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2014年3月25日 (火)

北京レポート(77)中国語語学学校<6>新实用汉语课本5テキスト和訳

このブログは、新実用漢語課本5の本文を和訳したものである

{新実用漢語課本5 和訳}

51課 <母母の愛

母は1日,1日老いてゆく、歩くことももうとても遅く見える。彼女の息子と娘は皆もう成人となった、彼らはそれぞれ自分の事で忙しく、帰ってきてもあわただしく、ちょっとだけ彼女に会い、また慌ただしく立ち去っていく。あの頃、息子と娘達がまわりでにぎやかに囲んだ情景を思い出すことは、今では、夢の中のようだ。母の家は寂しくなりました。

その年、私は湖南に、長期間行くことになりました。私が帰って来ると母はとても喜んで、彼女は私に何を持ってきたら良いかが分からず、私のために食事を炒めるので忙しい。酒を飲みますか?母は私に聞いた。私は飲むと言う、母は忙しく私に酒をついだ。

私はやっと三杯飲んで、母は言う:酒を飲むのは良くないよ、少しだけ飲みなさい。私はもう飲まないつもりです。コップを下におろすと、母は笑って、また言う:こんなに長く家を離れたのだから、また飲んで。私はまた飲む。やっと二杯飲んで、母は、また言う:もう飲めないの、飲みすぎたのね、料理を食べないと、香りがなくなるよ。私は杯を止めると、母はまた笑って、言う:五杯飲みましたか?それならもう一杯飲んで、偶数にしなさい。彼女は自分で言い終わると、酒を注いだ。すぐ飲んだ。今度こそ、酒を止めるつもり。母はまた笑って私を見て、言う:まだ飲みたいのではないか、それならまた一杯飲みなさい。私はまた一杯注いで、母は私が飲むのを見ている。

もう飲んだらだめ、飲むのを許しません。母は、今度は、酒瓶を持ち始めました。

私は、その酒を飲むと、涙がすぐ出てきて、私はコップをさかさまにおきました。

それなのに母はコップをきちんと戻し置いて、またゆっくり私に一杯注いだ。

寒くなったので、また一杯飲みたくなったでしょう。母は言って、私が飲むのを見ています。私の涙は急に湧いてきました。

母性愛とは、何でしょう?これこそ母性愛なのです、息子が飲むのを恐れ、また息子に飲むように勧める。私の母!

私は母家の遠くないところにある小さい建物へ引っ越ししました。母はその日に突然来て、四階まで上がり、息が苦しなり、ドアから入った後、ドアによりかかって少し休みました、それから私が眠る六尺の小さいベッドがどこかに置いてあるのかを見た。その時の私の娘はまだ小さく、私の妻は一緒に大きいベッドに寝ていて、私の六尺の小さいベッドは本が置いてある小屋の中にありました。小屋は本当に小さくて、ベッドは窓の下の暖房のそばに置くことしかできなくて、ベッドの東端はクローゼットで、西端はガラスの本箱でした。

あなたの頭はどちらを向いて寝るのですか?母は小さいベッドを見て、私に聞きます。

私は、頭は、東の方に向かっていると答えた。その方向はクローゼットです。「それはよくない」、母は言った、服の上はほこりが多いから、あなたの頭は西方に向って寝なさい。

母はちょっと座って、突然言った:ガラスの本箱に面した方で、寝ちゃだめよ、もしも地震があれば、ガラスが壊れてあなたを傷つけるよ、駄目よ、駄目です。

母はなんと地震を思いついたのです!百年に一度あるかないかの地震。

「はい、頭は東の方に向って寝るようにします。」私は言って、また枕を移した。

少し待つっていると、母はこちらを見て、またあちらを見て、また突然言う:顔は中の方に向っているか、それとも外の方に向かって寝ますか? 顔は中の方に向っています。私は母に対して言った。私は身体を右へ向いて寝るくせがあります。駄目、駄目、顔が暖房に向かうと、とても乾燥していて、のどが受けつけない、あなたの喉は小さいときからよくないでしょう。

母は言った。「はい、それでは私は、顔を外に向けて寝るようにします。」私は言った。

母は掛け布団を見て、すこし敷き布団をさわり、また不安げに、言った:あなたの顔が外に向かって寝るのは、身体の左側がベッドについて、駄目、駄目、これが心臓によくありません。あお向けに寝て、あお向けでよく眠りなさいという母の話を聞いて、私は言った。はい、私はあお向けで寝ます。

私の涙は、急に湧き上がり、とどまりません。

私はこれまで母がそんなことを考えながら、長い夜を寝ていたなんて考えもしませんでした。私の母!

私の母は年老いて、よく中庭の入り口で外の方を見回し、手は壁を支えながら、立っていたものです。毎回、私が行くたび、彼女はいつものように喜んでくれます、あの当時(子供の頃)、私は中庭の入り口で、母が外から帰って来るのを待っていて、見つけては、同じように喜んだものです。

私は毎日母に一度、(母に)会いに行くこと以外では、彼女が料理材料を買うのを手伝い、床をきれいにし、ほかに何をしてあげられるのだろうか?私の母!私の背が低く小さくて、慈悲深くて優しい、白髪と灰色の母。。。。

 

<閲読><背起瘫痪的父亲读大学>

半身不随な父を背負って、大学で勉強

農村からの一人の大学生がやって来ました。(彼)自身の家庭で不幸が発生してからというもの、そんな逆境の中、半身不随になる父を背負って、彼は大学で勉強しています。この事は、蘇州大学三学年の学生である、王中という名の学生の身に起こったことです。蘇州大学の学生寮のビルの近くに、一間10平方余りの小さい家があり、そこが王と彼の父とが住んでいる場所です。二台の小さいベッドが部屋のほとんど全体を占めていて、部屋の中で貴重なものは、同級生が送った12寸の白黒テレビです。半身不随になって、半年になる父が静かにベッドに横たわっていて、客がくると、会ってただうなずくことしかできません。

記者が家に入ると、王中の父はぼろで、古い車椅子上に座って、目は家の外の日光を見ていて、自分で歩いて出て行く能力がありません。彼はまだ61歳なのだが、とても年寄りじみて見えます。彼は言った、息子を除けば、家にはすでに誰も身内はいません、自分が半身不随になった後で、(畑を)耕作することができなくなって、自分で生活さえ世話することはできなくなりました。その後の生活に話がおよぶと、彼はどうするべきなのかわからなかったと言いました。彼は言った、息子はとても親孝行で、彼を嫌わず、学校へ行って、さらに彼の面倒をみてくれる。彼はまた言う、息子が一歳のときに、妻は亡くなってしまい、息子を大人になるまで育て上げるのは確かにとても容易なことではなかった。息子は小さいときから彼の仕事をするのを手伝い、彼とともに、受けた苦しみは多すぎました。でも、息子は負けまいと頑張って、なんと大学に合格し、その上学習成績も良く、彼のこのことは父を満足させる。彼はただ息子の足手まといには、なりたくはありません。

蘇州大学商業学院は、王中が父を蘇州から連れてきたことは知っていた、すぐ学生活動経費から1000元を王中の生活費として出した。記者はさらに、蘇州大学はすでに王中の授業料を減免することを決定したことを知った。王中がいるクラスの同級生がお金を出して、力がある人は力を尽くし、みんなが方法を考え、彼が難関を乗り越えられるように助けている。現在、クラスの同級生は、すでに順番に王の中の父を面倒みることを始めました。

記者は再度、この親孝行で忍耐強い学生を取材しました。彼は記者に教えたことは、父を蘇州に連れてきて、生活をするようになったが、一方では大学で勉強しながら、一方では父の面倒を見ている。彼はそのための充分な準備をしました。本来は自分でこの難関を乗り越えたいと思っている。他の人の迷惑にならないように、さらに彼は自分がしなければならない事をしただけだ、と思っている。現在、社会の各方面で、急に彼を少しでも助ける方向に向かっているが、彼はみんなに感謝しているとともに、またプレッシャーを少し感じています。彼はとても楽観的に思っていて、人は、自分がどんな家庭に生まれるかは選ぶことができないものです、しばらくは、物質面では、他の人ほど豊かではありませんが、自分は長所もあり、それはつまり特に苦しみに耐えることができ、貧しさを変えることができるとかたく信じている。

 

<会話><父母的成了一种担>両親の愛は、負担だった

あなたを取材できてうれしく思います、聞くところによると初めて試合に参加した時、あなたの両親に教えなかったんですか?

はい。小さいときから両親の愛の中で長く育てられ、私が彼らを傷つけるのを見たくないので、大事や小事に関わらず、私(自身)で管理しています。しかし、私はずっと独立を望んでいました。初めてダンスの試合に参加したとき、私が踊るのが下手だと彼らが言うのが怖かったのです、私を参加させないかもと思い、彼らに言わずに、こっそりと行きました。私はこう思いました、もしもうまく踊れたら、もちろん彼らに教えますが、もしもうまくいかなかったら、彼らは知らなかったでしょう。そのように隠すことで、私は初めて独立する楽しみが得られました。お父さんとお母さんの過剰な愛のために、私はずうと一種の負担を感じていたのです。

両親の愛がどうして一種の負担になるのですか?

何人かの同級生から見れば、これは一種の幸せでしょうね。多くの同級生はうらやましがって私に言ったものです:お父さんが毎日運転してあなた迎えに来て、いいわね。実は彼らは知らないのです。毎日、学校が終わると、お父さんがそこにいるのを見ると、私は頭痛がしました。当時、私の最大の夢は、一台の自転車に乗って、自分で学校へ行くことだったのです。

あなたが北京に来て学校へ行くようになってから、両親はもうあなたを管理しなくなったのですか?

