世界の有名な大商店も皆、中国までやってきて商売をしています。各種の商品がどこの場所でも皆買うことができます。今の都会の人には、一般には家電製品はすべてあります。

人々は、今では、家を買い、車を買い、子供を外国へ留学させるつもりです。長い休暇があるときは、地方に旅行するか、国外に旅行するのです。

現在、最も心配しているのは、顧客自身ではなくて、それらの商店のマネージャーや社長達なのです。彼らの心配は、商品が売れないことです。大きく広告をする以外に、彼らはさらに別の方法を考え出さなくてはならない。割引をする、一個買えばもう無料、買い物をして抽選で賞を与える、買い物をすると記念品をあげる。。。。。各種の方法は顧客に、彼らの物を多く買わせることができます。

北京に旅行に来ると、あなたはきっと王府井大街に行くでしょう、そこは、有名な歩行者天国の商店街です。そこには、あなたが買いたいと思うような多くの老舗のブランド商品があり、さらにあなたが見たいと思うような多くの外国の大商店があります。

もしも北京秀水街に行って買い物をするなら、必ず値切ることを学ばなければなりません。売り手ほど賢い買い手はいないからです。

 

第45課 <馬大為の求職

ちょっとお聞きしますが、あなたは銭総経理ですか?

はい。あなたは馬大為先生でしょうか?

私は馬大為です。銭総経理、こんにちは。先月私は貴社にきて、張マネージャーと一度、話したことがあります。その後、あなたの秘書から、私に今日この会社に来てあなたと話すように、電話がありました。

そのようですね。あなたに来てもらって、もう一度、求職の問題を話そうと思っていました。お掛け下さい、何を飲みたいですか?

結構です、ありがとうございます。

あなたは当会社の市場開発部が、マネージャーを募集しているのを知っていますね。市場開発の仕事はとても重要で、この部のマネージャーは常に中国各地へ出張し、各種の商務活動に参加する必要があります。この職務は商工業管理の専門の知識があることを求めるだけではなく、その上中国の社会と文化がわかることが必要で、そのため中国語、共通語は流暢に話すことが必要です。私はあなたのこの職務に対する考えを聞きたいのです。

私はこの職務に対してとても興味を持っています、その上、私自身も比較的に条件に合っていると思っています。私は米国で商工業管理を学び、カナダでは貿易会社の商務代表になったことがありました。この方面の仕事の経験があり、中国とカナダの両国の貿易の情況も比較的に熟知します。中国語は私の第1外国語で、私はすでに中国語能力検定試験の 8級に合格しました。私は中国の文化が好きで、もっと中国を理解するため、私はさらに北京言語学院で中国文学を専修しました。私は私の知識や経験が貴社の仕事で役に立つことを望みます。私は、自分がきっと貴社のとても良い従業員になることができるとも、信じています。

とても良いですね。私達は多くの人の略歴を見てきて、あなたの条件が悪くないと思っています。あなたは商工業管理を学び、また中国語ができて、この方面の仕事の経験があります。私はあなたが直ぐにここの仕事の環境に適応できると思っています。

ありがとうございます、あなた達は私に対してこのような見方をしていただいて、私はとてもうれしいです。給料の問題は、私は前回すでに張経理と取り上げましたが、貴社で新しい考えがあるかどうかは、私はわかりません。

あなたの給料の問題に関して、私達は前回の意見のままです。私達の会社で、経理の給料は、普通は比較的に高いです。仕事の要求と給料以外、あなたはなにか問題がまだありますか?

現在のところ別に問題がありません。

そうですか。もし私達がすでに話してきたすべての条件に賛成するならば、それで、すぐに仕事の契約をサインすることができます。

ありがとうございます。私はもう一度、考えてみたいのですが、良いでしょうか?

可能です。あなたが賛成しても賛成しなくても、今週の内にあなたの決定を私達に教えることを望みます。

わかりました。

さようなら。

さようなら。

 

<一封求信>一通の求職の手紙

尊敬する総経理先生:

こんにちは!ネット上で貴社の市場開発部が経理を募集しているのを知りました。貴社は中加合資企業で、現在すでに中国大陸で、高い技術を持つ有名な企業までに成長して、中国でかなり多くの都市に、業務があります。

私本人は、貴社の業務と市場開発部の経理の職務に対してとても興味を持っています、現在、この手紙を貴社に書いているのは、正式に求職の申請を出すためです。

私は馬大為と言って、アメリカ人で、ABC商業学院を卒業しています。卒業後に、私はカナダの貿易会社の一つで仕事をし、アジア関係、主に中国の業務が担当でした。仕事で、どんなに困難があっても、私はすべて解決するための方法を考え出し、努力して市場を開発してきました。とても短い時間でしたが、私達の会社は中国の貿易に対して、大きな発展を遂げました。責任感があり、親切な態度も、何度も中国側の称賛を受けてきました。

会社は私の仕事に対してとても満足し、私が業務に習熟しており、創造精神があるとみなしてくれました。一年後に私は会社の商務代表になりました。さらに中国の社会や文化を理解するため、私は会社の仕事を辞めて、去年2月に北京言語学院で中国文学を進修し、現在すでに終了しています。

貴社の募集要求によると、私本人は、この仕事に合っていると思っています。私は貴社の中国の西北市場の開発の仕事に、心から参加したいし、私は貴社がきっと成功することを確信し、私自身もさらに大きく発展する前途があると思っています。

もし、貴社が私にこのような機会を与えていただけるならば、そのように、私はきっと貴社の業務を努力してやってゆきたいと思います。

私本人の略歴を添付します。理解するうえで、何か問題がありましたら、電子メールあるいは、電話をかけて私と連絡をとっていただければ幸いです。ありがとうございます!

順致(この良き機会に)

敬意をこめて

 

<閲読><怎才能找到理想的工作>

どのようにして理想的な仕事を探し当てることができるか

現在、求職するのが難しく、理想的な仕事を探したいならば、更に困難です。しかし、隣に住む(老)王さんは、二人の子供に理想的な仕事を探すため、手伝っています。王さんは自分の生活経験から、子供達に良かれと思われる提案をだしました。

王さんの息子は20世紀に80年代専門学校を卒業後、ふさわしい仕事を見つけていません。王さんは、人材募集部(単位)が従業員を募集(招聘)しているのを見つけては、専門のレベルと職歴に、少しずつ注意するようになりました。

当時、上海から南京までの高速道路を建造していました。王さんは高速道路管理事務室が補修人員を募集すると聞いて、彼は良い機会だと思い、すぐに息子に申し込みをさせました。彼の息子は、あまり行きたくありませんでした。

彼が学んだのは、コンピュータで、道路を補修しに行くのは、専門にふさわしくありません。王さんは聞いてとても怒りました。彼は言いました:”あなたが何をわかっているというんだ! まずよく道路を補修しなさい、あなたはまだ若いのだから、多くの技術、良くないものが何なのか学びなさい!考えてみなさい、高速道路がコンピュータの管理を使わないはずはないでしょう?専門が合わないのではなく、専門の知識が足りないのです。”息子はお父さんの言っていることは正しいとと感じました。高速道路を補修することに同意します。彼は数年ほどやると、顔は陽に当たりとても黒くなったが、確かに多くのものを習いました。仕事の中で、若者は苦しみを恐れず、疲れることを恐れず、骨の折れる仕事、汚い仕事は奪い取ってもやります:仕事が終わったら、彼は本を読むだけではなく、コンピュータの専門科目の研修に進みました。大変早く、彼は技師になり、間もなく、また高速道路管理事務室の仕事に異動されました。ある時局長が仕事を検査した時、若者が業務に対してとてもよく知っていることを発見しました。さらに仕事の経験があって、人材でした。すぐ彼を局の中に移動させ、現在では、彼はすでに局長の秘書になりました。

王さんの最も得意な事は、姪にも仕事探しを手伝うことでした。彼の姪は大学に合格しなかったが、ふさわしい仕事を探したいのです。

王さんは、毎日すべての募集広告に注意していたが、ある日、彼は人民銀行と工商銀行が同時に従業員を募集していることを発見しました。

工商銀行は40名募集して、人民銀行はただ10名だけ募集しています。

王さんは、心のなかで、これこそ誰もが望んだ仕事じゃないか!彼は姪に工商銀行を申し込みさせるつもりでしたが、募集人員を見て、王さんは考えを変えました:人民銀行に申し込むことに決定しました。

彼の姪は彼に聞きました:”工商銀行が、募集が多いので、合格の機会も多いはずなのに、私達はどうして人民銀行に申し込むのですか?”

王さんはちょっと笑って言った:”人民銀行は国家銀行です、要求も高く、募集人数は少なく、申し込む人はそんなに多くはいないと思っている。”

申し込み情況は、王さんが思ったとおり、たいして違いません。大部分の人が皆、工商銀行に申し込み、競争はとてもひどくなりました; それに反して、人民銀行に申し込む人は少なかった。試験を経て、王さんの姪は最後に採用されました。合格通知を受け取った後に、王さんは笑って姪に対して言います:”私達がどうして人民銀行を申し込んだのか、今あなたは分かったでしょう?あなたの今回の試験の成績では、もし工商銀行に申し込んだら、結果がどのようになったか誰が知るでしょうか?”

 

第46課 <最累>今、最も疲れているのは誰

陳先生、こんにちは、土曜日、子供を連れてどこへ遊びに行くのですか?

私がどこに遊びに行くかって?私は子供を連れてコンピュータ塾(補習)クラスに行くのです。あなたのような大記者は、小学校の中の情況に関心を持つべきでしょう。

そうです、いつか、私も父兄になります!あなたの子供の勉強はいかがですか?

子供の学習はまあまあ良いです、しかし負担があまりに重く、家族全員、すべて彼女のために焦っています。

最近、私は調査をしたところによると、朝始発のバスに乗ると、ほとんどの人が小学生と彼らを学校へ送る父兄の人達でした。

父兄(家長)達は本当に大変です、出勤するだけでなく、毎日朝夜に、子供に送り、子供を迎えに行かなければいけません。

子供達はもっと疲れています。彼らは、毎日67時間に授業を受け、夜には、さらに多くの宿題をしなければなりません。宿題は、もともと授業を受けている間に多少とも完成させ、先生は学生に家に持ち帰らせてやらせます。父兄は、その上、子供が努力しないことが嫌なので、子供に多くの補習と練習を増加させました。子供はいつも10時半以降になって、やっと眠ります。彼らはテレビを見るための時間さえありません!

どうしてこのようなことになるのでしょう?彼らはまだ小学生ですよ、遊ぶのは彼らの権利のはずです。

しかし、父兄は自分の子供を優秀な学生に育て上げることを望んで、彼らの前に良い前途があることを望んでいます;先生も自分の学生が皆、試験を受けて良い学校に進むように望んでいます。有名な大学に進学するため、子供はまず、有名小学や有名中学に合格しなければならない。このような気風の影響のもとで、子供達は小学校から競争が始まるのです。

こんなことはあってはならないことです。彼らは月曜日から金曜日までずうと学習に忙しいのですが、週末には、彼らは、少しはリラックスできるのですか?

週末には、成績が悪かろうが良かろうが、リラックスすることなどありえません。成績の悪い学生は補習クラスに行き、勉強の良い学生は特技を訓練しなければならない。私の子供で言えば、彼は学習が良かったので、補習する必要はありませんでした。土曜日の午前中は、私は彼に付き添ってコンピュータの補習クラスに行くか、あるいはパパが彼を連れて書道クラスに行きます。

君、週末に書道を学んでいるなら、書道家になりたいのですか?

わかりません。私のパパは書道が好きなので、彼が私に行かせるのです。

土曜日のこの日は(書道やコンピュータ以外の活動は)なくなったし、明日は日曜日で、あなたはちょっと遊んだらどうなの?

私はとても遊びたいのですが、先生は私を遊ばせません.

日曜日の午前中に、彼はまた英語の宿題をしなければなりません。午後だけは、やっと遊ばせることができます。本当のところ、私は子供をこのように疲れさせたくありません。

聞くところによると、多くの学校の指導者や先生達は、すでにこの問題に注意を払っています。ある学校は”楽しい教育”を提唱し、先生は学生に、家で宿題をするように求めないのです。

先生が私達に宿題をするように求めないのは、これは大変良いです。私は百%賛成します。

しかし、あなたは知っていますか?父兄達は、学校がこのようにすることに賛成していないのです。

 

<女儿今年才八娘は今年8

娘は今年やっと8歳、小学校二年生になった。彼女の勉強はさほど悪くなく、彼女が宿題をまじめにやることを先生は誉めている。

おじいさん、おばあさんは彼女の賢さが好きです。私とパパ二人とも彼女に対して満足しているが、彼女が遊びすぎると思っている。

子供が英語に関心を持って学べるように、今年の夏休み、私は彼女に英語の夏キャンプに参加させるつもりです、時間はそれほど長くなく、ただ10日間行くだけです。私が自分の考えを言い出すと、娘はとても喜びましたが、家の人々は皆反対しました。

おじいさんとおばあさんは子供があまりに小さいく、これまで家を離れたこともないのに、彼女を一人で出て行かせるのは、彼らはとても不安です。子供のパパはもともと彼女に行かせることに賛成しましたが、しかしおじいさんとおばあさんの話を聞いて、10日間があまりに長いことが嫌で、しかも子供が単独で生活する能力が無いと感じて、考えを変えました。彼らの意見を聞いて、私でさえ彼女に行かせたくありませんでした。娘はみんなが賛成しないのを見て、すぐに泣きだしました。

彼女の態度はとても断固としたものでした、英語夏キャンプは海岸だし、彼女は大きな海を見に行きたいし、クラスの学友は皆参加したがっているので、必ず行く必要があります。英語夏キャンプに参加できるように、彼女は、自分の服を洗えるようになることを私達に保証しました。彼女が絶えず要求したので、私は彼女が夏キャンプに参加することに賛成しました。彼女は跳びあがって、喜びました。

私は彼女に対して言いました:”喜ぶのは、まだ早いわよ、私はいくつか条件があります。ここの何カ条をやりとげること保証しますか、そうでなければ、あなたは行ってはいけません。”

娘は急いで私に聞いた:”お母さん、どんな条件ですか?すぐに言ってみて。”

私は彼女に告げます。

1、先生の話を聞きます。

2、学友と仲が良く、団結します。

3、毎日日記を書きます。

4、むやみに金を使わない。

娘は言う:”安心して、私がこの四カ条をやりとげることを保証します。”彼女はこの四カ条を一枚の紙の上に書いて、契約を締結でもするように、私と彼女二人とも上に署名しました。

娘は嬉しそうに夏キャンプに行きました。彼女が行ってしまった後に、家族全員は不安です。彼女にどんな問題が出てきているのか、いつも心配です。5日目になると、おばあさんは我慢できなくなった最初の人で、言った:”なぜなにか知らせがないのですか?あなた達が、彼女が行くことに賛成したことを責めます。”

私は急いで先生の家に電話をかけて、すべてが順調なことを知りました。

おじいさんとおばあさんはやっと安心します。

ついに10日目がすぎました。娘は帰って来ました。彼女はドアから入ってくると、手に持った一袋の果物を私に手渡して言うには、これは家族全員への贈り物ですと言うのです。この時に、私は子供の背が高くなり、大きく成長したように思いました。

晩ご飯を食べる時、娘はまず、家族全員に夏キャンプの生活を紹介し、それから彼女は日記と自分が撮った写真を取り出し私達に見せます。彼女は、とてもまじめに言います。クラスの仲間とよく団結しただけではなくて、何人かのイギリスの子供と知り合いになりました。イギリス人の先生は、彼女の英語の歌がよく歌えていると誉めてくれました。彼女はむやみに金を使いませんでした。

果物を買いに行った時、値切ることさえできました。おじいさんとおばあさんは聞いて、満足して言った:”そう、さらに衣服も洗え、英語の歌を歌うこともでき、これからは、このような活動にもっと多く参加することができるわね。”

 

<閲読> <糊涂官>困ってしまった県長官

昔、ある労働者がいて、レストランの中で一羽の焼いたニワトリを食べました。食べ終わって、彼は店の社長に対して言った。

「私が商品を届けるまで(支払いを)待っていただけませんか?ここに戻って来て金を払いますから、どうでしょうか?」

店の社長は言った「いいですよ、もしも、あなたが手元にないならば、今回はツケ(帳簿につけること)にしましょう。」

労働者は、店の社長に感謝し、立ち去った。

10何日か過ぎて、労働者は焼いたニワトリの代金を払いにきました。店の社長は帳簿をちょっと見て、また少し計算し、頭を上げて、彼に対して言った

「あなたは私に十両の銀を支払うべきです。」

労働者は自分でよく聞こえなかったと思い、すぐ聞いた。

「何だって?十両の銀と言いましたか。あなたは間違って記録したのではありませんか?ここのニワトリはどうしてこんなに高いのですか?」

店の社長は説明した。

「間違って記録していません。あなたが食べたのは一羽のメンドリです、考えてみてごらんなさい、もしも、あなたがそれを食べなかったら、この10何日間どれだけの卵を生んだことでしょう?それらの卵はどれだけ雛になることができたでしょう?雛は成長してまた卵を産むことができたはずです。このようにニワトリは卵を産み、卵はニワトリに変わって、あなたが十両の銀だけを収めても、これは最も安い値段でしょう…」

労働者は聞いて、とても怒って、大声で彼に言った。

「このようなわけのわからない帳簿、お金を払うなんてできません。」

店の社長は言った。

「金を払わないなら、すぐあなたに訴訟を起こしますよ。」

翌日、彼らは県長官に会った。県長官は彼らの二人の言う情況を聞いて、思考して、労働者に対して言った。

「店の社長が言ったことはもっともだ。メンドリは卵を産み、卵は雛に変わって、雛は成長してまた卵を産む、これらの事、まさか知らない訳ないでしょう?あなたは店の社長に十両の銀を支払うべきです。この事件はこのように解決しました。」

労働者はそれを聞き、もちろん承服しないで、再審を求めます。県の長官は面倒なことが嫌で、再審したくないのですが、ただ、労働者を心から納得させるため、彼の要求に賛成しました。労働者に対して言った。

「再審を求めるなら、それもできます。しかし、私は話をする前に言っとくべきだったが、もし再度、訴訟に勝てない場合は、倍の金を払わなければならないよ。」

再審するその日、多くの人がやって来ました。県長官、店の社長の二人とも来ましたが、労働者はまだ来ていません。県長官は大変不機嫌に、待っていました。しばらくたって、労働者がやっとやって来ました。県の長官は彼に聞きます

「あなたはどうしてこんなに遅くやって来たのですか?」

労働者は言った。

「しなければならないとても重要な事があったために、遅刻しました。申し訳ありません。」

県長官はまた聞いた。

「訴訟よりどんな事情が重要だったのですか?」

労働者は言った。

「県長官の大人、明日小麦を植えなければなりません、もし種を植えるのが遅くなるならば、来年の収穫に影響します。しかし、私はまだ麦の種を炒めていません。さっき私は家で麦の穂を充分炒めました、だから私は遅刻しました。」

彼の話を聞き終わって、みんなは笑い始めました。ある人が大声で言いました。

「十分炒めた麦の穂で、それでも種を植えることができるのですか?」

県長官はテーブルをたたいて、労働者に聞いた。

「あなたは家にいて小麦を炒めたと言ったが、炒めた麦の穂は成長できるのですか?」

労働者はとてもまじめに言った。

「みんなの言ったのは正しいです。熟している麦を炒めものは、種をまけませんし、育ちません。こんなことは子供さえ知っている事です、しかし県長官様は知りません。」

県長官はたいへん怒った。

「なんというでたらめを言う、私がどうして知らない事などあるだろうか?炒めた麦を植えても、もちろん成長することはありえない。」

労働者は言った。

「県長官様、あなたは炒めた麦を植えても成長しないことを知っていて、どうして焼いたニワトリがさらに卵を産むと思いますか?」

県長官は頭を低くして、赤い顔で、半日、しゃべることはありませんでした。

 

第47課 <打工的大学生多起来了>

アルバイトの大学生が多くなり始めました

中国の大学生は、アルバイトをしますか?

アルバイトをします。でも、過去の大学生は、基本的に、アルバイトをしませんでした、最近1020年の間、アルバイトする学生は多くなりました。

これは、不思議ですね。改革開放を実行する以前、中国人の生活水準は現在よりずいぶん低かったので、多くの大学生の経済条件もあまり良くなかったと聞いています。経済に困難であったなら、彼らはアルバイトするべきだったのでしょう。

その時の大学生がアルバイトをしない原因はたくさんありました。:

第一に、過去に大学に進むと、学生は授業料を払う必要はなかった。家庭が経済的に困難な学生は更に国から援助を得ることができ、彼らは食べ、居住には、ほぼ問題がなかった。

第二に、中国の両親は、普通は自分の子供が大学生に成ることを望み、その上彼らは子供が正式な仕事につく以前は、年齢の進み具合に関わらず、生活の上では、両親がすべて負担するべきだと考えています。だから大学生は、経済上は両親からの支援に頼ることが必要で、中国の両親も子供が進学することを支持する考え方を望みました。

第三に、人々は、大学生にとって、主要な時間はすべて学ぶことに用いるべきで、この時期に、彼らは自分で金を稼ぐべきでないと思っています。

ああ、彼らはアルバイトが学習に影響すると思ったのですね。

私が上記で述べたようなそれらの原因以外にも、もうひとつ重要な原因がある:たとえあなたがアルバイトしたいと思っても、あなたを雇う職場がないのです。

中国の労働力が多すぎたためですか?

それだけではありません。あの頃、どんな国営企業であろうと、まだ集体企業で、仕事の持ち場と給料はすべて国の計画によって決まっていた。このようなで状況では、あなたがアルバイトしても、職場はあなたに給料を支給する方法がなかったのです。

しかし、本で読んだことがあるが、以前は、大学生でさえ、工場と農村に行って働いたのではありませんでしたか?

ありました。でも、その時彼らは工場で仕事をし、農村に行って仕事をしたにもかかわらず、すべて労働奉仕で、報酬がなかったです。

それで、現在の大学生は皆アルバイトするのですか?

これは言うのが難しいです。恐らく大部分はアルバイトします。私を例にとっても、私もアルバイトをしています。

あなたがアルバイトしているなら、中国の大学生のアルバイト情況を私に紹介してください。どんな仕事をしていますか?

どんな仕事もしていますよ:新聞を届けるとか、家で勉強を教えるとか、店あるいは会社で仕事をするのもあります。私は何人かの同級生と一緒に家庭教師をやっていて、私達は家庭教師小チームを組織して、彼らは私をリーダーに選びました。

みんなは冗談でその人を”アルバイトのボス”と呼んでいます。

あなた達は経済の問題を解決することだけのために、アルバイトをしているわけではないのですね?

そうです。多くの学生は少しでも早く社会にでるために、自分を鍛えてようと、いくつか仕事の経験を得るのです。ある学生はどんな仕事が自分に合っているか知りたいのです。でも、都市に住む低収入の家庭と多くの農民の家庭にとっては、毎年一人の大学生を養うために、そんなに多くのお金を出費するのは、確かにとても重い負担です、だから、それらの家庭の子供の大部分は、銀行のローンに頼るか、アルバイトして金を稼いで自分の勉強を完成させるのです。

アルバイトした経験のある学生は、仕事を探しやすいのではありませんか?

おそらくそのようです。生活経験上で、アルバイトしたことがある学生は、仕事の能力の上で、普通はすべてアルバイトしたことがなかった学生より強いです。仕事を募集する単位は、もちろんこの点を考慮します。しかし、もし、学生がアルバイトする時間が多すぎたという理由で学習成績が下がったら、仕事募集単位も歓迎することはできません。

 

<我懂得了挣钱不容易>

私は金を稼ぐのが容易ではないことがわかりました

1999年、私はニュージーランドへ勉強に行きました。両親の負担を軽減するため、私は3ヶ月経った後で、レストランでアルバイすることを始めました。

このレストランは大きくなく、二階建てで、装飾がとてもきれいです。私は毎週ここで二度アルバイトをします:金曜日と土曜日は午後4時からただ夜12時まで、あるいは更に遅いこともあります。

私は家で自分の飯茶碗さえほとんど洗ったこともなく、もともとそんなことはできなかったので、初めた頃、社長はいつも私の動作が遅いことが不満でした。アルバイトしている友達の助けのもとで、私は急速に仕事をマスターしました。私が初めてアルバイトで報酬をもらった時、私は頭を下げて、泡で白くなった両手を見て、疲れて痛い腰をさすりながら、金を稼ぐのがどんなに大変かを感じました。

祝日を祝う時になると、私は一週間に三、四日アルバイトしなければならず、主な仕事は皿を洗う事でした。夜10時以降に、皿は最も多くなり、皿の高さは小山のようになります。私は一生懸命に洗うのですが、この皿の山はいつも変わらず、当時私は、もしも人にもっと手があれば、良いのにと思いました。私いつも夜の1時頃までにやり終え、仕事をやっと完成させるのです。

クリスマスがやってくると、レストランの商売はますます繁盛し、私の仕事も日一日と重くなりました。毎日私は十何時間働かなければならず、手の皮は洗って破れ、腰を真っすぐにすることもできませんでした。私は本当に少し耐えられなくなりました。時には、私はこう思いさえしました:私は国を出て、どうしてこんなに大きい苦しみにあわなければならないのか?両親が絶えまなく私に送金している以上は、私はアルバイトしなくてもよいし、おそらく少しは気楽な生活ができたはずだ。

しかし、とっても明らかなことだが、私の両親は二人とも給料に頼って生活しているので、私は、金持ちの家の子供と比べることができません。両親は一生貯めた貯金を使って、私を外国留学へ行くことを支えてくれたのに、私は彼らに頼ってばかりでいることができるだろうか?現在では、私は少し早めに独立して生活し、自分で自分を養っている。卒業後は仕事があります。私は彼らの生活をもっと良いものにして、幸せな老年生活を過ごさせたい。お父さんとお母さんは私に対して言ったことがあります:”国を出た後で、仕事がどんなに苦しくて疲れそうでも、あなたはどんな仕事からでも始めなさい。そのような経験があれば、それ以降、どんな苦しみがあったとしても恐れるに足りません。”だから、最も苦しい時こそ、私は、お母さんが傍にいて、私に頑張れと言っているのが聞こえるようです:”がんばり通して!がんばることが勝利なのよ。”

2003年に、私はついに大学を卒業して、その上、大学院生に合格しました。両親は私が春節に帰国してほしいと要望しました。彼らは私の背が高くなり、成長したのを見てとても嬉しそうです。お母さんは私が履いている古くなったスニーカーを指して、申し訳なさそうに私に聞いた:”おまえ、お金がなくなったのではありませんか?”