当時十五歳で、私は青島の家を離れて、北京に来て学校に進んだのですが、毎日少なからず、やらなければならない事は、家と電話で連絡することだったのです。

現在、あなたはすでに映画スターですが、両親はまだ、あなたを管理しますか?

スターなんて、とんでもありません。少し前に、私は北京で一軒の家を買いました、お父さんとお母さんに引っ越してきてもらって、私と一緒に住んでいます。実は、彼らは私の面倒を良くみてくれます。しかし時には私は本当に、もう一軒の家を買いたくなります、自分の空間を持ち、独りでの家の中で仕事をし、本を読み、学ぶことができるからです。しかし私のお母さんは反対して言います:あなたは現在とてもいい暮らしで、自分の部屋だってあるのに、なぜまた家を買うのですか?

現在、私は毎晩出て行って、普通は十一時に家に帰らねばなりません。これは私のために両親が立てた決まりです。もしも少しでも遅れるようなら、彼らは私にすぐ電話をかけます。すぐ家に帰ってくるよう催促するので、私はとてもうっとうしいと感じています。本当は、両親の考えていることは、私も理解できるので、彼らが私ために、良かれと思ってしているのです。しかし、私はすでに大きく成長して、多くの事が自分でうまく処理することができるので、両親は全く安心できるはずなのです。

 

52課 <祝你情人バレンタインデーおめでとう

私は銀行に預金して帰ってくると、ただ一面の黒煙だけが見えました、私達が住んでいたビルがすでに廃墟になっていたのです。私は、どんな事が発生したのか明らかになるまで待っている間、私と大家の奥さんは、病院に行くタクシーに既に乗っていました。病棟の中で、私は志強を探し当てました。なんとありがたい!彼のやけどはあまりひどくなく、すでに意識が回復していました。私は走っていって、腰を曲げ、彼の手をしっかりと握って、泣き始めました。大家の奥さんの家は大火の中で燃えつきてしまいました。

しかし、彼女は私達を慰めて言った:”大丈夫です、保険会社が弁償してくれます。”私のと志強は、しぶしぶ少し笑いましたが、心の中で思いました:あなたの家は保険がかかっていても、私達の財産は保険がないんです。私の夫である志強は、米国の大学で博士課程を学んでいます。私は彼に付き添って来ました。私はずっと衣服のデザインの修士の学位で奨学金をもらって、学べることを望んでいました、しかしこの専門的な奨学金はアメリカ人でさえ手に入れることの可能性が少ないとのことです。だから、私達は生活を大変節約し、お金を少しずつためて、いつか私も自費で私の勉強を継続することができることを望んでいました。しかし今や、一度の大火が私達の物をみな焼き尽くしてしまいました。手元に残ったのは、以前、貯めた数千ドルだけです。

私は涙を拭いて、志強の手を握って、こう言って彼を慰めました;”大丈夫よ、医者があなたは二週間以降で退院することができると言っています、私達にはまだお金がいくらかあるから、一切最初から再び始めることができますよ!”

大家の奥さんは、私達があらかじめ払っておいた三ヶ月家賃を私達に戻し、また、私達が比較的に安い家を探せるように手伝ってくれました。

家賃はもとの三分の一で、その上、私達は前もって部屋代を払う必要はなかった。

志強の入院に付き添っている時、私は少し安い(柄つきの)布を買い、病院へもって行きカーテン、ベッド・カバーを作り 、さらに残った布で、病棟にいる子供のために二匹の子犬を作りました。志強は大きい病棟に住んでいるため、みんなは私達の話を知っていて、入院中の友人であった、老人は私達に古いテレビをプレゼントし、トミーと呼ばれる黒人の若者は、私達にテーブルと椅子をプレゼントした。要するに、最も必要とするものは、ほとんどすべてそろったのです、二週間後に、私達の新しく借りた家はもう住めることができるようになりました。

志強が退院するその日、私はたくさんのギョーザを包み、病院に持っていった、入院中の友人が私達に対して助けてくれたことに感謝するつもりだったのです。みんなはギョーザを見ると言った:”中国のお菓子はおいしい!” ― ”中国のお菓子”というのは、彼らが、私達が作った餡餅、包子、餃子の呼び方です。トミーは大きな新鮮な花束を取り出し、それからみんな一緒に叫び始めた。”バレンタインデーおめでとう!”私と志強は感動して言葉も出て来なかった。米国から帰って四年経つのに、私達はまだ一回も、バレンタインデーを過ごしたことがありませんでした。

去る時、私達はあの生花と一皿のギョーザを志強の隣にいた、その患者に残しておいた。― 彼は数日前に、自殺で、病院に送りこまれたのです。

私達が(ベッドを)離れようとしている中も、彼はまだ意識が回復していません。そのため、私は、彼にハガキを一枚かきました。”先生、あなたが私達の贈り物を見つけることができることを望みます、がんばって生き続けて!”

日が過ぎるにつれて、志強はずっと彼の論文を書いています。彼の大部分の資料はすべて家の中のコンピュータの中に存在していました、大火で燃え上がった時、彼はもともとすでに走って(家から)出てきたのだが、そのコンピュータを救うため、彼はまた部屋の中に走り戻ったのです。

火傷を負ったが、コンピュータはやはり救うことができませんでした。これによって、志強は初めから彼の論文を書き始めるほかありませんでした。こうなると、彼は、半年も期間を遅らせ、卒業を遅らせるほかありません。しかし、遅らせた期間は奨学金がでないのです、その上、卒業を遅らせたので、志強が学校に残ることは、とても大きい影響があります。私達が残っているお金も多くはありません。

一日一日と苦しい日が過ぎます。

またバレンタインデーがやってきた。私と志強は去年、話しあいました、たとえ過ごす日々がどのように苦しくとも、これ以降毎年、バレンタインデーを祝っていこうと。私は、彼を待つ間、晩ご飯を作りました。志強は学校から帰って来ると、手に一通の手紙を持っていました。私はその手紙を急いで開けると、手紙の上に書いてあったことは:

 

親愛なる李先生、李奥さん:

こんにちは

この手紙を受け取ることは、恐らくあなた達にとって、とても奇異なことと感じるでしょう。私は去年のバレンタインデーに李先生のそばにいた患者です。 あの時、私の会社がもうすぐ破産するところで、私の奥さんも、また病気が悪化の一途をたどって、私から離れて亡くなり、そこで、私は絶望し、ただ彼女と一緒に(あの世に)行きたいだけだったのです。しかし、目が覚めると、あなた達の残したギョーザ、生花とハガキを見ました。私は入院中の友人達から、あなた達の話を知って、それは私にたくさんの事を考えさせてくれました。私の奥さんがもしも生きていたら、私がそのようなことをするのをきっと望まなかったでしょう。体が良くなった後、私を支持したいという銀行をついに見つけて、現在では、会社は日々良くなりました。子供の病棟で李奥さんが作った子犬を見つけて、私は、とてもおもしろく思いました、また聞くところによると、李奥さんは服のデザインを学んだとのことで、私の会社に来ていただけるだけの関心があるかどうか。あなた達が私に返信をすることを望みます!もう一度感謝します、あなた達が私に奮闘する勇気をくれました。あなた達がバレンタインデー楽しくすごせますように!

 

私はその手紙と彼の送ってきた名刺を、一回もう一回と見て、思わず大声で読みました。

志強は歩いてきて、しっかりと私を抱擁し、それから小さな声で言った:”バレンタインデーおめでとう。”

 

<閲読><时间時間と愛.

昔、小島が一つ有って、その上には「快楽」、「悲哀」、「知識」と「愛」、さらにほか各種の感情がまだいました。

ある日、感情達が聞いたところによると、小島はもうすぐ沈下するそうです。そのため、皆は船を準備して、できるだけ早く小島を離れたいと思いました。ただ「愛」だけは留まることに決めて、彼女は最後の一瞬まで(住むことを)堅持したいと思いました。

また何日か過ぎて、小島は本当にゆっくり沈下し始めます。「愛」も離れたいと思い、彼女は海岸に来て待つことにしました。

この時、「冨裕」がちょうど一隻の大きい船に乗って、海岸を通りすぎました。愛はすぐに彼に頼みました。:”冨裕先生、私を連れて行ってください?”「冨裕」は回答した:”いいや、私の船上には、たくさんの金銀財宝があって、あなたの場所がないのです。”

「冨裕」はそう言い終わると、船で走り去りました。

まもなくて、「愛」は、「虚栄」が一艘のきれいな小舟を運転して、海岸に来るのが見えました、「愛」は、彼に向って頼みました。:”虚栄先生、手伝って!“「虚栄」は考えることもなく、すぐ拒絶しました:”愛、ごめんなさい、私はあなたを手伝えません。あなたは全身ずぶぬれになので、私のこのきれいな小舟をよごすでしょ。”話し終わって、彼も去って行きました。

またしばらく過ぎて、「悲哀」と「快楽」も海岸に向かって疾駆してきました。「愛」は先に「悲哀」に向って要請しました。

:”悲哀や、あなたと一緒にここを離れさせて!”「悲哀」は泣いて回答した。:”あ、愛、

私は本当に悲しすぎるのです、一人で静かに、しばらく滞在したいのです!すみません、快楽に助けを求めなさい!”

「快楽」が疾駆してやってきて、彼女はとても嬉しくなったにもかかわらず、「愛」の叫びと頼みが聞こえません!「愛」が助けをまさに得られなくで、絶望を感じた時、彼女は突然、親切な呼びかけを耳にしました:”おいで、愛、私達に、このもうすぐ沈む小島を離れる手助けをさせなさい。”「愛」は、とても奇怪なことだと感じました。

話をしたのはなんと一人の白髪の老人です。彼女は慌ただしく老人の運転する木造船に乗った。木造船は、接岸すると、老人は静かに去りました。

「愛」は、岸に上がって、本を読んでいる一人の老人の目前に行って、「愛」は彼に聞きました:”すみません、あなたは誰ですか?”本を読んでいる老人は親切に答えた:”私は知識の老人です!””私を助けたあの老人は誰だったのですか?”知識の老人は言った:”彼は時間の老人です!””時間の老人?”「愛」は奇怪に思い聞いた、”あの人はどうして私を助けたのですか?”知識の老人は笑って言った:”時間だけはあるので、愛がどれだけ偉大かがやっと理解できたのだよ。”

 

<会話><分工干家家事を分担する.