私は言った:”お母さん、私は金があります。私はあなた達が私に送金してくれたお金とアルバイトして稼いだお金を、すべて銀行にあるので、これ以後は、あなた達は私に送金する必要はありません。私はアルバイトしながら自分の勉強を完成させることができます。” 

お父さんとお母さんは私を見て、満足して笑いました。

 

<閲読> <我懂得了挣钱不容易>忘れ難い経歴

コリン(克林)はアメリカ人です。1995年、彼は言語学院で1年間中国語を研修しました。帰国して後、彼はなんとか北京にきて仕事をする機会を得ました。現在では、彼は北京で生活してすでに六年余りとなります、上手な中国語を話すことができて、その上、また北京のアクセントがあります。

2001年、北京はオリンピック招致に成功しました。北京の市民は英語を学ぶことに対してますます興味を持つようになり、若い人は勉強を続けるだけではなくて、老人でさえも真剣に学んでいます。団結湖小区のおじさんとおばさんは英語勉強会をアレンジしました。彼らはまた一人の外国の先生に来てもらいました、それが克林だったのです。

克林は余った時間を利用して、おばさんやおじさんに英語で授業するためにやって来るのです。毎回授業を終わって、これらの白色の髪をした学生は皆、彼にかなりの質問をしなければないのですが、彼はいつも根気よく答えます。彼はこれらのまじめで親切な学生が好きです。

授業を受ける前に、班長であるSummerおじさんは、かならずみんなに英文の歌、《雪織花(エーデルワイス)》を歌わせます。これは克林が彼らに教えたもので、彼らの歌う歌はなかなかうまいです。班長の姓は夏で、”夏”は夏の意味があるので、だから皆は彼をSummerおじさんと呼びます。

教室では、克林も彼をSummerおじさんと呼びます。克林は、学生の姓あるいは名前の意味によって、彼ら全員に英文の名前をあげました。授業をする時、克林はいつも英語でおじさんのおばさん達と一緒に簡単な会話をします。彼はこのクラスの学生の大部分が退職した職員であることを知っています、ある人は公務員、ある人は教師、ある人は医者、ある人は単位のリーダーです。彼らの知識(文化)水準は高い人もあり、低いもいる。しかし学習態度は皆とてもまじめです。これらの白い髪の毛の学生は、この若い先生をとても尊重して、これまで遅刻せず、早退もしません、用事があって授業を受けられない時でさえ克林に休暇を求めました。克林もとても自分の学生を尊敬していて、彼らの英文の名前を言う時、北京人の習慣によって、かならず「大爺」あるいは「大媽」を付け足します。

克林の両親は、息子に会うため北京に来ました。彼らも息子の教える学生にとても会いたがりました。おじさんのおばさん達がこのニュースを知って後に、彼らのために歓迎会を用意しました。克林の両親がこのクラスに来た時、Summerおじさんは、英語で歓迎の意を表わして、学友達も英語に中国語を加えながら、克林の両親と言葉を交わしました。聞いて分からないところがあると、克林が通訳します。みんなはしゃべったり,笑ったりして、歓迎会とてもにぎやかです。

克林の両親は、息子がとても大事にされているのを見て、彼らは大喜びでした。克林は、いつも、北京のおじさんやおばさん達の英語の先生になったことが、これが彼にとって中国で最も忘れ難い経歴となりました。

 

第48課 <我是独生子女>私は一人っ娘です

、あなたの手紙よ。

あ、私のお姉さんが送ってきたものです。宋華、あなたは一人っ子なのではありませんか?

はい、私は一人っ子です。

私はあなた達一人一人、一人っ娘のようだと思っていました。

間違いなくそうです。私達の国家は、家族計画を実行していて、一組の夫妻から子供一人生む事を奨励しています。だから、私のようにこんなに大きくなっても、基本的には皆一人っ娘です。

中国が家族計画を実行したのは、今世紀の70年代から始めたと聞いています。

そうです!あなたは、中国がどうして家族計画を実行したのか知っていますか? 50年代、60年代、中国の人口は早いスピードで増加しました。1949年の全中国の人口は5.4億です。1969年までには8億という数まで達しました。中国の人口は確かに多すぎました。経済は絶えまなく発展しましたが、やはり国民の生活水準を急速に上げることはできません。70年代から、家族計画は中国の基本的な政策になりました。ここ30年、中国はみごとに人口の増加をコントロールすることに成功しました。現在の中国人口の成長率は、世界の人口の平均増加率を考えても、すでに低い(レベル)です。

しかし、これは、とても大きい成果です。もし中国が人口増加をコントロールしなかったら、毎年経済は78パーセントの成長速度を維持しなければならず、それはやり遂げることなど不可能なのです。人口増加の速度があまりにも速すぎたことは、実は家庭生活水準を高めることにも(良い)影響を与えたのでは、ないですか?

言うまでもないことです。衣服を着て、食事をして、住宅、交通、診察、教育などなど、それらの事と家庭の経済情況と関係しないわけがないではありませんか?中国は発展途上国で、大部分の家庭はまだあまり豊かでなくて、家庭の人口はもっと多くなり、経済の負担はだんだん重くなっています。だから、家族計画もそれぞれの家庭生活水準を高める問題に関係するのです。

中国はこんなに広く、農村人口は特別に多く、この政策を堅実に実行し続けるのが本当に容易ではありませんね。

なるほど簡単ではないね。人口増加をコントロールするのは、とても複雑な問題です。家族計画の仕事は都市では比較的に良いのですが、農村はかなり多くの問題がまだあります。「男性を重んじ女性を軽んじる」という伝統的な家族概念の影響はとても深いです。特に比較的貧しいいくつかの地方では、ある夫妻はすでに2人の女の子があるけれども、彼らはやはり男の子の出産を望みます。もし三番目の子供が、また女の子ならば、彼らは多分、四番目の子供の出産が必要でしょう。このように生み続ければ、もちろん農村経済発展と農民の生活水準を高めることに影響します。

外国人は、少なからず、あなた達の国家の家族計画政策に対して別の見方があったので、この政策をあまり理解していません。

実は客観的に少し分析しさえすれば、理解しにくいことはありません。あなた達の国家の場合は、面積は中国に比べほんのちょっとしかなく、しかし人口は中国の五分の一しかありません。仮に、あなた達の国家の人口と中国の人口が同じくらい多かったなら、恐らくあなた達も家族計画を実行しなければなりません。中国は世界でも人口が最も多い国家で、全世界の22パーセントが中国です。もし中国が人口増加をコントロールしなかったならば、現在の全世界で、いったいどれくらいの人口だという計算になりますか?

中国の家族計画政策は中国の発展に関係するだけではなくて、世界の発展にも関係します。人々はよくこの問題を検討するべきです。

 

<”多子多福”与”丁克家庭”>

”子供が多ければ幸福も多い”と”ディンクスの家庭”

中国の農村では、”男性を重んじ女性を軽んずる”と”子を養うことが老化を防ぐ”という子育て概念の影響は、とても深刻です。たとえば、一組の夫妻に女の子が生まれて、たとえすでに二人、三人(女の子が)あったとしても、一人の男の子が生まれるのを待ち望み、引き続き出産が必要となります。

長い間にわたり、中国にある農業社会では、労働力は家庭にとって、とても重要だったからです。

両親が年老いて、仕事をすることができないと、自分の子女に頼って面倒をみてもらいます。娘はまた他の家に嫁がせるので、だから息子にしか頼ることができません。人々は常常言いました。”子供が多ければ幸福も多い”。もし息子がいないならば、自分が年老いた後で、どのようになるか心配です。今日、社会は発展し、情況も異なりました。各種の社会保険制度はすでに打ちたてられ、老人は年金もあるので、完全に子女に頼って生活する必要がなくなりました。社会の上では、すでにこれらの変化があるが、「子供が多ければ幸福も多い」というような伝統的な観念は、農村ではいまでも大きな影響があります。

しかし、都市にいる若い人は子育ての問題に対して新しい考えがあります。最新の調査によると、北京、上海、広州の3つの都市に住む住民の中で、21%の住民は、結婚しても子供が要らないことに”賛成”あるいは”どちらかといえば賛成”しています。一部の若い夫妻は”ディンクス家庭”を選びました。”ディンクス”はどんな意味でしょう?それは夫妻の2人とも働き、子供がいない家庭です。このような家庭は今世紀前半の60年代に米国に現れ、最近20年そこそこでだんだん多くなりました。現在、”ディンクス家庭”は中国でも現れていて、政府の調査によると、”ディンクス夫婦”は中国都市の中で、ぜんぶで、60数万組までにすでに達していて、それ以降もおよそ増加する傾向にある。”ディンクス家庭”は、実際は、都市における一種の新しい家庭の形式になってきて、今や大都市から中小の都市に発展してきています。

中国のディンクスの家庭は二つの大きい特徴があります:一つ目は、夫妻は比較的に良い教育を受け、知識(文化)水準は二人とも比較的に高い;二つ目は彼らの収入も比較的に高い。このように「子供のいらない結婚」という子育て概念には、新聞紙上では、同意していない。かなり多くの人は結婚して子供を生まないのは、自然の法則に背くものだと批判して、国家に対しても不利益だと批判している。

しかし、大学を卒業した夫妻は、子供が不要というのがとても実際的で、国家、個人に対しても両方利益だとおもっている。子供を産むか産まないかは、若い夫婦の自由な選択にゆだねるべきであると述べる専門家もおります。”ディンクス家庭”の出現は、社会が個人の選択に対してより尊重するようになったことを意味します。”ディンクス家庭”に対して,あなたはどう考えますか?

 

<閲読> <我家太爷爷我が家の曾祖父

我が家の人数は多くはないが、四世代の人がいる  曾祖父、祖母、父、母と私。曾祖父は今年90数歳になり、清朝、民国、それから新中国の生活を過ごしてきた。だから彼の考えと私達とは考え方が異なる面があります。たとえば、彼は、現在、食糧を貯めることが好きです。私たちは彼にこういったものです。現在、私達の国は食糧に不足していません、だから食料を大きく包み、小さく包んで、寝室に置く必要はありません。彼が言いうには:子供を養えば老化を防ぎ、飢饉に備え穀物を蓄える、わかりますか?

父と母が、どういっても、彼は話を聞ききません。仕方がないので、彼に蓄えさせます。でも、母は常に、彼の蓄えた食糧を出しては、太陽に干さなければなりません。とてもおもしろいのは曾祖父の人に対する見方です。彼は言う:「私は生涯二人の人を称賛している、一人は鄧小平で、もう一人は小葉子です。鄧小平は中国を裕福にさせ、民衆は良い日を過ごせるようになり、すごい人です。」曾祖父が感心する小葉子は誰でしょう?あなた達は恐らく知らないでしょう。彼女は私達、ここテレビ局の「毎週一歌」の司会者で、20数歳の若い一人の女の子です。曾祖父は常に私に対して言う:小さい人なのに、才能がある。歌を歌い、さらにダンスまでする。テレビに向かい話をしていても、話のレベルが高く、さらに美しくなった。

私は言う:「これのどこがすごいの。美しいのは彼女の両親が与えたものだし、歌い跳ぶのは先生が教えたのです。でも、小葉子は確かにとても賢くて、私も感心します。」

私が宿題をやり終えた後に、いつも曾祖父と一緒に「毎週一歌」を見て、また彼と歌合戦をします。ある時、私の母は私と曾祖父が大声で歌うことを耳にした:「(歌詞は)妹よ、あなたは船首に座り、兄は岸を歩きなさい」。母は笑いすぎて、腰をあげられなかった。曾祖父は歌いながら、演じて、その上歌えば歌うほどうれしくなった。歌うのがスター歌手に比べても、ひけをとらないと称賛した。すると、曾祖父は、もっと嬉しそうでした。

ある日、曾祖父は突然、とてもくらくら眩暈がし、全家族皆は急いで、彼を診察のために病院に連れて行きました。病院は彼に脳CTを検査させ、検査し終わった後に、医者は検査が終わったと言いましたが、曾祖父は横たわったまま検査台の上から下りたくありません。彼はとても怒って父と母に言いました:あんなに多くお金を払ったのに、私を良く診察しない。CTに入れたり、出したりし、それで診察が終わったとみなすなんて、いったいどんな診察をしたのか、誰もわからないだろう?

一家はあやし、説得して、やっと曾祖父を下に下ろしました。お医者さんもこっそり笑いました。

 

第49課 <”痛医脚”>”頭が痛いと足を診察する”

私は恐らく胃の病気かもしれない、ここ何日か、私の胃の調子が少し悪いと感じています。

中医に診てもらったら。一方では診察してもらい、もう一方では、中医がどのように診察することか理解できますよ。

私は映画で見たことがありますよ。そうだ、中医が診察する時、指を患者の手首の上に置きますが、あなたはあれが何をしているのか知っていますか?

患者の脈をはかっているのです。中医の場合、脈を探るのはとても重要です。これは西洋医が聴診器を検査に使うのと同じです。

脈をとる方法と、聴診器の検査とどう同じなのですか?

結論的に、中医が脈から得る情報は、西洋医が聴診器の中から得るよりもっと多いです。中医はあなた脈を感じ取り、顔色を見て、あなたの声を聞き、さらにあなたにいくつか問題をして、全身の情況がどのような状態にあるか、彼は基本的にはそれでよくわかるのです。

見たところ、中医を学ぶのはとても難しそうですね。

漢方はとても深い理論があって、中医を育成するには、経験を重視します。ただ脈をとる場合でも、中医の専門の学生は、先生と一緒に診察します、少なくとも数千人の患者の脈をとる必要があります。自分の感覚と先生の感覚が引き続き同じになるようになれば、脈をとる技術をマスターしたと言えます。

本当に簡単ではないわ!しかし、現代医学が発展するのがこんなに速いなら、中医ですら、最新の技術が、まさか必要ではありませんよね?

もちろん必要とします。中国の医者は中国医学と西洋医学を結び付ける問題を引き続いて研究し、現在では、中医は診察する際は、検査や化学検査をします。しかし、どんなに現代医学の新技術を使っても、中医はいまだに中医です。

どうしてですか?

人体の健康を理解するうえでは、中医と西医は異なるためです。西医は、普通は、人を機器の一部と見て、器官をこの機械の部品とみなします。例えば、あなたが胃の病気になった時、胃のその部品が壊れたのです。あなたのどの部品が壊れて、西医はその部品を修理しようとします。簡単に言うと、西医は”頭痛のときは頭を治療し、足が痛いなら足を治療します”。

医者というものは、そのようにするのではないのですか?まさか”頭が痛いのに足を治療する”なんてことはないでしょうね?

中医の理論は異なります。中医は、人は身体全体だと思っています。ある器官が病気になると、その器官の問題だけではありません、複雑な原因があり、恐らくその他の部分にも関係しています。例えば、目に病気があったとしたら、目の病気であるようで、実はおそらく肝臓の問題かもしれません。だから、中医は、一方では目の治療し、一方では、肝臓を治療します。中医では、”頭が痛いなら足を治療する”は全くありえることです。あなたは信じられないかもしれませんが?足の指をマッサージすると、確かにある種類の頭痛の病を治療できるのです。

本当におもしろいです。明日私は中医に診察してもらいます。

 

<林娜看中医>林娜が中医に診てもらう

林娜は、体が調子が悪いと、いつも病院に行くことを承知しません。今回は王小雲の提案を受けて、北京同仁堂で一人の専門家に申し込み、たまたま年輩の中医が彼女を診察することになりました。その中医は、林娜の脈をとり、彼女の舌を見て、彼女にいくつかの質問をして、頭を下げて処方せんを書き始めました。林娜は急いで聞きます:”先生、私はどんな病気で、どんな漢方薬を飲まなければなりませんか?”

”重い病気ではありません。大丈夫です。最近、比較的、勉強で緊張したのではないですか?”中医は彼女に対して言った。:”自分で市場へ行って、サンザシを二斤買いなさい。時間があれば、いくつか食べなさい。一方ではサンザシを食べ、一方では運動を良くしなければなりません。毎日40分ほど鍛えるのが良いです。数日過ぎれば、良くなりますよ。”

彼の話は、林娜はよくわかったのですが、中医がどうして彼女にサンザシを食べさせたいのかは、明らかではありません。少し不思議だと感じましたが、市場まで行って何斤かの赤くて大きいサンザシを買い、毎日、いくつか食べました。

診察を受けた翌日から始めました、彼女は毎日早く起き、外に行ってランニングをし、体操をし、それから太極剣を練習します。一週間後には、林娜は胃の病が良くなっていると感じて、なにかを食べたくなりました。薬を飲むことなしに、病が良くなりました。彼女は簡単には信じません。ある日、林娜は宋華に会い、中医にみてもらった事を言った、彼女が彼に言うには:”私はとても不思議だと感じた、あの中医は私に漢方薬を飲ませずに、サンザシを食べさせ、さらに運動が必要だと言ったのです。”

宋華は聞き、笑って林娜に対して言った:”サンザシ自体が薬なのです。あなたの病気は消化がよくないため、サンザシはちょうど、その病気の治療薬となるのです。サンザシがあなたの胃の病をうまく治したのです。”

林娜はまた彼に聞いた:”サンザシはどうして薬なのですか?”

宋華は、それに対してこう言った。中医が使う薬を“中薬”と言うのです。多くの中薬は植物、動物と鉱物から取ります、中医はこれらの大自然の薬を利用して病気を治すのです。人々のふだん食べるもの、多少は漢方薬です。

林娜は聞いて、さらに不思議だと感じました。中医の薬が病気を治すのは、そんなに簡単なのでしょうか?宋華は彼女にこう伝えた、中医の中薬はすでに数千年の歴史があります。人々は長い間に働き、生活する中で、多くの植物、動物と鉱物から病気を治すことを発見しました。いくつか薬の処方は民間から伝わり、代々有名な医者が絶えず研究して、良い病気を治す方法になったのです。中医は独特な理論があって、その方面の古い書物はたくさんあります、現在でも、そのまま保たれ残ったのは13000種もあります;中医には中薬、鍼灸、マッサージ、気功のような独特な病気を治す方法もあります。西医が良く治せないような、いくつかの病気は、これらの中医の方法を用いるだけで、よく治せます。中医の薬は、中国の文化の一つの宝庫です、現在でも多くの西洋人は中医の薬に対して興味を持っています。

 

<閲読> <疾忌医>治療を受けたくないので病をかくす

扁鵲(Bian Que)は戦国時代の有名な医者の一人です。彼は各地にあまねく歩き、行っては、人の病気を治しました。

ある時、扁鵲はある国に来ました。国王は彼に王宮にきて、客となってくれるように頼みました。会見の時、国王は扁鵲に病を治すための質問をいくつか聞きました。扁鵲はすべて真剣に答えました。彼は国王の顔色があまり良くないと思い、言いました。:”大王さま、見たところ、あなたは病気です。でも、病気は今のところ皮膚の中だけで、問題は深刻でありません、すぐに少し治療しさえすれば、すぐに簡単に治ります。”

国王はそれを聞いて、あまりうれしくありません。彼の心の中では、:私達は初めて顔を合わせ、ほとんど話をしていないのに、すぐに私が病気だと言う。あなたの医術はとても優れているだろう。だから、彼は扁鵲に対して冷たく言った:”関心をよせてくれてありがたいが,私の体はとても良好で、病気になっていない。”扁鵲は国王があまりうれしくないことに気が付き、立ち去りました。

扁鵲が去った後に、国王は大臣達に対して言った:”医者になると、病気になっていない人を病人にさせたいものだ。あのように才のある人は、医術が優れているとみせびらかしたいものだ。みんなは扁鵲が有名な医者だと言うが、私の見る所、扁鵲もこのような人だ。彼は他の人にだますことができても、私をだますことはできないよ。”

10数日を過ぎて、扁鵲は再度、国王に会い、彼はとても心配して言った:”大王さま、あなたの病気はさらに重く、すでに筋肉の中まで達しています。すぐに、治療しなければなりません!もっと早くに治療しないならば、さらに病が重くなりますよ。”

国王は彼にもう会いたくなくなりました。とても怒って言った。:“私のどこにどんな病気があるというのか?出ていけ!”

扁鵲は頭を下げ、去って行きました。また10数日過ぎて、扁鵲は三回目に国王に会った。彼はとても焦り言った:”王さま、あなたの顔色はとてもよくない、病は胃腸の中でまで行きました。再び病気を治さないなら、手遅れになるのかも。”

国王はテーブルをたたいて言った:”あなたはどうしていつも私が病気だと言うのか?まったく気が狂っているにちがいない!”

さらに10数日過ぎて、国王は王宮から出てきて、ちょうど扁鵲も王宮に向かって歩いていました。彼が国王に会うと、一言も話さず歩き去りました。国王はとても奇怪だと感じて、すぐに一人の大臣に扁鵲に問いただすよう派遣しました。

その大臣は扁鵲に対して言った:”先生、あなたは今日王に会って、どうして一言も言わないで、立ち去りましたか?”

扁鵲は答えた:”私が言うべきことは全部言いました。病気でも恐れないのではなく、病気なのに、病気ではないと言い、医者に治療させないことを恐れるべきです。実は、もっと前に少し治療しさえすれば、普通は、病気はゆっくりと始まります。病は皮膚の中にあると、温湿布を使うことができる。病が筋肉の中にあるときは、鍼灸を使える。病が胃腸にあるときは、薬を飲むことができる。しかし現在では、王の病気はすでに骨髄まで達し、王自身が病気であることを認めないので、病気を治すことも認めません。私も方法がありませんでした。”

五日後に、国王の病気は突然現れました。彼は人頼んで、早く扁鵲を呼びましたが、しかし扁鵲は五日以前に、別の国家へ行ってしまいました。何日も過ぎないうちに、国王は病死しました。

自分が病気であることを知ることを怖がる人は、治療することを認めず、このことを”諱疾忌医”と言います。

 

第50課 <我有可能坐中国船到太空旅行了>

私は中国の宇宙船に乗って、宇宙旅行に行ける

あ、宋華、あなたはネット上で何を見ていますか?

今日のニュースを見ています。

どんな重要なニュースがありますか?

聞くところによると神舟5号の有人宇宙船は発射に成功しました。私はさっき早く授業が終わったらネットで調べたいとがまんしていました。

そうですか?私達はすぐ見てみましょう。え、ここにあります:今度は発射に成功して、中国の有人宇宙飛行事業に重要な一歩を踏みだしたと説明しています。これからは、中国の宇宙飛行事業の歴史は新しい一ページを始めました。まったくすごい。中国は現在、すでに世界第三の有人宇宙飛行を実現した国家になりました。

実は、中国人は世界で最初に宇宙に行くことを思いついた民族の一つです。数千年前には、中国には嫦娥奔月の伝説がありました。明代になって、ある人は自分で作ったロケットで天に飛んでいきたいと思っていました。21世紀の今日にいたるまで、中国は自分の力量によって中国人のこの千年の願望を完全に実現しました。

見たところ、現在では、私でも、たぶん中国の宇宙船に乗って宇宙へ旅行できるのでは?

理論の上では、誰人でもこのような可能性がありますが、しかしすべての人がこの願望を実現できるのではありません。

神舟5号は有人宇宙飛行には成功しましたが、私の見るところ、あなたが宇宙旅行につくまで、はるかに長い道のりです。

どうしてですか?

あなたは宇宙飛行には、どんな条件があることを知っていますか?

まず体が丈夫なことです。

それは言うまでもないこと。根拠を紹介しましょう、宇宙飛行士の標準的な身長は、通常は1.7メートル、体重はだいたい65キログラム。

宇宙飛行士を選ぶ時には、彼らは病院の中に1ヶ月間居住させられて、彼らの全身の各器官に対して、すべての検査や化学検査を行います。

いうまでもないが、私の身長と体重は標準に充分ではありません。私の身長は1.8メートル、体重の75キログラム。

でも私は宇宙飛行士になりたいのではありません、旅行に行きたいのです!

旅行に行くのでも、あなたの体の条件によるし、その上また厳格な訓練を受けなければなりません.

そして、このように、私がこんなにも宇宙旅行に行きたいのに、まったく望みがないのですか?

そのように絶対できないなんて言えません。もし、将来、宇宙旅行に行くのが、あなたが現在飛行機に乗ってカナダに帰るのと同じように便利になったら、あなたは望みがないですか(希望があるよね)?

私は本当に中国の宇宙飛行事業がもっと早く発展してほしいと望んでいます、この日が少しでも早く、来てほしいものです。

 

<公蟹,母蟹和爪>雄カニ、雌カニとニワトリの爪

私達は雌カニが雄カニよりおいしいことを知っています。米国では、雄カニと雌カニが別れて売っているのを見つけました。更に私に不思議だと感じさせたのは、ここでは雄カニは雌カニより人気があって、雄カニの値段は雌のカニより二倍高いのです。アメリカ人は雌カニが雄カニよりおいしいことをまさか知らないのではないでしょうか?彼らがどのように思おうと、私達は雄カニの半分の値段で雌カニを買うことができて、当然とてもうれしいです。毎回カニを食べ終わった後に、私と中国人の友達は一緒に言ったものです。:"アメリカ人は本当に何がおいしいか知らないよね!"

ある日、一人の米国の友達は、私達を彼の家に連れてゆき、客としてもてなしました。主人は中国人がよくカニを食べることを知っていて、大きな袋で買いました。私は冗談を言って彼に聞いた:"雄のカニですか、または雌のカニですか?" 彼は笑って言った:"あなた達、中国人の一番のお気に入りは雌カニを食べることですね、私達アメリカ人はしかし、雄カニを食べるのが好きです。今日私達はよく比べてみましょう、どちらが実際においしいか見てみましょう。" 彼は中国に行ったことがあるため、中国人の好きなものを知っています。食事の時、私達は一方で食べて、一方で話した。主人は雄カニを食べて言った:"良い香!"さらに解説していうには、彼は雄カニの肉のほうが多くて柔らかいから好きで、雌のカニは肉が少ないだけではなく、その上も香りがないと言った。雌のカニは"子供"を生むため、栄養はすべて子供のへ行く。私達は聞いて、皆笑い始めました。

主人は私達をちょっと見て、また引き続いて言った:"あなた達は、私達アメリカ人が食べることを知らないと感じ、私はまたあなた達中国人が、食べるのを奇怪だと感じています!実はこれは習慣が異なるためなのです。 "

主人が話すカニを食べる事の見解を聞いて、私は彼が言うとおりだ、なるほどだと思いました。中国人は東半球で生活して、アメリカ人は西半球で生活して、食べる習慣は異なります。"ダイコンと青菜、それぞれ愛するところがある(一つの料理が万人にはあうことはない)“これはとても自然です。地球上には、このように多国家と民族があって、こんなに多くて異なる文化があります。世界はもともと多様化しているのです。

もし、私達はこのように異なることに敬意を払うならば、みんなは平和になることができて、友好に付き合えます;私達はもし、このように異なることを利用することができるならば、経済協力を強化して、みんなの生活はもっと良くなります。例えば、アメリカ人はニワトリの爪を食べませんが、中国ではで、ニワトリの爪の値段は鶏肉より更に高いです。

中国は毎年、米国から多くのニワトリの爪を輸入しなければなりませんから、アメリカ人は金を儲けられるのでとてもうれしいです;中国人は安いニワトリの爪を食べて、同じくとてもうれしいです。みんながうれしくなるのに、どうして十分やっていないなんてことがあるでしょうか?(お互いに協力すべきなのです。)

 

<閲読> <有趣的手机短信>

面白い携帯電話のショートメッセージ

調査によると、中国に携帯電話を使っている人は25千万いて、世界一です。携帯電話から送るショートメッセージも世界で最も多く、特に15歳から25歳の間の若い人は、携帯電話を使ってショートメッセージを送ることが最も好きです。

許さんは一人の若くてきれいな女の子です。外国の会社で働いています。彼女はショートメッセージのファンです。ほとんど毎日のように、何通かのショートメッセージをくれ、私をリラックスさせ、また私を楽しませます。彼女は言う:ショートメッセージを送ることは便利で、経済的です。同僚、友達、親族にメッセージを送れば、私が彼らを想っていることを彼らがわかります。

さらに、私の挨拶や、面白い笑い話を彼らにあげることで、喜ばせることができたらと望んでいます。彼女は毎月1000数本のメッセージを送り、毎日平均30通ほど送ります。今年、春節に彼女が私にくれたメッセージは:”新年になったね,あなたに何もあげるものがないけど、かといってそれほど多くのものをあげるつもりもないけど、ただあなたにあげる五千万はあります。:千万楽しんで!千万健康が大事です!千万平安が大事です!千万も愛が必要です!千万も私を忘れないでください!”私は、これは一枚の年賀状をうけとるよりは、もっとおもしろいと感じています。

毎日通勤して、許さんは会社のシャトルバスに乗るといつも、道中、約一時間かかります。メッセージを送ることは、車に乗っているとき一番の暇つぶしのやり方です。彼女は友達とチャットして、身内に挨拶して、ゲームを遊んで、自分でリラックスして楽しみます。

許さんは、時には、私と彼女と一緒に、楽しみを分かち合うことができます。あなたは見て、私の携帯電話が鳴っています。また許さんが送った二本の情報です。

第一信は:冷蔵庫の中に卵を五個置いたようです。第一個の卵は小さな声で第二の卵に対して言った:”あなたは見て、第五の卵はカビが生えて、とても恐ろしいです!”第二を受けて、第三に教え、第三は第四に話しました。第五はそれを聞きつけて、とても怒って言いました:”ほっとけ!俺様はキウイ・フルーツで、卵ではありません!”