私たち二人とも結婚して早くも半年です、この半年間、私達と両親は一緒に住んでいたので、家事をするかしないかは、大きな問題ではありませんでした。

明日から、私達は自分の家があるので、私達は家事を分担しなければなりません。現在は男女平等で、仕事が終わった後に、私も家事をするべきです。

とても良いことだわ!今、私は、あなたと、どうやって分担するか話しましょう。まず、汚くて疲れる仕事は男がしましょう。たとえば厨房を整理し、部屋を片付けて、トイレを掃除するなど。

いいよ、これらの家事の仕事は、私はすべてすることができます。

あなたは物理を学んだし、私は芸術を学んだので、電気を帯びているものもあなたが担当しましょう、洗濯機、電気冷蔵庫、電気炊飯器、アイロンなど。

いいよ、私が担当します。

男性の主に外で、女性は主に内。これは私達の中国人の伝統です。他の人とつきあうことも、あなたがしましょう。たとえば、毎週土曜日にスーパーマーケットに、一度はショッピングに行き、毎月、銀行に行ってガス、水道電気代を払い、毎日、朝夕、階下まで新聞を取りに行き、牛乳を取り。。。。。。。。

はい、はい、それであなたは何をしますか?

そんなに焦らない。聞いて、私は舞踊することが仕事なので、厨房の中で料理してご飯を作ると、油煙がとても大きく、洗剤で食器を洗って鍋をこすると、私の皮膚に対して影響があります、だからこれらの事も私に代わってあなたがします。これは私の仕事に対して支持を表したことになります。

あなたはまだ私に何かさせたいのですか?

今思い付くのはこれくらいです。後でもしも私達に子供ができたら、あなたのする家事が更に多く必要になります。

あなたが何をするのか私に教えなさい!

私はもちろん多くの事をします。私はあなたに付き添い、あなたが仕事をする時、音楽を流して、あなたに付き添って世間話をして、あなたの汗をふいて、あなたが楽しく愉快に家事ができるようにします。

このような分業、私が気楽に、愉快にできると思いますか?

 

53課 <五味>五味

山西人は本当に酢を食べます!何人かの山西人は北京のレストランで、腰を下ろして、まだ料理を注文していなのに、先に酢の瓶を持ってこさせ、一人一人茶のみで酢を飲んで、充分に飲むようです。そばの客は、それを目をまるくて見ていました。ある年、私は太原まで行き、春節を過ごしました。ほかの場所で春節を過ごしてみると、店は皆に良い酒を少しふるまい、太原の油塩店は、皆に知らせを貼り出していた:”長く貯蔵した酢は、各戸に一斤の供給とする。”これは山西人にとって大事なことなのです。 

山西人は、また酸菜が好きで、ダイコンを除いて何でも、ハクサイ、さらにやなぎの樹の葉さえも酸っぱくさせます。女の子に仲人をしに来る人がいて、お母さんのが先に聞くことは、その家は何個の酸菜のカメを持っていますか。もし酸菜のカメが多いと、そこの

家の財産が多いことになります。

遼寧人は酸菜白肉火鍋が好きです。

北京人はヒツジの肉酸菜スープのあるミックス(雑)麺が好きです。

 

蘇州料理は甘いと人は言う、実は蘇州料理はただ淡白なのです、本当に甘いのは無錫です。包子のひき肉の中さえ、多くの砂糖を入れて、食べるなんてありえない!

広西の芋頭扣肉はとても甘くて、とてもおいしい、しかし私が最も多く食べたとしても二切れしか食べることができません。広東人は甘い食品が好きです。白薯糖水、これがどんなにおいしいか?(おいしいわけがない)広東の同級生は言う:”うまいでしょう!”

 

以前、北京人は、ニガウリがどんなものが分かりませんでしたが、ここ数年は学んで食べるようになりました。農民も植え始めました。自由市場には、とても良いニガウリを売っているが、季節外れで、品薄の野菜価格に属するので、とても高価です。

北京人の味は広がりました!

北京人は過去にハクサイを食べるのを知っていた、そのようにして、ハクサイを食べる習慣にさえ、変えることができるのです。

私達の劇団に劇を学ぶために、貴州から一人、若い女優がいて、彼女のお母さんは彼女にドクダミと呼ばれるものが入った小包を送ってきた。彼女は私に何本味わわせました。これはなんというものでしょう?苦くて、しかしそれほどひどくはないが、一種の強烈な魚の生臭ささがあって、本当に我慢できないほどです!

 

劇団に一人の従業員がいて、彼は辛いものを食べる専門家だが、彼は毎日、昼食には料理を食べず、ただ唐辛子だけを食べています。四川の北部では、聞くところによると食べることはできない唐辛子の一種があって、1本の束をかまど上に掛けると、良いスープを

作れます。唐辛子をスープの中ですこしゆすぐと、非常に辛くなります。

四川人だけが、辛いものを食べることができるとは言えません。四川料理の特徴は辛くかつしびれることです。 多くの花椒を入れて、花椒を入れないマーボ豆腐は駄目なのです。花椒は川椒そのもので、ついて、砕いて、料理を終えて、最後に入れます。

 

浙江東部の人は、確かに、とてもしょっぱいのを食べます。ある同級生が、包子を食べると、すぐ包子の中に醤油を入れなければなりません。

しょっぱい、淡白な味の好みは、地域と関係があります。北京人はこう言います、南は甘く、北はしょっぱく、東は辛く、西は酸っぱい。ほぼその通りです。河北、東北人はしょっぱいのが好きで、福建料理は淡白です。ただ、このことは個人の性格と習慣にも関係します。

 

私は世界中でどんな国の人が、臭いものを食べたいと思うのかは知りません。

上海、南京、漢口へ行くと、油で揚げた臭豆腐の干したものを売っています。長沙火宮の臭豆腐は、一人の大物(毛沢東)が若い時よりいつも食べていたため有名になりました。それからこの大人物は、また食べに行って、ひと言を言った:火宮殿の臭豆腐はやはりおいしい。

私達の友達の一人は南京へ出張しに行きました、彼の奥さんは南京人でしたので、彼は臭豆腐の干したものを持って帰ります。彼は八方手を尽くして、思いがけなく手に入れました。列車の中で持っていると、すべての車両の人から強烈な抗議を引き起こしました。

私はアメリカで、最も臭い「気死(干酪:チーズ)」を食べたことがあって、外国人の多くが臭うとすぐ鼻を覆いました。しかし、私と言えば、本当に何でもなくて、臭豆腐に比べれば、もっとゆるやかです。

中国人の好みは様々で、敢えて言えば、世界一です。

 

<学做麻婆豆腐>マーボ豆腐を作ることを学ぼう

主原料:柔らかめに作った豆腐 600グラム、赤身のひき肉 60グラム

調味料 

1)唐辛子の粉少し、ショウガ粉の1/2茶さじ。

2)四川の豆ばん醤(味噌)大きいスプーン2、米酒の1/2スプーン、ニンニクのすりつぶしたものスプーン1、しょう油スプーン1

3)白砂糖スプーン1/2、薄味スープ1杯半。

4)花椒粉少し、ネギのみじん切り2本分。

5)カタクリ粉を水に溶かした大きいスプーン1、ゴマ油スプーン1杯半。

調理法

1)豆腐は古い皮を取り除いて、1センチメートル平方の小さいサイノメに切ります。

2)鍋を火で温めた後に少し油を入れて、先にミンチ肉を水分がなくなるまで炒めて、続いて調味料(1)を入れて味がでるまで炒める。

3)また調味料(2)を加えて、かき混ぜて炒め均一になったら、豆腐を入れて調味料(3)を入れ、味がでるまで炒める。

カタクリ粉を入れて、とろみにして、ゴマ油をかける。

 

<閲読><三道茶>三道茶.

三道茶、意味はお茶を三回飲みことです。言い伝えでは、三道茶は古代大理の国王が客にご馳走したと言われているので、すでに1000年余りの歴史があります。大理は有名な古い都市で、そこの景色はとても優美です。白族の女の子はきれいなクジャクを身に着て、白族の最高な礼儀作法を用いて、両手を第一道の茶を頭より高く挙げて、客に捧げます。第一道茶は”苦い茶”で、雲南の沱茶を陶器の鍋の中に入れ、それから火の上であぶって、茶の葉が薄い黄色に変わり、そして、すがすがしい香りがついた時、やっと適量の湯を入れると、ただ1回だけ”ドン”という音が聞こえ、お茶はうまく泡立つ。このお茶はただ半杯だけを入れます、もしも満杯に入れると、白族人は客に対して礼儀正しくないと考えます。

苦い茶を飲み終わって、白族の女の子は第二道の”甘いお茶”を捧げます、第二道のお茶は茶杯を使わず、茶碗を使って、第一道の茶より茶が多い。お茶の中に砂糖、蜂蜜、クルミの実を入れ、さらにまだ、ほかのものをいくらか加えて、栄養が豊富で、香り良く甘い。

第三道のお茶は”香り茶”と呼ばれ、中国シナモンを使い、花椒、ショウガを煮て作り、さらに蜂蜜を少し加え、味は淡白で、少し辛いです。

三道茶は白族の人々の日常生活の中でとても流行っていて、親戚や友達が来ると、主人は必ず三道茶に招待します。この三道茶に、白族人はこういう言い方をします。第一道の茶が苦いのは、人生の道は辛苦の道だ。第二道茶が甘いのは、客人の長寿と健康を祝い万事思い通りになり、事業が甘く;第三のお茶の香りが良いのは、客に対して祝福を表し、また友情がとこしえに変わらないことを望むからです。白族の三道茶の中には”始め苦く、後に甘い”、”苦い後には甘みがくる”という人生の哲理があります。

 

<会話><水果之王的味道>果物の王の味.

みんな、いるよね。見てみて、私は何を持ってきたでしょうか?

そんなに良いものですか、見てみたい。

(ドリアンを一つ取り出す)知っていますか?

オーマイゴッド、これは爆弾ではありませんか?

どうしたら爆弾になるの、これはウリの一種でしょう?本当見たことがありません。

たとえウリだとしても、ずいぶん奇怪に育ったものですね。

あなた達、知らないの?これはドリアンで、果物の一種、人々はそれを果物の王と呼びます。

どんな味ですか?

まったく、どうしてこんな臭いにおいがするの?雨平、あなたは、また臭豆腐を持っているのではありませんか?

ハッハッ、これはドリアンの味です。

え?果物がこんな味がするのですか?

信じないなら、かいでみて。

(ドリアンをかぐ)まったくその味です。このものは食べることができますか?

ナイフをもってきます。(ドリアンを切って割る)見て、これが真っ白な果肉で、食べることができます、その上食べれば食べるほどおいしくなって、 初めは甘い味、それから一種の香りのある淡白な味がいっぱい出てきます。みんな味わってみてください。

それでは私が味わってみましょう。あ、少し甘くて、味はとても特別だ。

本当に?それでは私達も味わってみます。え、まあまあです。

どうです?あなた達をだまさなかったでしょう?

あなたの言う通り、このような果物はとてもおもしろい、形もおかしいし、また臭いもある、しかし食べ始めると味は本当に悪くありません。

 

54課 <我迷恋的北京城>私に夢中にならせる北京の街

現在の北京は、私が数年前よく知っている北京とは、全く違います。都市にある建物から、大通り、車、人々の生活水準、生活のリズムにいたるまで、至る所”変”の一字で表せます。

見てごらんなさい、北京の大通りは広くて美しく変わっていませんか?ほんの数年見なかっただけで、北京には、すぐに多くの新大通り、新しい建築物、新しい立体交差橋が現れています。環状の西直門の橋はなんとなく見えなくなって、それに取って代わったのは、高く大きな、広々とした新しい立体交差橋です。西単、王府井は国内外に有名な古い商業区ですが、豪華な新しい装いに変わり、世間の人の目の前に現れました。いまだに、かつて修理した大通りがまだたくさんあって、甚だしきに至っては北京人さえ道の名をあげられないほどです。

覚えているのは、以前、北京言語学院の学生だった時、毎回街に行くとき、まちがいなく決まって肉体的苦痛受けるのは避けられませんでした。というのは、唯一選べるのは375路線のバスだったのです。私はまずバスのドアの取手を、両手でしっかりと捉えなければなりませんでした、その後、自分の力で上へ押し合いをして、ある時は、皆”肉マン”のように押し合いさせられます。

しかしその前の数日間は、”女性にとって実家“のような北京言語大学を行き来し、先生と友達に会います、学校の入り口に、さまざまなバスがあるのを発見します:726路線、307路線、826路線、 951路線・・・・・どこに行こうと行くことができます、なんて便利でしょう!

北京市場内の商品も以前に比べて、ずっと多くなりました、大きいマーケット、スーパーマーケット、専売店の中の商品はすばらしいものが数多くあって、食べ物、着る物、何でもそろっている。何ゝが必要なら、どこどこ商城で中を一周しさえすれば解決することができます。

これらの大小のマーケットから、道路近辺の色とりどりの広告看板、ネオン灯まで、北京城のにぎやかな光景を見いだすことができます。

北京人の生活水準も、少なからず改善した。今回、私は何人かの友達の家に着くと、ほとんどが新しく買った家に住んでいて、エアコンを設置して、大きいカラーテレビに換えて、ある人は外国へ行く旅行の準備をしている。これらを見て、私は本当に少しうらやましくなりました!

生活水準は改善したが、しかし北京人はそれでも、親切で客好きで、これは多分北方人のさっぱりしていて、開放的な性格を体現しているのでしょう!今回私が北京に着いたときのことを話しましょう。私は大きいスーツケースを引いて、バックを手に持って、首都空港ホールを出てタクシーに座りました。運転手の先生は私が留学生だと知って、すぐ私とおしゃべりした、北京人の話し方では「とりとめなくホラを吹く」になる。彼は私が初めて北京に来たのだと思ったので、だから自発的に私に北京を紹介しはじめた。彼の話の中に、北京人の親切さが見えて、まず、おしゃべりで交通の軸になる路上にある鼓楼、景山の上の古いエンジュのことを話した。それから世界でも有名な故宮博物館、北京の小吃、たとえば豆汁に言及した。彼はまた、とても面白く私に言ったものだ:”地元ではない多くの人は、豆汁が少しもおいしくない、ある種おかしい味と感じているが、しかし、私達の北京人には、おいしいのだ。”

北京人はまた、とてもよくにぎやかです。ある日、私はちょうど地下鉄の駅から出てくると、道ばたに、たくさんの人が集まっているのが見えた。その中には多くの老人がいて、真剣に社交ダンスを踊っています。彼らの顔に笑顔を見て、あなたは彼らどんなに楽しいかを知るでしょう。

さらに、立体交差橋の下では、ひと山の人が集まっていて、ある人はしゃがみ、ある人は坐っています。皆下を向いて、着目しています。近付いて見ると、実は彼らは将棋をしているのです。みんなはお互いにそれぞれ一言いいます。ある人は、大声で争い始めました。彼らは争っていると思わないでください、実は彼らはほとんど毎日会う古くからの友人なのです。夜が深くなってから、彼らはやっと小さい丸椅子を抱えて、家へ帰らざるをえなくなります。行く前に、一言残します。”近いうち会いましょう。”これが私を夢中にならせる北京城です。

 

<閲読><上海外上海外灘.

外灘は、百数年を経て、ずっと上海のシンボルとして、世間の人の目の前に現れてきました。それは上海人の心の中の誇りで、それは世間の人に、十分に上海の文化を展示してきました。ここ数年来、新たに作られたものでは、彫刻の群、観光のためのトンネル、”愛人たちの壁”などの建築が、また世界にも聞こえた有名な外灘に、時代の新しい装いを加えました。

外灘の江南は、長い土手、グリーンベルトと雄大な建築群の構成した街並みが、最も特徴のある上海の景観を具有している。

早朝、外灘は人々のフィットネスの場所です:昼間は、にぎやかな遊覧の景勝地となり;夜、さらに恋人達の恋愛の天地となります。

ここで散歩して、近くで黄浦江の景色を見て、遠くを見ると、対岸の浦東地区の新しい容貌が見られ、大都市の緑の木、花壇、庭園の風味を感じることができ、都市では珍しい、清新な空気とあたたかい日光を楽しめます。

都市の美しさは三つの構成部分で成り立つ:建築、彫刻と緑化。都市の彫刻は、”都市の目”とも呼ばれていて、美化した都市の重要な部分となっているのです。外灘の都市彫刻群は「浦江の光」、「帆」、「風」の三つでステンレスの構成でないものを作っていて、外灘の長い緑色回廊の三粒の宝石になっている。

外灘の観光トンネルは、中国で第一番目に大河を貫通した通行人用トンネルで、全長646.70メートル、2000年末に工事が完成しました。

トンネル内は90年代の国際先進技術を採用します。全部大きな川を通り過ぎる時間はおよそ2.5から5分必要とします。トンネルは、さらに近代的なハイテクの手段を使って、人物、歴史、文化、科学技術、景色などの各種の画像を展示し、あわせてバックグラウンド・ミュージックを流し、人々が大きな川を通りすぎる過程で鑑賞させ、観光客にすばらしい記憶を残します。

”愛人たちの壁”は黄浦江辺に建てられ、全長の約1700メートルある。観光台の地面はカラーで彩られ、32個の半円形の景観台があり、たくさんのライト、花壇、方亭、六角亭とグリーンゾーン、観光客が休めあわせて黄浦江の両岸の美しい景色を観賞できます。人々が常に言うことは、外灘に着かなければ、上海に着いたことにはなりません。今日、新しい外灘に着いて、あなたは上海に巨大な変化が起きたことを感じることができます。

 

<会話><酒太情>酒をすすめるのは、とても親切

中国の酒の文化は、ひどいものです!

あなたはどうして、そのような見方をするのですか?

私はさっき《酒をすすめる》の一編の文章を読み終わりました。

どんな感想をもちましたか?

中国人と酒を飲んだという、自らの体験があります。だから私は中国の酒の文化がひどいと言ったのです。

これが文化だと言えば、そうだろうと言えるね;このような文化は、有る面で、確かに良くないものだというべきでしょう。

たとえば、ある人が酒を親切にすすめると、相手を受けざるを得なくなります。

私はその通りだと感じます。前回、銭社長と一緒に酒を飲んだとき、彼らは一杯、また一杯と私に勧めたら、私が酔わないわけはないでしょう?

そうです!楽しむために酒を飲んだのならば、少しずつ飲むこともできる、しかしたくさん飲むことはできません。

彼はあなたに飲むように勧めても、あなたは飲まなくても、または少なく飲むことができるはずでしょ。

それはここだから言うのでしょう、実際にテーブルでは、飲みたくなくとも飲まなければならず、飲めなくとも飲まなければなりません。

ひどいときは、たとえ毒薬だとしても、あなたもそれを飲みくださなければなりません。あなたはそう言いましたが、(たとえば)私は銭社長の酒を飲んだが、張社長の酒を飲まなくて、良いのでしょうか?みんながあなたの体の健康を祈って、家族皆の幸せを祈って、万事思い通りになるように祈ったとき、あなたは飲まないなんてことができますか?