第二信は:”聞いて、私はあなたを追って、私はあなたを確認し、私の探しているのはまさにあなたです!あなたは私に追いかける一つの機会をくれて、私はあなたに思いがけない喜びを返し、私はあなたを追ってとうとう最後まで追います!嫌なハエね、たたいて殺すわよ!”

許さん送るメッセージは面白いですか?誤解しないで,私は許さんの彼氏ではありません!信じないなら、許さんが送った次のようなメッセージをみてください。彼女はこのように私を励ましたのです:”小太りの女の子、あなたは天気を変えることができないけれど、あなたは気持ちを変えることができる;あなたは明日を借りてくることができないが、あなたは今日をうまく使うことができまて、そうすれば、美しさはあなたのもの、成功もあなたのもの、幸福もあなたのものです。”

 

北京レポート(75)中国語語学学校<4>新实用汉语课本3テキスト和訳

このブログは、新実用漢語課本3の本文を和訳したものである

 

{新実用漢語課本3 和訳}

第27課 入随俗<郷に入ったら郷にしたがえ>

何を注文しますか?

お茶を一壷と、後はお菓子をいくつか持ってきて。

わかりました。少しお待ちください。

これがいつも言っていた古い茶館です。今日私はあなた達を茶館に来てもらいました。

あなた達は、ここで私達の風俗というものを少しは理解できると思います。

茶屋の中は、人が多くて、本当ににぎやかです。

彼らが話をするときの声は大きすぎます。

茶が来ました!あなたたち、ゆっくりお楽しみください。

私達は大きな声で話していますが、ここの従業員の声はもっと大きいですね。

茶屋は最もにぎやかな場所です。ある人は(演ずる)舞台を茶屋に移して、茶屋の中で劇を歌い、ここは、もっとにぎやかになるのです。

私は、公共の場所での話はなるべく小さい声で話すべきだと思います。

中国に来てから、店あるいは駅でもそうですが、ほとんどのレストランでは、人々の話をする声は、とても大きいです。本当のところ、私は実は、なかなか慣れません.

茶館に来る人は誰でも、にぎやかなのが好きです。みんなはお茶を飲みながら、おしゃべりします。

おしゃべりが楽しくなると、話をする声がだんだんに大きくなります。静かさを好む人が茶館にくることはありません。

そんな人はいつも別の場所、たとえばコーヒー店に行きます。

林娜の言うとおりです。公共の場所で、話をする人のなかには、声が大きすぎる人がいます。 

私はここで、ひとまずおしゃべりをしたかったのですが、あなた達二人ともここがあまりにやかましいなら、それでは、出ましょう。前に公園がひとつあって、そこでは、人は多くありません。

私達はその公園まで行って、すこし散歩しましょう。

いいですよ。私達は散歩しながら、おしゃべりしましょう。

 

私達がそれぞれ自分の意見(見方)を言い出すと、あなた達は嬉しくないでしょうね?

もちろんそんなことありません。私達はいつも外国の友達といっしょにいて、違う国は違う習慣があることを知っています。

しかし私達にとって、これはとても正常なことです。

外国の文化を理解しない人はどのように思うでしょうね?

彼らが慣れないと思うことはいくつかあります。例えば、中国人は食事のとき箸を使い、西洋人は食事をするときナイフとフォークを使います。西洋人は食事を自分の大きな皿の上に置いて、大きな塊を小さな塊に切って、さらにそれを口の中に送ります。もし指に、少しでも料理がつけば、すぐ指をなめます。

中国人の中にはそれは、とても慣れないことだと思ってみています。

ナイフとフォークで食事をして、指についた食事をきれいになめるのは、それは私達の良い習慣です。

力波、あなたは何か言いたいことがありますか?

はい。私達は幼い時から成長するまで、一貫して、そのようにしています。

しかし、私達は、ここで、食事をする時、指をなめるのは良い習慣ではありません。

私の意見では、”郷に入れば郷に従う”べきでしょう。 私達が国外での公共の場所の話をするときは、声は少し低くするべきです;あなた達は中国人の家で食事をしたら、きっと指をなめないでしょう。 

そうです。私は”郷に入れば郷”に従います: 中国料理を食べる時、私は箸を使います;西洋料理を食べる時、私はナイフやフォークを使います。 私はどちらも良いと思います。私のお父さんとお母さん二人とも、そのようにしています。

力波、”郷に入れば郷に従え”とは、英語で訳すると、どのように言うべきですか?

 

<閲読><香茶>香る茶を差し上げよ

宋の時代の大文学者、蘇東坡。いつも一人で旅行に出かけます.彼は特に寺院を見学することが好きです。ある日、彼は寺院の一つに入ります。廟の中にいた和尚は、この人が入って来るのを見ました。蘇東坡は子供を教えている先生に似ています。また、とても普通な人にも思えます。和尚は着席して動かず、ひとつの字だけを言いました、”座れ”。 彼はまた小さいテーブルの上の急須を指して、言います:”お茶。”蘇東坡はちょっと笑って、小さい机の横に着席します。彼は小さな声で和尚にいくつか質問をします。和尚はこの先生がたくさんの事を知っていることを発見します。すぐに立ち上がって丁寧に言いました。”お座りください”。

そして、また小和尚(小僧)に対して言いました:”お茶をさしあげなさい!

和尚は蘇東坡に、”ちょっとお聞きしますが、あなたのお名字は何ですか?”と聞きました。 蘇東坡は自分の名前を言い出しました。和尚はこの先生は大文学者の蘇東坡だと思いつかず、 彼はすぐ蘇東坡を 大テーブルの前に行かせました。

とても仰々しく”上座にお座りください!”と言っただけでなく、その上また大声で小和尚(小僧)に対して言いました:”速く!速く! 茶をさしあげなさい!”蘇東坡は笑って言います:”どういたしまして! 和尚はもう気が付きました。蘇東坡は大文学者の一人であるとともに、さらに大書道家の一人です。

もし蘇東坡が寺院に書を書いてもらえるならば、彼らの寺院はあっというまに有名になり、 これは良い一つの事件となると和尚は思いました。 こう考えると、彼はすぐに家の中にかけこみ、一枚の大きな紙を取り出して来て、それをテーブルの上で置きました。さらに両手を胸の前に置いて、口の中で言うには:”阿弥陀仏! 阿弥陀仏! 私はあなたに私達に一副の字(書)を書いていただきたい。”

蘇東坡は立ち上がって、少し考えて、言います:”いいですよ”。”彼は和尚がさっき口に出した言葉を紙の上に書きました: ”座れ、どうぞお座り下さい、ぜひ上座に座って下さい。お茶、お茶を差し上げよ、良い香りのお茶を差し上げよ。”和尚はそばに立ちながら読み、声に出しました。この十二の字を声にだし終わって、和尚の顔は赤くなりました。

 

第28課 <礼情意重>

贈り物はささいな物でも気持ちはくみ取るべきです

今日は中秋節です、中国人は全家族がいっしょにこの祝日を過ごすことが好きです。

今日は、私達もいっしょに(この祝日を)過ごしましょう。

ありがとうございます、雨平。今日、私達は中国人どのように中秋節を過ごすのか少しは理解できるでしょう。

中秋節は春節のように、にぎやかなになりますか?

中秋節に春節ほどにぎやかではありませんが、しかしこの日は、重要な祝日の一日です。

私達は中秋のための月餅、果物、お茶、ビールを用意しました。私達は月餅を食べながら、月見をしましょうか、どうですか?

良いですね!そう言えば、私達はあなた達にあげるいくつかの小さい贈り物があります。

私達もまた、あなた達にいくつかの小さい贈り物をプレゼントします。

私が先にしましょう。力波、これは私があなたにあげる小さい記念品で、あなたが気に入るとよいのですが。

あ、筆ですね、文房具の四つの宝(筆・墨・紙・硯)の中の一つ、しかもブランドものです!

これのどこが小さい記念品ですか?これは一件の大きな贈り物です。私はそれを私のテーブルの上で置いて、毎日いつも、それを見ることができます。

あなたは中国書道が好きなのではありませんでしたか?ブランドの筆を使って、あなたはきっと、もっと良い字がかけますよ。

林娜、私はあなたに一件の小さい贈り物を持ってきました。あなたが好きか嫌いか見てください。

スカーフ、これはシルクでできているわ、とてもきれい。

きれいな林娜が、このきれいなスカーフを身に付けて、更にきれいになりました。

本当に?私のどこがあなたの言うようにそんなにきれいだというの(きれいなはずがないじゃない)。小雲、本当にありがとう!

私にとって、これは最も良い贈り物です。

私は大にプレゼントするような良い贈り物がなかったけど、私は彼が中国の音楽が好きなことを知っていたので、彼に音楽CDを一セット送ります。

みんな見て、私の受け取った贈り物はとっても良いものでした。音楽CD一セットで、中国の音楽です!ありがとう。

どういたしまして、少しのほんの気持ち。

私達の番ですね?私達も、あなた達にプレゼントするいくつかの贈り物があります、これは宋華にあげるものです。

ありがとう!

雨平、これはあなたへのものです。

どうもありがとう!

小雲、あなたにあげた贈り物を見てみて。

ありがとう。

みんな、贈り物を全部、あげ終わったなら、さあ、私達は月餅を食べましょう!

みんなが中秋を楽しめますように祈ります!乾杯!

乾杯!

見て見て、月は上がってきました。今日の月はなんて美しいのでしょう!

 

私達は、初めて中国の中秋節を過ごせました、しかもそのように良い贈り物を受け取れて、

みんなはとてもうれしいです。でも、私はあなたにすこし聞きたい質問があります。

どんな質問ですか?

私達は贈り物を受け取って、すぐそれを開けて、何なのか見てみました。あなた達は贈り物をもらった後に、ただ外側を見て、開けませんでした。私達が、中身が知りたい、と思っているほどは、中国人は思っていないようですね。これはどうしてですか?

私は先にあなたに聞きます。贈り物を受ける時、あなた達はどうしてすぐ開けて見てみるのですか?

私達は贈り物を開けて見て、贈り物を称賛して、感謝の意を表わします。これは贈り物を送る人(の気持ち)を尊重しているからです。当然、自分である種の思いがけない喜びを得ることができることも期待します。

私は、あなた達の習慣は、私には理解できません。他の人があなた達に、贈り物をあげることを好きでありませんか?

もちろんそんなことはありません。友達が贈り物をくれるのを嫌いなわけはないでしょう。

私達は友達から贈り物を受け取るとき、普通はすぐ開けません、これも贈り物を送る人への尊重を表しているのです。

私達はどんな贈り物を送るのかはさして重要だと思いません。

人々が常に言う事ですが、贈り物はつまらないものでも気持ちはくみ取るべきで、重要なのは友情です。

そんなことだったんですね!本当言って、その日にあなた達は開けなかったので、私達はちょっと心配していました。

何を心配していたのですか?

あなた達が私達の贈り物を好きでないのではないかと心配していました。

何を言っているんですか、あなた達の送った贈り物はすべてとても良いです。例えば、丁力波はカナダの飴をくれました。

とっても特色があるじゃありませんか? 私達はすべてとても好きです。 

あなた達はどれもとても好きだと言ってくれて、私は大変うれしいです。

 

<閲読><嫦娥奔月>嫦娥奔月

中秋節に月見をするのは唐の時代からです。

中国の古代の神話の中で、月の上に月の御殿があって、そこに一人の美しい仙女がいました。彼女の名前は嫦娥と言います。

嫦娥は、元は人間世界の女の人でした。彼女の夫はある種の特別な薬を手に入れ、彼女に手渡しました。ある日、嫦娥はこの薬をちょっとかいで、彼女は自分の体が軽くなるのを感じました。飛びたちました。彼女は飛んで、がだんだんに高くなって、ますます速くなって、最後は、月に飛んで辿り着きました。嫦娥は月の宮殿の仙女になったのです。

伝説によると、ある八月十五日の夜、唐明皇は夢を見て、(夢の中で)彼は月にたどり着きました。彼は自分の皇宮が月の宮殿ほど静かではなく、高く大きくはないと思いました。彼は月の宮殿で嫦娥を見つけました。きれいな嫦娥は白色の服を着ていて、とても親切に唐明皇に酒を飲ませ、また彼のために歌を歌い、踊りました。

唐明皇は、夢から覚めた後に、この夢から有名な曲を書き上げました。

これ以後から、毎年八月十五日、唐明皇は皇宮の中で月を愛でるコンサートを催し、彼の書いたこの曲を演奏することになりました。それから、中秋節は中国の祝日の一つになりました。この日、一家は一緒に集まって、月餅を食べながら、月を鑑賞します。その日に人々が月を見ている時、嫦娥が住んでいる宮殿も少しはみえるかも知れません!