飲むべきです。しかし一杯そのまま飲む必要はありません、少し飲むだけで良いです。

私もそのように考えました、しかし彼らは承諾しません。このように言いました”友情が深いなら、きっぱりと飲み干し、友情が浅いなら少し飲みなさい”。私は、どうすべきかだと思いますか。私はきっぱりと酒を一杯飲み終えるしかありませんでした。

道理であなたが酔うわけです。

私は酒を飲むのにも、自由があるべきだと思います。自分で飲みたいものを飲むべきです、飲める量を飲むべきです。

まったくその通りです。酒そのものは、飲みすぎるのと毒薬を飲むのとたいして違いません。それは楽しみではなく、命を縮めます。

 

55課 <新素食主来了>新菜食主義がやって来た

人々はよく菜食主義者とは、宗教のために、民族のために、あるいはある種の奇怪な習慣のためニワトリ、アヒル、魚、肉のなど動物性食品を食べない人だと理解します。しかし私達の聞いた"新菜食主義者”は、ある種の宗教を信奉しているのではなくて、"クール"であることを演じているのでもなくて、更に大きい魚や大きい肉に飽きたわけでもありません。彼らは身体の健康のため菜食を選んだのです。;彼らは、豪華な都市の中で、菜食を選ぶことで、にぎやかな都市の中で、一種の自然な気持ちを保とうとした;彼らは菜食を選ぶことにより、彼らの生活環境を守ろうとしているのだ;彼らは菜食を選ぶことにより、人類以外のその他の生命の平等な権利をあたえようとしているのです。彼らは自分の生活様式として菜食を選び、彼らは自分の健康を重視することに基づいて、人間以外のその他の生命に対して、さらにたくさんの愛情と尊重をあげるのです。

 

それでは、"新菜食主義者"は私達から遠い存在でしょうか?私達はオフィスビルでホワイトカラーのお姉さんがランチで菜食しているのを直に見ることができます。大学のレストランで、菜食だけを選んでいる大学生が見られます、菜食レストランを出たり入ったりする顧客を見ることができます。 私達は、新菜食主義は本当に来ていることを感じます。"新菜食主義者"は私達の身辺にあり、また少数とはいえ、結局、もう理解できないという人はもういないのだと感じます。多分、ほどなく、菜食は、もっと多くの人の、個人の選択になるでしょう。

 

新菜食主義者は私達に三つの理由を説明しました

1.環境保全

新菜食主義者は「環境を守る」という理由をもとに、彼らは、人々の飲食習慣が私達の生存環境に大きな影響をおよぼすことを知っている。肉類の食物の産業の発展は大量に資源の使用に関係し、大量の動物の糞便を発生させ、環境に対して深刻な汚染をもたらします。具体的に言うと、環境の影響に対しては

水の汚染:家畜を飼育することで、家禽のいる場所で、排出した汚水が、水源を汚染する。

大気汚染:動物の糞便から排出する気体から、大気を汚染するだけではなくて、その上まだ全世界の気候が暖かくなってしまう。

土壌侵蝕:全世界の約40%の穀類、米国で70%を上回る穀類が、家畜と家禽用飼料に用いられる。一斤の肉と卵を生産するため、土地は5斤の表層土壌を失います。

水の消耗:牛や羊を養うためのすべての穀類と干し草は、穀類と干し草の半分は灌漑が必要な土地で育てたと見積もって、牛肉一斤を生産するために、380リッターの水が消耗する。牛の羊を放し飼いにするため、米国西部では、大体10%の土地が、すでに砂漠になった。

エネルギー消耗:野菜と比較して、家畜の生産と運送には、家禽を使うエネルギーは10倍強も消耗します。

 

2.動物に平等な権利をあたえる。

新菜食主義者の一部の人が言うには、彼らが肉と魚を食べない理由は、彼らが動物を殺害することに賛成しないためで、その上、食物を得るために動物を飼育して殺害するのにも反対しています。これらの動物に権利があり、菜食は人と動物の生存権利の尊重を体現していると保護主義者は思います。全世界で毎年殺害させられている動物の数は、世界の人口の七倍です。人類の生活するすべての場所で、至る所すべてで動物を殺害していることになります。

特に現在の工業化によって飼育する方法は、伝統的な飼育方法に取って代わって、人類の肉類の食物に対する需要を満足させている;このようにして、殺害する動物はもっと多くなりました。

 

3.菜食は健康のために有利

菜食は現代人にとって、最も実際的なのは、健康に積極的に影響することです。調査に基づくと、菜食民族は、普通は一般的には皆健康で長寿だ。これらの民族の中では、ある人は110歳を上回ります。しかし肉の食品の消費量のとても大きい国家にあっては、次第に病気と肉を好んで食べることとは、関連があるようになっています。

菜食主義者は、最も健康的な飲食の方法は菜食であり、肉類の食品を少なく食べます。自分の健康のためには、やはり菜食主義を堅持することは良いようです。

 

<閲読><黑熊救命>ツキノワグマが命を助けた

初春のころ、中国の北方にある小さな山村から、一件の奇妙な二ユースが言い伝えられました―ツキノワグマが老何の命を救った。

その日、老何は外からいつものように家に帰ろうとした、約30里の道を歩いて、冬に凍結した河に到着しました。彼は氷上を横切って近道を取りたくなった、すると突然からだの前と後ろから氷面にひびが入る音が伝わってきた、身をひるがえして戻ろうとしたが、すでに間に合わなくて、あっという間に氷河に落ち込んでしまいました。彼の両方の手は迅速に氷層のふち周辺をつかもうとし、上へ登ろうと努力したが、氷は塊ごとに、ひびが入って、彼も凍って感覚がなくなりました。。。。

この時にあたり、老何の耳辺に「ウー、ウー」という叫び声が聞こえたように思うと、彼の体は水から外の方へ引っ張られたと感じました。しかし、彼はもう一度気が遠くなりました。。。。。

太陽はもうすぐ沈み、老何はだんだん目が覚めてきて、自分の体が対岸の地上の上に横たわっているのに気が付きました。

しかし、どのようにして凍った川の中から、自分で出てきたのか思い出せません。この時、彼は二頭のツキノワグマが前方の遠くないところに坐って、彼を見ているのに気が付きました。頭の上に白い毛のある熊は、「ウー、ウー」という声を口から絶えずだしています。

「あ、白だ!きっと白の母子二頭が私を救ったのだ!」老何はなんとか座ると、手を振りながら、大声で叫んだ:

「白!白!」その頭に白毛のあるツキノワグマは、なんと彼の方に向きをかえました。。。。。

 

三年前のある日、老何は山の上で仕事をしていると、突然山の中腹からひとしきり「ウー、ウー」と言う叫び声が聞こえました。その音を耳にして、彼は斧を取って好奇心で歩いていきました。二尺もの大きな一頭の、額に白い毛の生えた小熊が、後肢の一本が石のすきまにはさまれ、必死でいました。彼はまた大きいツキノワグマがちょっと振り返り、未練げに大きい石の後ろの林の中に潜り込んだのを見ました。小熊は人を見て更に怖わがり、必死に叫びました。外へ腿を抜こうとしました。。。。老何はしゃがんで、ゆっくりとそばに行って、斧を使って、熊の足がはさまれた石を壊して、小熊の足を抜き出しました。熊は数歩歩きましたが、また痛さに倒れました。老何は、すぐに小熊を抱いて彼の小屋の中に戻り、念入りに小熊の足に薬をつけて、そして傷口をしっかりと縛りました。小熊は物事をわきまえているように、ゆっくり登ってオンドルの中に着きました。老何の心がこもった治療と看護の下で、間もなくて、小熊の傷は良くなって、あるけるようになりました。老何はご飯を作って、小熊は彼のからだの前や後ろから離れず、山に登って仕事をしているときも、小熊も後ろにぴったりついてくる。老何は本当にこの小熊に好きになって、彼に「白」と名づけた。ある日の夜、白のお母さんがやってきて、小院の中に座り、苦痛でさけびました。家の中にいた白は、急いでぐるぐる回り始めた。老何は、雌の熊が子供を迎えに来てことを知りました。彼はすぐにドアを押し開けて、白を外に送り出しました。それから、何日も白を見ることはありませんでした。老何は深くそのことを考えていました。

 

5日目の夜、熟睡していた老何は、「ウーウー」という声で驚いて目を覚ました。彼は急いでドアを開けると、月光を利用して、白が戻ってきたのを見ました。老何は急いで携帯食品を取り出してそれにえさとしてやり、白は満腹になって、オンドルに跳び上がり昔寝た場所で眠りました。それからは、白は老何の住んでいる所に客人となって、たびたび来るようになり、毎回来る度に、老何は白を満腹にさせました。もし、長い期間白がやってくる気配がないと、老何はご飯を外に置いて白と母の二人にえさをやって、長い期間を経ても、老何と双方のツキノワグマは非常に友好的につきあいました。

今日、老何は夢にも思いつきませんでしたが、彼の生命が最も危険な時に、白の母子二人が彼を救ったのです。

 

<会話><减肥而锻炼ダイエットのための鍛錬

陸雨平、あなたはダイエットするべきだよ。

そうしたいのだけど、どうやって減らすのですか?

鶏、あひる、魚の身を少なく食べるようにして、脂肪を減らすのです。

私は肉食動物なので、肉を食べないようにできるかどうか?

それなら多く運動して、余分な熱消費量を消耗することです。

それならなんとかできそうです。それでは私は明日から、ダイエットするために鍛えます。

さらに、旅行も良い方法ですよ、私は明日旅行に出発します。

どこに行くのですか?

内モンゴル。

ダイエットのため、そんなに遠い場所ところまで行くのですか?

もちろんダイエットのためには不完全です、一つ目には旅行に行き、二つ目には、草原の環境を少しでも見たいためです。

聞くところによると草原で、ある場所では、草がないそうですね。

ここ数年で、人々の肉類の食物への需要がだんだん多くなり、生産高を増やすため、ある場所では放牧する牛や羊の状況が、過度になりすぎて、草原をひどく破壊したのが見られるようになりました。

これはとても危険なのです。

現在、ある場所では草原を保護するため、飼育方法を変えて、牛や羊を飼育場の中で養っています。

その方法はなかなか良いですね。

はい、草原では、気候の変化はとても大きいので、あなたは少し服を多めに持って行けば、寒くなったら着こむことができます。

そうですか、分かりました。

 

56課 <世界交水稻之父袁隆平>

世界の水稲交配の父、袁隆平.

2000219日、中国工学院院士である袁隆平に、中国政府は最高科学技術賞を授与しました。彼は世界”水稲交配の父”で、一生涯、一人の水稲を植える”農民”であり、科学者でした。彼は背が高く、やせていて黒い。外国の記者がかつて彼に会った時、皆は、彼が普通の一人の農民だと思いました。

袁隆平が上手な英語を使って水稲交配を紹介するのを耳にして、彼らはやっと、彼らが”水稲交配の父”を取材しているのだと認識したほどです。袁隆平はすでに、世界に名が知れている科学者だけれども、しかし彼はずっと自身が農民だと思っていました。彼は言う:”私の仕事は、私が農民と同じように生活するように求められているのです。”

袁隆平は1930年に、北京の知識人の家庭に生まれた。父は東南大学の中国語学部を卒業し、父は東南大学の中国語学部を卒業して、かつて小学校の校長になったことがあります。母もかつて先生になったことがあります。だから、袁隆平は小さいときから両親の影響を受けた。特に母の教育は、彼にとってとても影響が大きかった、母は彼に観察を多くするように求め、頭を多く使って、さらに彼は真剣に外国語を学び、これは彼の一生の事業にとって、とても大きい助けとなった。

袁隆平が小さかった頃、とても行動的で、好奇心がとても強かった。彼の母は花を植えることが好きで、部屋の前の花壇は花や草でいっぱいだった。袁隆平は、いつも母が花を植えて、育てる作業を手伝い、彼はとてもおもしろく感じた。 

ある時、学校は学生達をまとめて植物園を見学に連れて行った、草花は満開で、木の果実もいっぱい、袁隆平を深く引きつけた。このすばらしい印象は、ずっと彼の記憶の中で保たれていて、彼の専門に対する選択にさえ影響した。

それから彼は南西農業学院に合格して、作物遺伝育種を専門的に学びました。1953年に卒業した後に、彼は湖南安江農業学校に配置され先生になった。ふだんの仕事は非常に忙しく、教育以外、彼は余暇時間を利用して、かなりの研究を行った。

その当時、資料はとても少ないので、彼は手に入れることができる英文の雑誌から遺伝学の新しい成果を知った。彼が最初に水稲の遺伝を研究し始めたのが60年代だった。彼の夢は、こうだった。”もしも私達の植えた水稲の穂が箒のように長く、粒子は落花生のように大きかったら、どんなにすばらしいだろう。”当然、彼ははっきり知っていた、水稲をほんの一割だけでも増産させることさえも、それはとても困難なことを。彼は堅く決心をして、困難であろうともこの難関を突破しなければなりません。

袁隆平は、かつて取材者に対して言ったことがあった、60年代の初め、彼は、とても太く丈夫な水稲の一株を発見した。しかし、その頃、彼はこれが野生交配の水稲であることをまったく知らなかった。二年目、彼はこれらの種を植えました。しかし、去年のように太くて丈夫な、一株の水稲苗の成長にはなりません。どうしてこのようなことになるのでしょう?

純血種の水稲は分化をもたらすことができないので、ここから、袁隆平は自分が去年発見したあの水稲の苗がおそらく第一世代の自然交雑の稲であることを意識しました。”これは、水稲は雑交配で優位になることはないという伝統理論を打ち破っていたのです”

彼は言う、”これは私に雑交配種を育てるよう、決心を促しているようだ。”この考え方は、革命的性質のものでした。というのは、彼が見た国内外の資料の中で、まだこの問題を話題にしたのを見たことがありません。たとえ世界で最も有名な専門家であっても、まさか水稲が交配で優位になることなぞ、考えつかなかったでしょう

1973年、43歳の袁隆平は彼の夢の一部を実現して、彼は世界で初めて水稲交配で育成した水稲の生産高を、ムーあたりの300キログラムから500キログラム以上にあげた。それから、彼はいっそう努力して仕事をして、生産高をもっと高く、品質がもっと良く、”全世界をも支える水稲こう配を育て上げたいと希望した。

現在、袁隆平はすでに70数歳になったが、しかし彼には休む時間はない、彼の最新の研究プロジェクトは”超級の稲”です。1997年にすでにムーあたり700キログラム以上の目標を実現しました。1997年から、彼の次の目標は1ムー当たりの収穫量800キログラムで、計画は2005年に実現します。研究時間がもっと多くえるため、彼は渡り鳥のように、毎年の冬に寒い長沙からあたたかい海南島に飛びます。一年のうち、彼は三分の一の時間は稲田の中で働きます。種まきから収穫までに、袁隆平は毎日少なくとも二度は稲田に入ります。

中国で、稲田で植えられる半分の以上の稲は、袁隆平と彼らが研究して出来た交配のイネで、全国の水稲を占める年間生産量は総生産量の60%ぐらいを占めます。袁隆平は、中国人は自分でやり遂げ、自分で育種ができると堅く信じています。

40数年来、袁隆平によって、助けられ、生産高がだんだん高くなり、品質のだんだん良くなる交配の種もみで、国家は彼に最高な科学技術賞を授与しました。

袁隆平の研究成果は、全世界をも承認して、2004年に彼は農業の方面の国際最高な栄誉である―世界の食糧賞を獲得しました。

 

<閲読><袁隆平的演袁隆平の講演.

200341日午後、国家の最高科技賞の獲得者であり、水稲の雑交配の父、海南大学の特別招聘の教授、袁隆平院士は海南大学300数名の学生に講義しました。

当日の講座で、袁隆平院士は自分の人生の経歴を振りかえり、事業を求める人に対して最も重要なのは、彼は、「知識、汗、インスピレーション、チャンス」だと言いました。彼によると、博識なのは、成功のための基礎となるそうだ。彼は冗談で言った、自分は初級中学の時、「マイナスにマイナスを掛けるとプラス」になる原理の原因がはっきり理解しなかったため、数学に対して興味を失いました。数学をうまく学べなかったのは、彼の人生で最大の残念な思いで、それがなければ、自分で、まだもっと大きい業績を得ていたかもしれない。というのは、いかなる学科でも、最高度な段階では、すべて数量化が必要なためです。汗に言及すると、袁隆平は言った、書物の中では、小麦や水稲は出てこないので、成功したいと思うなら、必ず汗を流さなければならない。彼は若い人に、必ず、苦しみに耐え、苦しみの中にも楽しみがあり、楽も苦しみの中にあることを学んでほしい。袁隆平は、科学研究員に対して、言った。インスピレーションを得ることも重要だ。彼が言うに、インスピレーションは広い知識、長年の経験、怠らず追求し苦しみの中で思索した産物で、これも成功のための前奏となるとのことだった。

 

<会話><中国粮食安全问题

専門家が中国の食糧の安全問題について話す

1999年から、耕地面積が減少したため、中国の食糧の総生産量は5.1億トンだったのが去年4.3億トンに下がった。食糧の安全の問題は、だんだん人々が重視し始めた。今日、私達は何人かの専門家にお願いして、彼らの見方を話してもらいましょう。

権威部門の予測によると、2030年まで中国の人口は16億まで達するでしょう、1人当たりの食糧消費は400キログラム―450キログラムの計算で、食糧の総生産量は6.4億トン―7.2億トンまで達しなければなりません。耕地減少、水資源の不足、生態の環境悪化などの困難に対しては、30年もかからない期間で、私達はどんなやり方をとっても、3億トン近くの食糧増産するのを実現するべきでしょう?

 

私はこう思う、21世紀以降は、食糧増産は、面積を拡大することに頼ることができなくなります、多く植え、収穫が少ない栽培方法は環境破壊のやり方となり、必ず単位面積の生産量を大幅に向上させる道をとらなければならない。中国で食糧の栽培面積は約10億ムーあり、その中で生産水準が比較的高い耕地は5億から7億ムーあります。もしも中国農業大学が提出した提案を考慮に入れると、中国で一、二、三と熟した地区は、生産水準のわりに高い耕地を年間の1ムー当たりの収穫量で、それぞれ1000キログラム、1500キログラムと1750キログラム―2000キログラムと食糧の高い生産のできる田となり、食糧が年間総生産6.4億トンー7.2億トンを実現でき、さらに戦略目標である、「10億ムーを植えて、16億人を養う」を実現することもできます。

 

私はかなり以前から思っていました、生産力の要因は科学技術なので、トウモロコシの単位面積あたりの生産量を高めることが、第一位なのです。現在、トウモロコシの生産高を改善させるには、主に技術を実現させるかどうかによるのです、客観的に効果を見るため、多くの化学肥料と農薬などを与えて、生産高を増加させる方式に頼ってきたため、これ以上生産をあげるための潜在力はすでに大きくなくなりました。実践が表明しているように、現代では食糧が増産する過程で、技術の要因は35%占め、つまり100斤の食糧を増産しますと、35斤が技術の改良ために増産したことになるのです。さらに予想する人がいて、2020年まで、技術の要因による貢献は、45%まで達するでしょう。

 

専門家の科学研究の成果は、農民の畑で実現していて、中間を転化させる一環が必要となり、それはつまり企業なのです。私がいる研究所が、去年と企業協力して後で、新しい品種の生産規規模が、以前は50ムーの規範を示す田が激増して、現在では何万ムーをあげることができ、生産高は自然に上がりました。

 

各位の専門家の方に感謝します。食糧の安全問題は非常に大きい問題で、後で私達はまた各方面の人を組織して、この問題を引き続き討論していきたい、皆さん関心を持って下さい。ありがとうございます!