 

第29課 <多提意たくさんの意見を述べてください

あなた達よくいらっしゃいました!歓迎、歓迎します!すぐにお入りください。

張教授、これはあなたにあげる花です。

ありがとう。あなた達、遠慮しすぎですよ。お座り下さい、何を飲みますか?

お茶を飲みます。あなたの書斎はとても特色があります。壁の上には中国の書画がかかり、本棚には、こんなに多く古書があります。

机の上には四つの宝(筆・墨・紙・硯)があり、外には、さらに整然とこんなに多く花を並べて、盆栽まであります.

これらの花は本当にきれいです、すべてあなたが植えたのですか?

いいえ、みんな買いました。でもそれらはここでますます成長して、今も花が咲いています。

これは君子蘭と言うでしょう?少し長い緑の葉、赤っぽい花で、本当に美しいです。

君子蘭と言います。この種の花は栽培しやすく、花が咲く時期も比較的長いです。

花の栽培は本当におもしろいです。私は明日授業が終わったら盆栽を買って、寮の中におきます。私も花を栽培することにします。

花の栽培はおもしろいものです。しかしあなたはよく育てることができますか?

もちろんよく育てられます!私の考えでは、花を育てることは、中国語を学ぶほど難しくないでしょう。

花を育てるのはあまり難しくない。でも、花をよく育てようとすると、すぐそれほど簡単でならなくなりますよ。

人はよく言うのは、”女の子はよく花を愛します”,林娜が花を育てるのが好きなら、彼女はきっとよく育てられると思います。 

ありがとうございます、張教授、私もそのように思いました。

これらの盆栽はすべてあなた自分で作った作品でしょうか?

はい。仕事に疲れた時、私はすぐ外に出て、花に水をやり、これらの盆栽の枝切りします。これはとても良い休息になります。

盆栽は一種の芸術です、盆栽を植えるのはとても容易でないと聞いて言います。

張教授、あなたは、いまや園芸師の一人です!

私のどこが園芸師ですか?これただちょっとした趣味です。

 

張教授、私はとても中国の書道が好きで、(書道の)先生に学んだことがあります、しかし進歩は早くなく、私はどうしたらいいのかよくわかりません?

書道を学ぶには、たくさん見、練習することです。人がいつも言うには、もしあなたが毎日まじめに練習すれば、百日も要りません。すぐにも漢字をきれいに書くことができるようになります。当然ながら、漢字の書で芸術作品になるように書くには、たくさんの練習がさらに必要になります。

張教授、私に書を一枚書いてもらえませんか、それがもし可能でしたら?

私の書はとても普通ですので、あなたは、多くの書道家の字を見るべきです。

あなたの書はとても有名なのを知っています。この字の書は私にもらえませんか?

この字は私が書き間違えたものです。私は今日さっき、ちょうど一枚書いたばかりです。あなたは上の方をみて、何と書いてあるか見なさい。

”弟子が師匠より劣っているとは限らないし、師匠が弟子よりすぐれているとは限らない”。張教授、ちょっとお聞きしますが、この文章はどんな意味ですか?

これは唐代の文学者の一人が言ったことがある話で、意味は,学生は先生を辱めず、先生は学生より優れているとは限りません。先生と学生は互いの学び合うべきです。

ありがとうございます、張教授。この字はとてもおもしろい、私はそれを私の寮の壁の上で掛けておきます。

そうですか、これは私がさっき書いた本の一冊で、あなた達にプレゼントします。1人に1冊です。

私はすでにあなた達の名前を本に書きました、たくさん意見を述べてください。

「漢字書法芸術」ですね?,ありがとうございます。張教授、あなたは大変謙虚です。

あなたは先生で、私達はこのように中国語の勉強で、少し遅れているくらいなのに、どうして(先生に)意見など出すことができましょうか?

あの唐代の文学者はどのように言ったのでしたか?

”弟子は師匠より劣る必要はないし、師匠は弟子よりすぐれている必要はない”。

 

<閲読><舍养花>老舎、花を育てる

私は花が好きで、よく花を育てます.しかし、私はまだ園芸師ではありません。というのは、園芸の技術を高める時間がないためです.

私は花を育てることを、ただ生活の中の一種の楽しみと見なしています。私の育てた花は多いが、あまりに貴重な花はありません。

私が育てた花が、花を咲かせると、私はうれしいです。貴重な花は育てにくく、もし一鉢の貴重な花が病気になったらば、心の中はとても苦しくなります。だから私は小さい中庭に、整然とこのように多く並べると、皆よく育ってくれるのです。

当然、私は、また毎日それらの面倒をみなければならず、良い友達と同じようにそれらに関心を払い、それらの生活情況を理解しています。

そのようにしなければ、それらの花は、やはり死にます。それらの助けがあるので、私は花をどのように育てるべきかわかるのです。

今、私の小さい中庭で、花はだんだん多くなって、本当に人を喜ばせます。

私の体はあまり良くありません。花は私がめんどうをみていますが、花が私に感謝しているかどうかはわかりません。

でも、私はそれらに感謝しなければなりません。私が仕事で疲れた時などには、すぐ中庭までいって、花を見ます。

 花に少し水をあげ、それらの盆栽の枝切りをし、それから再び働きます。私は毎日このようにしているのです。これはとても良い気休めです。体に対しても、とても良いです。私はこれが薬を飲むより良いと思っています。

花が咲いて、友達が私に会いに来ると、私達は中庭に行って、花を愛でます。それらの緑豊かな葉、赤い花を見ていると、彼らは私の育てた花がよく成長していることを称賛してくれます!私は心からとてもうれしいのです。

私はいつも自分の育てた花を贈り物にして友達にあげています。彼らみんな喜び、育てた花は、生活を美しくするだけでなく、心さえ美しくすると言います。友達の話を聞いて、私はますます花を養うのが楽しみの一つだと感じます。

 

第30課 <他太极的>彼らは太極剣を練習しました

現在、8時半だが、街頭はまだこんなににぎやかです!

ここの人達は、晩ご飯を食べ終わると、活動するためにでてきます。ほら、人々は歌ったり,踊ったり、遊ぶのが本当に楽しそうです。

そこに、多くの人が来ます、ダンスをして、一方では銅鑼を叩き、太鼓を叩きます。彼らはどんなダンスを踊っていますか? 

彼らはヤンゴ踊りを踊っています。

ヤンゴ踊りですか?私は聞いたことがあります。

これは中国北方の民間舞踊の一種で、ヤンゴ踊りと呼ばれ、ヤンゴ踊りの動作は簡単で美しいです。子供、年ごろの娘、若者、老人でもみんな踊ることができます. 老人の言うことには、今ヤンゴ踊りはすでに、一種の身体活動になってきている。彼らは身体をよじることが好きで、いつもよじると全身汗が出ます。

見て、この種のダンスはとても良くて踊れますよ、私もすぐにでも学べそうです。私は彼らと一緒に身体をよじっていいですか?

もちろんできます。

駄目だよ、先に動作をちょっと練習しなければならない。さもなければ、みんなは私が一人がよじっているのを注目してしまうよ。

前を歩いてきたのは、多くの老人ですね、彼らは手すべて何を持っていますか?

彼らは太極剣を練習した人たちです、手に持ったのは剣です。太極剣も中国武術の一種です。

太極剣はよく体を鍛えることができますよ。私のお母さんは、以前は、いつも病気にかかって、働くことができませんでした。それ以来、彼女はすぐ太極剣を練習しました。二年間練習して、彼女の体は良くなり、今では出勤しています。

力波、あなたは毎朝、太極拳を学んでいるのではありませんか?あなたが学んだのは、どこまで深く学びましたか?

今は、私はもう太極拳を演ずることができるようになりました。最近、また太極剣を学ぶことも始めました。

私は太極拳を演じ、太極剣を練習することは体にとても良いと思います。

太極剣の動作はとても優美です、太極剣の練習と比べて、ヤンゴ踊りはそんなにたやすくはないでしょう。

見て、街路の中央の花園には、多くの人が囲んでいます。そこはとても静かでどんな音さえも聞こえません。彼らは何をしているのでしょう?私達はちょっと行ってみてみましょうよ。

 

彼らは中国将棋をしています。宋華、あなたは中国将棋を打つのが好きですか?

好きです。私は他の人が中国将棋を打つのを見るのも好きです。自分と彼らの打つのを比較しながらみるのは、より興味深いです。

時々私は夕飯を食べながら見ます。

だからあそこではまわりに人が集まって、中国将棋を打つのを見ているのですか?

そうです。いつも二人で将棋をしていると、多くの人が囲んで見ます。 見ている人と打っている人とは、たぶんお互いに知らない人でしょう。

それはおもしろいです。

京劇の劇団は、どうしてここにきてまで歌うのですか?

京劇の劇団の人ではなくて、彼らはこの住宅地区の京劇愛好者の人達で、しかも皆老人です。

以前、彼らが働いていた時、忙しくて歌う時間がありませんでした。現在は退職しています。

暇を持て余す時間がとてもあるので、晩になるとすぐここへきて楽しく歌うのです。好きな事なので、顔見知りでない人でさえも皆友だちになります。 一般論で言えば、ここに歌を歌いに来る人達のレベルは悪くはありません。

京劇を聞くのが好きな人はまわりに来て聴きます。彼らは聞いて楽しくなると、「好」と叫ぶことさえします。

これは彼らにとってレジャーの過ごし方の一つなのです。

本当におもしろいです。 これらの老人のレジャー活動は数多くの特徴があることに気が付きました。簡単に言うなら、第一は、彼らは非常に身体を鍛錬している。第二は、最も重要なことですが、彼らは多くの人達と一緒に活動するのが好きだ。

第三に、ある人は活動し、ある人は見て、たぶんお互いに知らなくとも、しかしみんなで楽しく遊べる。

あなたの言う通りです。 当然、老人たちのレジャーのしかたは、まだまだたくさんあります。 朝に体操する人がいて、駆け足する人がいて、山に登る人がいて、泳ぐ人がいて、自分の飼っている仔犬を散歩に連れ出す人もいます。

さらに家にいて、書道を練習する人や園芸にこっている人もいます。

若者は?

若者のレジャー活動はさらに多いです。 見てみて、道の対面にはインターネットカフェの入り口があり、店に出入りしている人たちは、みな若者です。ダンスホールの中の横から出てきたのは2人の若者です。

 

<閲読><走路和寿>歩くことと長寿

人は、”食後に100歩、歩けば、99歳まで生きられます。”とよく言われます。 歩くことは最も便利な活動の方法です。それと共に、お年寄りに最も良い鍛錬です。 どうして歩くことなのでしょうか? 医者はお年寄りに毎日30分間3キロメートルを歩くこと、週に少なくとも五回は行う事を勧めます。 当然、どれくらいの時間、どれほどの道を歩くか、さらに自分の身体の情況を見る必要があります。 身体の調子が良いなら、多く歩くことができる、身体の調子が悪ければ、歩く距離を少なくすることができる。毎日とにかく歩けば、身体に必ず有益なことがあります。

1人の医者が2組の老人を調査しました。 1組は毎日、1時間歩きます。もう1組は、毎日ほんの少しだけ歩きます。その(調査の)後で、毎日歩いた人の方が長寿で、心臓病も少ないことを、彼は発見しました。

一人の記者は95歳の一人の老人を訪問しました。 老人に質問した、健康で長寿の秘訣は何でしょうか?

老人は笑って”私に、どんな秘訣があるかですって? 人は常に言うことは、生命は運動に関わっている。 若者に運動が必要ですが、老人にはさらに常々の運動が必要です。”と言いました。 記者はさらに質問して、”あなたはどんな運動が好きですか?” 老人は答えて言うには、”私が最も好きなのは歩くことで、毎日1時間の道を少なくとも歩きます。朝、起床して、すぐに公園内に着いて、少し歩きます。全身が暑くなるほど歩かなければなりません。しかし、暑くなって汗がでるほどは必要ありません。1時間、道を歩き終わって、やっと帰宅して食事して、本を見て、新聞を見て、テレビを見ます。”。

老人は、毎日歩くことは、簡単で、しかも便利だと思う。 もし、再び山に登ることが可能であれば、さらにすばらしい。

記者は、”歩くことがたぶんこの老人の長寿の秘訣だろう”と考えます。

オリンピック運動の故郷にはこんな文句が広まっている。;”あなたは健康であるために変わりたいと考えますか?すぐに走りなさい。

あなたは頭が良くなるように変わりたいですか?すぐに走りなさい。 あなたは奇麗になりたいですか?すぐに走りなさい”。

お年寄りに対して、私たちはこうも話すことができるでしょう。”あなたは健康になりたいですか、すぐ走りましょう。

あなたは長生きしたいですか、すぐ歩きましょう。

第31課 <中国人叫她”母河”>

中国人はそれを母なる河と呼ぶ

宋華さん、学校は、私と力波に”中国通知識大会”に参加するようにしました。 私たちは中国に来て一年以上になりますが、中国の地理に関するして理解している知識はそれほど多くありません。 現在、たった一か月あまりしか準備時間ありませんよ。

私たちは心配のあまり、食事も、睡眠も十分にとっていません。

今回の大会にどれくらいの人数が参加しますか?