 

57課 <初人妻>初めて人の妻となって

婚姻は愛情と関連しているが、ある人にとっては墓だそうだ、ある人は、高めるもので、さらにある人には、結婚後の二年は、婚姻の危険時期と言う人もいます。。。。。

やっと結婚した時、私は自分の新しい家を見、本箱の中で一列一列並んだ本を見ました。あるものはよく知っている本で、それは大学から仕事まで自分で買い始めたものです;ある本はよく知らないもので、それは夫が彼の本箱の中から運んできたのです。休暇だったあの何日間、私は独りで自分の家にいて、なかなか慣れないと感じました。私が慣れないのは、新しいひとつの役です:娘から妻になったという。

小さい時、私の望みは男の子になることでした!あの頃、もしも私が男の子だったら、きっと孫悟空のように、一人も世の中で怖いものなしの男の中の男になると考えていました。ただ、これまで考えたこともないように、ある日結婚して、一人の妻となった。

”妻”というこの語、中学(高校)と大学では、私には自分からとても遠いと、いつも感じていました。寮で消灯した時に、ルームメイトはそれぞれに枕を並べて話をしました。今思い出しても、それは学生の生活の中で最も楽しい時間でした。開いている窓から、月光の外の光が入ってきます、月光の夜空は、私の未来の日のようです。私達の中国語学部の女子学生の寮は婚姻が女性にどんな影響があるかを討論しあった。また、中国の女性の解放の道を議論して、若い女性の知識人と男子の平等について議論しました。。。。私はよくただ聞いているだけで、とても興奮して、あるとき、とても幼稚なコメントを発表した、私より年上の同級生は言った:”若さというものは、恐れを知らないわね。”

 

夏休みに家に帰り、小さいときからいっしょに成長してきた男の子の家で遊んで、彼の傲慢な一言を聞いた。

”良い夫を見つけるため、女の子は大学に行って、妻になるんだ”、私は直ちにドアを開けて、去った。それ以降、彼と会っても、知らない人と会っていると考えた。私は、多分ただ恋愛だけで、結婚しないだけが最も良い生活への道だと考えていた。さもなければ、どうやって独立して、どのように中国の女性の伝統である良妻賢母の道を行かないようにできるのだろうか?

しかし、”愛情”はついに私にやってきました。あれらの恋愛の日々の中で、朝、私は勤務に行き、頭の上には空がいつも青青とし、道端の木はいつも緑がいっぱい、なんてすばらしい日でしょう!だから、このことは、私が以前にやってきた良いことの、見返りだと私は信じている。すぐ引き続き、”結婚”もやってきました。私は自分の家で、独りで本棚の上の本を一列一列ごと見てみると、やっと目が覚めて、本当に危険な時間が始まったのです。 夫は一日の仕事で帰って来ると、私が料理をしているのを見て、彼は称賛した:”本当に私の良い妻だね!”話し終わってすぐ食事を始めます。彼は結婚する前に、私がこれまで食事を作ったたことがないことを知っています。彼は饅頭が好きで、私はご飯が好きです。彼は食卓の上の饅頭を見て、また“本当に私の良い妻だ!”と言う。ご飯を食べ、私は、これはたぶん彼の男性優位な考え方だと考えます、私は一生ただ彼に従って饅頭を食べるほかありません。ここまで考えて、心の中は少しつらい。ご飯を食べ終わって、夫は言う:”あなたはとても賢くて、仕事に出勤し、終えることに満足し、安らかに日々を暮らす必要はない。あなたは書いてみたらどうですか。”しかし、私は何も聞こえないように、ただ部屋いっぱいに広がった落花生油の味を嗅いで、繰り返し家庭の中の男女平等な問題を考えています。

 

ある日、夫は大学の中の友達が集まると会があると言う。彼が行った後に、私は家でただ待ちます。開いていると、窓の外はだんだんに静かになり、他の人の家のテレビも早めに切られたが、彼はまだ帰って来ません。私はゆっくりやきもきして辛くなり、ついに怒りはじめました。みんな出て行った!私は服を着替えて、表門を閉じて街に出て行った。

街には人がいなくて、公共のバス停にも一人もいません。私は街を一回りして、また家の玄関に帰ってきました、私はこう想像しました、夫はきっとやきもきして私の手を取って聞くでしょう:”どこへ行っていたのですか?こんなに遅く出て行って、悪い人に出くわしたらどうしますか?事故が起きたら私どうしましょう?私はどうやってあなたの両親に説明できますか?”私は突然言う:”みんなは友達と会う自由があるじゃない。”しかし、私が玄関の戸を開けても、夫はまだ家に帰っていません。

 

翌日、一人の編集者が私に向って原稿の寄稿を依頼した、電話は両親の家に来て、お母さんがつないだのだった。お母さんは私に電話をかけ言った:”あなたは自分の一生懸命に作り上げた事業を失くさないで。あなたやっと25歳なのだから。”私の心の中はとても乱れていて、仕事がひけて家に帰ると、お腹が空腹なままものを書き、度々怒って厨房を見て、考えた、男女平等で、今日は、夫がご飯を作るべきだ。夫は重い足どりで上へ上がって、部屋の中に入り、驚いて聞いた:”病気にかかりましたか?まだどうしてご飯を作らないのですか?”

私は言った:”私はご飯を作っていないで、文章を書いているの。”男女平等のために、その時私は本当に夫と少し喧嘩しようと考えていました。夫はちらっと私を見ると、ブリーフケースをおろして、厨房に入って、ご飯を作り始めた。しばらくして、夫は小さな声で私に言った:”食事ができたよ。”

私が作ったのではないご飯を食べ終わると、私は”平等”の感覚が少しもなくて、心の中に、何か詰まっているようでした、特に夫が一日忙しく本を読んでいるのを見て、彼の眉間にひっきりなしにしわがよるのを見て、ランプが彼の大変さを映し出して苦しみが消えることも、情熱が終わることもないという彼の内心をも映し出しているようです。私の心の中に一種の暖かいものが灯火のようにいっぱいになるのでした。私は今の感覚が”平等”なのだということが分かります。妻になって、自分の夫を深く愛し、暖かい感情で自分の夫のめんどうをみる、彼女は精神の上で”平等”なのです。ここにはやさしい愛が満たしていて、これは世界中ですべての平等の中でも、最も良いものです。

 

<閲読><小两口客>若い夫婦のご馳走

春節を早くも過ぎて、私達2人は結婚後初めて家庭で宴席を設けることを決めた。

しかし、私たち二人、どちらもご飯を作ることはできないので、どうしたらよいのでしょう?今、学べばよいのだ!私の先生はもちろんお母さんになった。 彼女は先に私に熱を用いた料理の方法をいくつか教えた、たとえば比如芋扣肉,松鼠,麻婆豆腐,苦瓜炒肉片儿、青菜を炒めるなど。その他の冷菜は、スーパーマーケットで売っているので、買って持ち帰って皿の上に置く。

彼は友達家へ行って、アドバイスを請い、私は彼に幾つの料理法を学んだのかと聞くと、彼は言う:”一つ”。私は聞いて、心の中でひそかに喜んだ。私達は仕入れ始めた、それぞれ各料理を買った、彼はただ一つの料理だけしか学ばなかったが、しかし彼が買った大小の包みの種類は、少なからず、私が買ったのよりもっと多かった。

 

私達は、正月の初五に、ご馳走すると決めて、初四に私はすぐ準備し始めた。私は出たり入ったりと忙しく、彼は普通と同じように、まだ新聞やテレビを見ています。私は思った:もっと早く準備しないで、明日あなたはどうやって招待した客をもてなすのですか?

 

初五のその日、私達が招待した客は、皆来ました。宴会が始まって、テーブルの中間には火鍋があり、鍋の中には白湯がある。鍋の周りには温めた料理が並べてあり、いっぱいになりました:魚の甘酢かけ、サトイモの角煮、マーボ豆腐、ニガウリ肉炒め、青采炒め、さらに、いくつかの冷菜。私からすると、見た目と香りと味は”全部”そろった。私は客の称賛を待っていました。

 

客は食べながら、おしゃべりをし、彼は行動し始めた、まず火鍋のスープを入れ、さらにキクラゲを入れ、またニンニク粉末を入れ、しばらくして、みんなの箸は火鍋に伸び、羊肉のしゃぶしゃぶを始め、食べながら、しきりにほめる。少しを食べて、彼はさらに粉を入れ、また少し食べ、彼はさらにハクサイを入れる。。。本当にその味は尽きることがなく、その楽しみも尽きることがない。みんなはコップを挙げて言う:”火鍋を作ってくれて感謝する、あなた達の生活がだんだんに盛んに良くなるように。”

彼は、ただほほえんで、そばに立って言う:”ありがとうございます、みなさんもっと食べて下さい。しかし、私が作った温かい料理は、誰も少し食べただけで、ひとつの”冷菜”となりました。

 

<会話><物>ショッピング

隣近所から聞いたら、スーパーマーケットで、息子が食べたい魚の頭が売っているって、あなた、2斤買いに行ってくれませんか?