20何人かになると聞いています。

急ぐ必要はありません。 あなたたちはただ真面目に準備すれば、必ずよい成績をとることは可能です。

あなたは私たちのために準備を少し手伝っていただけないでしょうか?

いいですよ。 私はまずあなたたちに問題をひとつ質問しましょう;中国はとても大きいですが、どれくらい大きいですか?

中国の面積には960万平方キロあります、東から西までは、五千数百キロがあります。

南から北までには、五千500キロあって、世界でもビッグスリーに入ります。

そうです。 ロシアが最大です。 中国はアメリカと比べて少し大きいです。 カナダよりは少し小さい。

中国の人口はどれくらいですか?

中国の人口は、大陸、台湾、香港とマカオを全部合わせて、12億九千万人ほどいます。

中国は世界上、人口が最も多い国です。

正確な回答です。 次の問題です;世界でもっとも高い場所はどこですか?

中国のチベットにあります。

世界で一番高い山頂は何と呼びますか? それはどれだけの高さがありますか?

世界で一番高い山頂はチョモランマ峰と呼んでいます。その高さは8800メートルほどあります。

中国が一番長い川は黄河ですか?

いいえ。 中国で一番目の河は長江(揚子江)で、長さは6300キロあります。 それは世界でビッグスリーの河です。

黄河は中国で二番目の大河です、長さは5400キロほどあります。

中国人はなぜ黄河を母なる河と呼びますか?

黄河は中華民族(文明)のゆりかごです、だから中国人は河を”母なる河”と呼びます。

 

ダーウェイ、さっき誰かがあなたへ電話しましたよ。

それはたぶん私の友達の一人がかけてきたのでしょう。 長い休暇なので、友達の何人かは観光旅行に行きたいと言っています。しかしまだどこかへ行こうか決めていません。

中国の名所旧跡はたくさんあります。有名なところは少なくとも5、6百はあると言われています。

もし観光旅行が好きだったら、休暇ごとに行くべき場所がありますよ。

まずは、どこへ行きましょうか? 私はすでに2、3か所へは行ったことがあります。例えば海南島、西安。 そう言えば、さらに泰山もありました。

あなたは名所旧跡へ行くことが好きですか、それとも自然の風景を見ることが好きですか?

どっちも好きです。 私は特に山登りが好きで、高い山で、かつ美しい山に登ることが好きです。

そうですか。 チョモランマに登るなら、あれは全世界で最も高い山です。

あの山は少し高すぎます。私の身体がついていきませんし、時間も不足しています。

黄山は、あなたはまだ行ったことがなかったですよね?

まだ行ったことがありません。 黄山はどんな感じですか?

そこの風景は世界的に有名です。 1200年ぐらい以前の早くから、黄山はすでに中国の名所でした。

あなたはそこから、朝から夕景色の色までは間断がなく変化していくのが見ることができます。 そのうえ見る人によって、感覚も異なります。 そこでの最も美しい風景は白雲と、松の木と山の峰です。 あなたが山の上から下をのぞくと、白雲がまさに海のように見えます。人々はそれを”雲海”を呼びます。 黄山の松の木と山の峰はみな特色があります。多くの山々の峰の様子はとても奇妙で、だから”奇峰”と呼ばれています。松の木は、これらの奇峰の上で成長しました。雲海、松の木と奇峰を会わせて、本当に美しいです。 そればかりでなく中国人は黄山旅行が大好きです。そのうえ外国の友でさえまた、そこへしばしば行きます。

黄山には”迎客松”と呼ばれる一つの樹があるのですか?

はい! あの古松は千歳以上です、毎日親切にも、黄山へ旅行する友達を皆、歓迎しています。

いいですね。来週、私はすぐ黄山へ観光に行きます。

 

<閲読><南水北南から北へ流れを変える

京北杭大運河は世界で最長の運河です。 それは北京から杭州にいたるまで、長さは1749キロメートルあります。

北京杭大運河と長城は同じで、中国古代の作られた有名な大工事です。

早くとも1500年以上も前に、中国人はこの運河を掘ることを始めました。 あのときの皇帝は、随煬帝で3度も江南へ旅行に行きました。どのときも運河を舟で行きました。 彼はさらに人々に運河両岸に多くの柳を植えさせました。その理由は、随煬帝の姓が”楊”だったからです。人々はこの植えた木を”楊柳”と呼びました。

中国の大河は、例えば長江(揚子江)、黄河のように、みな西から東へ向かっています。ただ大運河は南北で、これらの主な大河はつながっています。 中国古代には、運河の中では、南から来て、北へ向かう船が多い。

揚州は長江(揚子江)と運河が合流する場所で、そのころの揚州はとても騒がしい都市でした。

その後、北方は雨量が少なくなったため、運河の北部分は通航ができなくなった。ただ南の部分はまだ通航できました。中国北方には大河はなく、水は大変少ない。それでも、南方の大河の数は比較的に多く、水も多い。長年の調査研究を経て、政府は揚州から長江(揚子江)の水を運河まで引こうと計画しています。再び運河が北の方へ水を再び送ることができるかもしれません。 これを”南水北調”と呼びます。 

これは単に”南水北調”の工事の一部ですが、それでも、北方人民の生活条件を改善するにはとても重要です。現在京杭大運河の北京地区の一部分はすでに通航できます。人々は古代運河の景色を見ることができます。大運河のすべてが通航できるようになってからは、人々は北京から船に乗って杭州へ観光に行くことができます。

運河の両岸の風景をちょっと見てみなさい、ちょっと古めかしく、また若い運河の文化を理解できます。それは何と美しい事だろうか!

 

第32課 <这样问题现在也不能了>

このような質問は、現在では、尋ねられません

すみません、この路から山頂に登ることができますか?

私はできると思います。 私も上ります。いっしょに登りましょう。

いいですね!

貴方は初めて黄山を観光するのですか? 貴方をなんと呼んだらよいでしょうか?

私はマータウェイと言います。

なんて偶然。私の姓は馬ですから、私を小馬と呼んでください。 私とあなたの年齢は、だいたい同じようですが、たぶんあなたの方が年上かもしれません。あなたは、今年、二十五か六ですか?

あなたを老馬と呼びましょう。

あなたはどこで働いていますか?

私は今だ、学校へ行っています。

あ、あなたは留学生ですね。 あなたの話す中国語は本当に上手です!

普通ですよ。

私は何人か外国人に会ったことがあります。彼らの話す中国語はあなたほどうまくなく、あなたが一番うまい。

あなたたちが中国に留学に来ているということは、父母はたくさんのお金をあなたにあげたのですか?

決まっていません。

あなたは勉強する一方で、さらに一方で、お金も稼いでいるのですか? 結婚していますか?

あなたは疲れていますか? 私は熱く、また疲れました。私たちは少し水を飲みましょう。小馬さん、あなたはどこで働いていますか?

私はインターネットの会社の一つで仕事をしています。

あ、あなたはインターネットの仕事ですか、給料はきっと高いですよね。

思ったほど高くはありません。

私は、ハイテク企業で仕事ができれば受け取る収入は低くはないと思うのですが。

それは会社によりますし、個人の状況にもよります。

あなたたちの会社はどうですか?

悪くはありません。

あなたの収入はきっと低くないですね?

私去年から仕事を始めました。収入はまあまあやっていけるくらいです。

”まあまあやっていける”ってどんな意味ですか?

そのとおりの意味で、”そこそこ”の意味です。

ああ! 見て、向こうでたくさんの人が囲んでいます。あれは、迎客松ではないでしょうか?

そうです。あの木が迎客松です。 みんなはそこで写真をとっています、私たちも写真をとりにいきましょう。

いいですね!

 

今回の旅行はいかがでしたか?

とてもよかったです。黄山の名所旧跡のほとんどを楽しみました。 美しい黄山は本当に名に恥じないところです。

”名に恥じない”は本当にそこを代表する言葉として用います。

これはいっしょに旅行した中国の友から学びました。 しかし、おしゃべりしたとき、何人かの中国の友人が私を真中に囲んで、たくさんの質問をしました。質問のなかには私が回答できない質問もありました。

彼らはあなたにどんな問題を質問しましたか?

何人かの人たちが私のプライベートなことを聞きました、たとえば、私が何歳か、何人家族か、毎月どれくらい稼ぐか、結婚しているか、住居はどうかなどなど、そう言えば、私の背バックはいくらで買ったとさえ聞きました。

これはあなたに関心があったからでしょう!

そうはいっても、これらはプライベートなことです。 他の人が、話したいなら、あなたは聴くことができますが;その人が話したくないと思えば、それらの問題は尋ねることはできません。

これらの問題については、私たちの見方は同じではありません。私たちは、これらを訪ねることが、友好や関心を示すことだと考えています。

私がいくらの賃金をもらっているということは、私自身の事なのに、彼はなぜ知らなければいけないのですか?私が彼らに質問されて、どう答えてよいのかわからない、これのどこが関心を示したことになりますか?

いくつか質問した若者はたぶん、外国人に合う事がとてもまれで、少し好奇心があったので、いくつか質問したのでしょう。

知っていますか? 以前には、中国人の収入はあまり高くなく、収入は当然、最も重要な関心事だったのです。

だからお互いに賃金がいくらか聞いて、関心を表したのです。

あー、そうだったのですね。 しかし、私はあの若者に毎月どれくらい稼ぐか質問しました。

彼は賃金を私にはっきりと教えたくなさそうな感じでした。

こう言えます、以前は、これはプライベートなことではありませんでした。しかし、現在は、こんな質問はとても現在では聞けません。しかし、これは西洋の文化から学んだことです。

あなたたちは本当に早く、学んだのですね。 宋華、今日はあなたにちょっと関心があります。

あなたの父や母親は、毎月いくらの賃金かをもらっているか、あなたは私に教えることができますか?

いいですよ。”上には劣るが,下には優る”使うのに十分な賃金です。(=まずまず人並みである)

 

<閲読><理上学>マネージャーが学び始める

王興は今年35歳で、外資企業の一社で働いていて、一部門のマネージャーです。妻と彼は同じ企業で働いて、彼らには可愛い子供一人います。 去年、王興は銀行から金を借りて、家を一軒買いました。

今年、さらに小型乗用車を買って、生活は悪くありません。王興はさらにどうやったらもっとお金を稼げるか考えています。

しかし、最近、王興はとても忙しくて、休息の時間さえありません。 毎土曜日になると友人と一緒にご飯を食べ、おしゃべりし、歌を歌い、ダンスするような過ごし方は、彼は、もうしたくありません。彼は学校へ行き、商工業管理クラスで学びます。彼自分で、10万元の授業料を払って、毎週土曜日と日曜日の休息時間にあてました。王興はすでにマネージャーなのに、なぜまだ勉強しに行かなければならないのでしょう? これは彼が、競争が年々激しくなってきていると感じているからです。

彼はいつも妻と話して:” 私は大学で、ただ英語を学び、商工業管理の専門はまなびませんでした。しかし外国語はただ一種の工具のようなもので、現在は英語を話す人はだんだん多くなってきています。大学卒業後に、私は5、6社の会社を変えて、少なからず仕事の経験を積みましたが、しかし、管理の専門知識のことになると、私が知らないことがたくさんあります。 特に、中国がWTOに加入してからは、自分の知っていることは、さらに不足していると感じています。 現在、私たちの会社に就職活動でくる若者は、学歴はだんだんと高くなり、知識はだんだん新しくなる。 彼らと比べて、私の現在もっている知識や経験的は、すでに不十分だとわかりました。もし再び勉強しなければ、とても速く淘汰される可能があります。 だから、新しいものを学ぶことが必要なのです。

王興の考え方は妻の支持を得ました、今後は、競争の中でより良い前途があることを彼女は願っています。

 

第33課 <保护环境就是保自己>

環境保護は私たち自身を保護することです。

やっと、霊山に到達しました。

車はもっと山の上まで行けますか?

行けません。車を降りましょう! あなたたち先に山へ向かって歩いて。 私は車を停車してから、すぐ行きます。

ここの空気は本当にきれい。

林娜、小雲、山はとても高いけど、登れますか?

大丈夫よ。私たち一歩一歩山に向かって登っていくから。

あなたたち、たぶん知らないだろうけど、霊山は北京で一番高い場所なのです。ある女性科学者の発見によると、こちらの自然の環境とチベット高原はたいして違いません。

そうですか。今日私たちは霊山の蔵趣園を訪ねるために来ました。チベット高原の景色を少しは楽しめるでしょう。

蔵趣園は国立公園ですか?

いいえ。 蔵趣園はあの女科学者が建てた植物園です、毎年のように、たくさんの中小学生がきて、ここでサマーキャンプを過ごします。 学生たちはこのような環境にめぐまれ、自然の風景を楽しみ、さらに環境保全教育も受けられます。

このアイデアはどうしてでてきたのですか?

あの女性科学者はチベットで18年仕事をしました。1996年、彼女は退職して、北京で科学研究を継続する場所を探したいと考えました。 霊山の自然条件はチベット高原に似ていたので、チベットの植物をこちらに移植しました。 さらに彼女がチベットにいて過ごしたような小屋を一軒建てました。

あなたは見えましたか? 小屋はすぐ前にありますよ!

どこですか? 私はどうして見つけられないのだろう? あー、あの大きな木の横にある家ですか?

そう。 インターネットで「木小屋」という一編の文章を読んだことがありますか? あれはこの女性科学者について書いたものです。

読んだことがありません。 私は現在まだ中国語の長い文章が理解できないのです。

 

今日の新聞が来ました。私が書いた植樹節のニュースが載っています。

見せて。 その日の多くの人が郊区植樹へ行きました、何人かの外国人も参加しました。

現在、人々は環境保全が非常に重要な事だと思っているので、北京の緑化に関心があります。

私が最も心配なのは大気汚染です。 それから、砂漠は一年一年北京の方に近づいています。

最近の砂漠の場所は北京から100キロメートルと離れていません。 これは本当に大問題です。

北京市は大気汚染の問題を解決するために努力しています。 私たちでさえ、気がつくようになったのですが、現在ここの空気は、私たちの今までの頃の空気と比べると、かなり良くなりました。

見てわかります、あなた達も北京の環境保護の問題にとても関心があるのは。今、木を植えるのは環境を保護する重要な方法の中の一つです。北京には少なからず記念植樹活動があって、例えば、結婚記念植樹、誕生日記念樹、一家記念樹などなど。 みんなは木を植樹するだけではなく、それぞれの木には(その木にまつわる)話があります。

私のこの文章には一人のアフリカ外交官が種樹に参加したことを書いてあります。

この外交官は北京がとても好きで、植樹節のその日には、一家全員を連れて一本の”友好樹”を植えました。北京に住む外交官たちはみなそれぞれでこのような植樹活動に喜んで参加しています。

あなたたちは見に来て、この写真はダーウェイが撮ったものです。

この写真には、一人の老人と孫が植樹しています。 一本一本の若木が整然と並んでいますね!

天上の白雲でさえ光れば、真実を照らす。

この写真はとてもよく映せているわ。気がつかなかったけど、ダーウェイの写真の技術は本当に素晴らしいのね。

知っていますか、ダーウェイの作品は展覧会にさえ参加したことがあるのですよ。

これらの写真は本当に良いです。新聞に掲載すれば、もっと多くの人を植樹がいかに重要か知らしめることができます。

北京はすでに中国の首都で、また世界的に有名な大都市です。

北京の環境を保全することは、北京に住んでいる人それぞれの人と共に、みな関係あります。

あなたのおっしゃるとおり。 環境保全が私たち自身の保全につながります。

 

<閲読><熊猫是中国的国宝>パンダは中国の国宝

熊猫とか大熊猫と呼ばれるパンダは、中国特有の貴重な動物です。 それらは中国西部地域のある場所にしか生息できません、そこは2000メートルから4000メートルの高山と樹林です。 環境の変化によって、パンダはだんだんと少なくなりました。

中国人はパンダを”国宝”と呼び、今、様々な方法で救おうとしています。 全世界の人はそれを喜び、関心をもっています。

中国はすでにたくさん国にパンダを送ってきました。

以前は、自分の国では、私たちはパンダを見ることができませんでした。 中国野生動物協会が、美美と田田を自国にある一都市の動物園に送ることに決めました。昨日、私と中国の友人は北京動物園がこの2匹のパンダを見に行きました。

私たちがパンダ館にやってくると、彼らは笹の葉を食べて、その格好は可愛らしく、笑えました;肥えた身体、短い脚。頭はあんなに大きく、耳はあんなに小さく、目はサングラスをかけているようです。 それらは停まらずに、来たり、行ったりします。

小朋友が大声で話しかけました;美美! 田田! あなたたちはまもなく外国へ行っちゃうね、私にあなたたちの写真を撮らせて!

”美美! 田田は小朋友の話を理解したようで、彼らは竹の下に立って、小朋友を見ました。問いかけている様です;私たちはこのように立っています、どうですか?写真をうまくとれますか?

私は横にいる小姑娘に質問しました:” 美美と田田はまもなく飛行機に乗って出国します。今後は彼らを見ることができないけど、あなたは彼らがここに留まってほしいですか?”。

”当然、彼らにはここに留まってほしいわ。 しかし、外国の友人もパンダが大好きです、彼らも早く美美と田田に会いたいでしょう。”小姑娘は大変まじめに答えました。私は美美と田田を見て、これらの可愛い小姑娘を見て、心からこう思いました。”この2匹の可愛いパンダは本当に中国人民の友好的な’使者’なのだ。”

 

第33課 <神女峰传说神女峰の伝説

ダーウェイ、食事をしましたね。

私は立ち上がるとくらくら眩暈がして、食べたくありません。それに、船上の料理はみんな辛くて、私はもう食べて飲み込むことができません。

何日か前まで、あなたは、四川料理を食べられて、とてもうれしいそうだった!その上、あなたは小話まで言ったことがあるよね:三人が辛いものを食べる競争していて、一人は四川人で、彼は辛いことが恐くないと言い、一人は湖北人で、彼は辛いことを心配していないと言い、一人は湖南人で、彼は辛くないのではと心配して言います。あなたは料理が十分辛くないかもと心配していたのに、今日はどうしてまた四川料理があまりに辛いと言えますか?船酔いしたのではありませんか?

わかりません。

コーラを飲むようにしましょう。

このコーラの味さえも違う。辣味もあるようで、私が米国で飲むものと違います。

コーラのどこに辛い味がありますか?

私は飲みたくありません。ここに空気さえ辛味があって、私は全身すべて気分が悪いと感じています。

船酔い止めの薬を服用しましたか?

船酔い止め薬は、私は持ってきてはいますが、まだ探していません。私はどこに薬を置いたか覚えていないのです。

大丈夫です、私は医務室まで行って、少しあなたに(薬を)あげましょう。

ありがとうございます。

もうすぐ酔い止め薬は来ます。あなたはそれを服用すると、しばらくしたらよくなります。

さっき私は寝ました。船はどこにつきましたか?停船したようですね。外は静かで、少しの音も聞こえない。私は見に行ってみます。

あなたは決して出て行ってはいけません。強い風が吹いています。外は少し涼しいです。何か食べたほうが良いです。

私のめまいが少し良くなりました。でも、まだ食欲がなくて、眠りたいです。

それなら、あなたは再度少し寝ましょう。三峡に着いたらすぐ、きっと伝えにきますから。

 

早く立ち上がって、私達、日の出を見ましょう。

あなたは先に行って。私はコーヒーを飲んでからすぐ行きます。

あなたは、今日は少し良くなりましたか?昨日まだ神女峰に着かないうちに、女神に迷わせられて、めまいがひどく、コーラさえ飲みたくなくなりましたよね。

言わないでください、昨日はめまいがしました。美しい女神がいるだけでなく、さらに私のために朝から晩まで忙しい小燕子がいたので、あなた達が私を迷わせました。

そら来た。(あなたはまたお世辞を言う)。

三峡は実際に美しすぎる!李白の詩を一首、二連句をしっかり覚えました:”両岸の猿声啼いてやまざるに、軽舟已(すで)に過ぐ万重(ばんちょう)の山”。

私ならこう言うね。「ダーウェイはめまい止まらず、遊覧船は万重山をすでに過ぎる。」

小燕子、あなたは、また冗談を言いましたね。私達はいっしょに三峡の景色を鑑賞しましょう。 

三峡に多くの伝説があって、最も人を感動させたのは神女峰の伝説です。

言ってみて。

神女峰は三峡が最も有名で、最も美しい山の峰です。とてもとても昔、西王母は彼女の美しい娘を三峡に来させて、往来の大きい船や小舟の往来ためにガイドをさせました。彼女は毎日毎晩そこに立ったため、それから神女峰になりました。

三峡の景色は中国の山水画の一幅みたいです。船に乗って三峡を遊覧すると、”本当に船は水の中を走り、人は絵の中で遊覧しています”。

何年か過ぎて、再度あなたが三峡を遊覧しにきると、また新しい景色を見られます。それが、つまり世界一のダム、三峡ダムなのです。

 

<閲読> <学良的鼻烟張学良先生の嗅ぎタバコ入れ

嗅ぎタバコ入れは中国の伝統の工芸品で、すでに200年余りの歴史があります。それは特別な絵筆の一種を使うので、透明な嗅ぎタバコ入れの中に絵があります。有名な工芸美術家の描いた嗅ぎ煙草入れは、とても貴重な芸術品です。

張学良先生の一番好きだった趣味は嗅ぎタバコ入れを収集することです。1992年、彼は驚き、珍しい贈り物を受け取りました。

それは一つの嗅ぎタバコ入れです。嗅ぎタバコ入れの中には張学良が若い時、軍服を着ていた肖像画が描いてあります。

張先生はこのような貴重な贈り物を受け取り、とてもうれしくて、それをベッドのそばの小さい机の上で常に鑑賞できるように置きました。彼はこの作品は、きっととても経験がある古い画家の一人の作品だと思っていました。というのは、現在では嗅ぎタバコ入れに絵を書ける人は、ますます少なくなっていたからです。

1998年、中国は米国領ハワイで工芸美術展を催しました。毎日展覧会を見学するための人が多くなりました。その時、張将軍はすでに百歳になっていました。聞くところによると展示物の中に嗅ぎタバコ入れがあって、車椅子に座って見学できるそうです。

張先生が思いもしなかったのは、彼の肖像画を描いた工芸美術家も来たそうです。張先生はまさか、こうなるとは思っていませんでした。

彼は一人若い芸術家に会いました。張先生は親切に若い人の手をしっかりと握って、とてもうれしくて言いました。私が今日ここであなたに会うことができるなんて、本当に縁です!縁! 

この若い芸術家は張先生に言いました。彼がこの作品を完成させました。北京図書館まで行って、多くの本を調べて、張将軍に関するイラストを見ました。張先生と張夫人は非常にうれしく思って、彼らはこの若い芸術家と一緒に写真を撮りました。

写真では、この百歳の老人は私達に向ってほほえんでいます!

 

第35課 <汽我先开着>自動車を私は先に運転します

お母さん、働き始めたら、私はすぐ自動車を買うよ。

何ですって?今まだ仕事を始めてないのに、自動車を買いたい?本当にあなたは、毎日何を考えているのやらわかりません。

これと仕事は関係ありません。

なにが関係ないですか?若い人は自転車に乗って出勤するのが、とても良いことでしょう?体を鍛え、さらにまたお金を節約できますよ。あなたのお父さんの一生、こんな調子だったのよ。どうしてあなたはあなたのお父さんに学ぶことができないのですか?

21世紀になって、まだ自転車に乗って出勤するのですか!自分で運転するのが便利で、私はどこでも行きたいところに行けるに!

それに、(車を)運転すると、少なくとも自転車に乗るのに比べて倍早いし、二分の一の時間を節約することができますよ。知っている?時間は生命で、時は金なのよ。

21世紀でも、生活は辛抱して質素でなければなりませんし、せっせとつつましく暮らさなければなりません。

みんなが辛抱強く、質素だったら、国の自動車生産はどうなりますか? 車を全部そこらへんに並べておくだけですか?経済はどう発展しますか?

自動車を買うのは金持ちが関心を持つ事です。私とあなたのお父さんはどちらもお金がないのに、あなたはいつ(車を買うのに)十分なお金を稼げるの、いつ自動車を買えるの。

ほっといて。私自身で方法を考えます。

もう、どんな方法を考えているのかしら?言っておくけど、私達のあのお金は考えないでね。あれは私とあなたのお父さんの一生のための貯金です。

安心してよ。あなたのお金は一分だって要らないよ。私が考えたのは、私が仕事を見つけた後に、私は銀行にローンを申し込もうと思います。

ローンで車を買うって?あなたは気が狂ったんじゃないの!

お母さん、今はローンで車を買う人がだんだん多くなっているんだよ。

 

ローンは借金ではありませんか?あなたは車を買って借金をするのですか?これがあなたの思った良い方法ですか?

そうよ!

言っとくけど、駄目です!絶対に駄目です!

どうして駄目ですか?

私の人生で、借金したことなど一回だってありません。昔、困難な時、米を買うお金がなくても、借金しませんでした。私の顔に泥を塗らないで。

私は銀行にローンを頼んで、期限内にお金を返して、どうしてこれが恥ずかしいことですか?

あなたはお金を借りて暮らして、それでも恥ずかしくないですか?それに、銀行はどのようにしたら、あなたにお金を貸すのですか?

これは、あなたは理解できないわ。あなたは誰が銀行のお金を利用して誰が借りることができると思っていますか?銀行のお金は、たったの二種類の人に貸します・・・・・・・

どの二種類の人ですか?

一種類は、金持ちです・・・・・・・

何を言いっているの?金持ちでさえ借金するのですか?

そう。もう一種類の人は信用がある人です。

あなたは第一種類の人のつもりではないでしょう?

そう、私は第一種の人ではありません、しかし私は第二種の人です。

あなたは”信用”があるの?あなたの”信用”はどこにありますか?

聞いたでしょう、私は働いてから、安定的な収入があって、これで信用ができます。

私は先に車のローンの十分の一か五分の一を払い、その余りを銀行ローンにします。

自動車を先に運転し、ローンはゆっくり返しています。毎年1020パーセント返して、数年後には、私はお金を返却し、車は私のものです。私は先に金を借りて、また期間内にお金を返して、私の信用はますます高くなります。その頃は、私はまた新車に交換するべきでしょう。私は再び銀行にもっと多くのお金を借りて、もっと良い車を買います。私は金を借りて車を買うだけではなくて、その上、金を借りて家を買い、金を借りて旅行し、金を借りて・・・・・・・

これが信用を高めることですか?私にとっては、あなたの寝言に聞こえます。

あなたは知らないんです。商品経済の時代で、信用はこのように創立します。あなたの言う通りだと、一生金を借りない人は・・・・・・・

私はそんな人が、最も信用がある人だと思っています!

いいえ。そんな人は少しの信用もありません!お母さん、あなたの古い観念は、時代についていっていないわ、少しは変わらなければなりません。あなたは、明日の金を使うことを学び、今日の夢の観念を買う、これが国に対しても、個人に対しても、両方役に立ちます。

あなたがどのようにし、どうしようとも、私は構いません。私を借金してまで生活を楽しむことなんてできません。