良いですよ、奥さんは私を買いに行かせるとき、私があえて行かないなんてことなかったでしょう?今すぐ行きます。

(先生が急いでスーパーマーケットに行く)

お母さん、お父さんは?

彼にスーパーマーケットまでに魚の頭を買いに行かせました。

彼の耳はあまり良くないのに、どうしてまた、彼を買い物に行かせたのですか?彼に醤油を買わせて、彼は白酢を買ったように;彼に魚を買わせたら、彼は肉を買ってくるのですよ。

お父さんが買い間違いをしても、それでもうれしいのです。私は彼を歩きに行かせかったのですから。

待ってね、お父さんが今日、私達に何を買って帰って来くるかを確かめてきますから。

(少しを過ぎて)

帰って来たよ。今日のスーパーで売っていたサトイモがとても良かったよ、とても大きく、またとても安かった。私はすぐ5斤買ったんだけど、どうですか見てください?

私はあなたに魚の頭を買いに行かせたのに、またサトイモを買ったんですか!前回買ったサトイモはまだ食べ終わっていないのに。

今日、また買い間違ってしまった、それでは私達は何度かサトイモの角煮を食べましょうよ。

おとうさん、あなたのは、”ショッピング”ではなくて、これは”買い間違い”です!

そのようですね、しかし、どうしてまた、いつも私を行かせるのですか?

あなたを行かせなければ、誰を行かせるのですか?私はこんなに忙しくて、お母さんの足はよくありません。

私をショッピングに行かせるが、しかし、毎回あなた達は気に入らないじゃないか。

おとうさん、怒らないでください、私達は気に入らないのではありません。他の人が買い物に行くと、ただショッピングメモに従って(買う)だけなのですが、あなたが、買いに行くのが最も適切です。(というのは、買い物で)あなたは体を鍛えて、さらに家族に、思いがけない喜びを持ってくるのだから。

 

58課 <背影>後ろ姿

私と父は会わないようになって、すでに二年余りです、私が最も忘れることができないのは彼の後ろ姿です。あの冬、祖母が死んだ、父は仕事を(他の人に)引き継ぎした、不幸は重なるもので、私は北京から徐州まで、父に従って肉親の喪に駆けつけ、家に帰るつもりでした。

徐州に着くと父に会い、建物(院子)の中が雑然としているのを見ると、また祖母を思い出して、思わずはらはらと涙を流しました。

父は、「物事はこのように、現在困難であったとしても、いつもまでも困難なわけではない!」と言った。家に帰って金に換えられる物を換金して、父は負債を返しました;また金を借りて葬儀をしました。このころ、家の中の光景はとてもうす暗かった、半分は葬儀ゆえに、半分は父が失業したためです。葬儀をすべて終わって、父は南京に仕事を探しに行き、私も北京に帰って学業します。私達は一緒に同行しました。

南京に着くと、友達がいて、歩きまわりました。一日とどまりました;二日目、午前中に河を渡って浦口に着き、午後には乗車して北に行く。父はやる事が忙しく、私を見送れないことが確かなので、私に付きそわせようと、よく知っているウェイターを旅館まで呼んだ。彼は再三ウェイターに言い聞かせ、とても注意深い。それでも不安そうだ、ウェイターを心配するのは適切ではなかったが;少し躊躇した。

実は私はすでに20歳で、北京とはすでに二三度往復したことがあるので、緊張することは何もないのだが、彼はためらった。ついに自分でも私を見送ることを決めた。私は二三回彼に行く必要はないと勧めました;彼は、心配ない、彼らではうまくいかないと言うだけ。

私達は川を横切り、駅に入った。私は切符を買って、彼は荷物を見張るのに忙しい。荷物は多すぎ、ポーターにチップを払わなければならない。やっと行ける。彼は彼らと値段を言うので忙しい。あの時私は本当に賢明過ぎて、いつも彼が話をするのがあまりかっこよくないと感じ、自分から口をはさみませんでしたが、彼はついに値段を決めて、私を乗車させた;彼は私に車のドア近くの椅子を選んで決めた;私は彼に私の作った紫色のウール製のオーバーを席に敷かせた。彼は私に路上では注意し、夜は警戒心を高めて、冷えないようにしなさいと言った。また信頼できるウェイターに、私の世話を頼んだ。心の中では、父の時代遅れに苦笑した;彼らはただお金だけのためで、頼めるのはディケアだけです!その上、私はこんなに年齢がいっているのに、まさか自分の面倒がみれないわけがない?ああ、私は今思うと、本当に賢すぎました!

 

私は言った、「お父さん、もう行っていいよ」。彼は車外をちょっと見て、言った、「いくつかミカンを買ってくるよ。あなたはここにいて、歩き回る必要はないから。」プラットホームの柵外で顧客を待っている物売りを見かけます。プラットホームまで歩いてゆき、鉄道を横切らなければならない、跳び降りて、また登って行かなければならない。父は肥っていて、歩くと自然と手間がかかる。私が本来行くべきなのだが、彼は承知しなかったので、彼に行かせるほかはない。彼が黒布の小帽をかぶって、黒い布のジャケットを着て、深青色の綿コートを着ているのを見た;よろめき鉄道の辺まで歩きつき、ゆっくりと身体を伸ばして行くが、まだ大きな難儀ではない。しかし鉄道を横切って、プラットホームに登ると、容易ではありません。彼は両手で上によじ登って、両足は再び上へ縮める;彼の太っている体が左へ小さくて傾いて、努力している様子がわかります。

このとき、私は彼の後ろ姿を見ました。私の涙はすぐに流れました。私は急いで涙を拭いて乾かし、心配しながら見ると、他の人も心配し見ています。私が再び外を見ると、彼はすでに朱色のミカンを抱いて戻ってきます。鉄道をまたぐ時、彼は先ずいくつかミカンを地面に落としました、自分でゆっくりとおりて、(落ちたミカンを)再び抱いて歩いてきます。こちらに着くと、私は急いで彼を腕で支えた。彼と私は車の上にたどりつき、ミカンを一気に私の皮のコートの上に置いた。そこで衣服の上に土がすこし飛び、心理はほっとして、少し経ってから彼は言った。

「私は行かなければ、;あちらについたころ手紙が着くよ!」私は彼が歩いて出てゆくのを眺めた。彼は数歩歩いて、振り返って私を見、言った、「中へ入っていなさい、中に人が少ないうちに。」彼の後ろ姿が行き来する人の中にまぎれこむことを待ったら、再び探し出せなくなった、私はすぐ座り込み、また涙がでてきました。

ここ数年来、父と私は二人とも東西奔走しているので、家の中の光景は日々乱雑になった。父の少年時代は外へ出て生計の道をはかり、単独で支え、たくさんの大事(仕事)をしました。以前のそういった環境の中で、やる気をなくしました!彼は目に触れるものが悲しくなり、自然な感情で自分を抑えることができなくなった。感情が落ち込む中で、自然に外に発散させなければなりません;家庭の些細な事は、しばしば彼を怒らせた。彼はだんだんに以前とは異なってきました。

しかし、ここ二年間会わないので、彼はついに私の良くなかったことを忘れてしまい、ただ私を気にかけて、私の息子を気にかけるようになりました。 

私が北へ来た後で、彼は私に手紙を書きました、手紙で言うには、彼の体は無事で、ただ上腕の痛みがひどく、箸を挙げて筆を取り、不便があるので、だいたい、死ぬ時期は遠くないだろう。私はここまで読んで、きらきらと透明な涙が光る中で、またあの肥満の体と、青布の綿入れコート、黒い布の短いジャケットの後ろ姿。ああ!私はいつ再び彼と出会うことができるのか分かりません。

 

<閲読><儿女常回家看看>息子と娘はいつも会うために家に帰る

ここ数年来、「いつも会うため家に帰る」と呼ばれる名前の一曲が、中国にあまねく伝わっている、人々の最も好きな流行歌の中の一つになった。この歌は人々に一つのとても重要な問題を気づかせる:息子や娘として、あなたは家に居る老人に関心がありますか?彼らの生活、彼らの気持ち、彼らの大変さに関心がありますか。。。。?

夏おじさんの連れあいは十数年前にすでに亡くなって、彼の唯一の娘は、まだ遠い上海で仕事をしています。この80歳の老人は、独りで西安の小区にある二階建ての上の階に住んでいます。ある日の朝、彼は突然気絶して倒れました。目が覚めた後に、彼は立ち上がるが、力がはいらず、電話もかけられず、さらに叫び声をだすことができません。。。。

彼の心中では理解できたが、もし誰もドアをたたいて彼を探しに来なければ、彼はただ死ぬことを待っていたでしょう。彼はドアの外を人が歩く足音を耳にすることができ、それはなんどもあの足音が(彼のドアで)停まることを望みました!しかし足音は、いつも近くから遠くへと、一度、また一度と。。。。夜になって、奇跡はついに現れました:娘がドアを開けて歩いて入ってきます。彼は夢を見ているようで、思いもしませんでした、

半年も会えなかった娘が、今日偶然にも出張して西安に着いたのです。

夏のおじさんのこのような「空巣家庭」は、現在中国でだんだんに多くなっています、すでに人々がたいへん関心を持つ社会問題になりました。少し以前に、またこのような事件が一件発生したことがあります、70数歳の王先生は自分の三人の息子と娘を法廷に訴えて、息子と娘達から扶養費が必要なのではなくて、彼らに家に帰ってくることを要求しました。

王教師には、二人の息子と一人の娘がいて、皆すでに結婚して家庭を持って、老人と離れて住んでいます。老人は毎月1000数元の年金を受け取ることができ、三部屋のある家に住んでいて、体もまだ良く、さらに自分で自分の生活をめんどうがみることができる。そのため、他人からみると、彼女の生活は充分幸せだった。しかし、しばらく前に、王先生は三人の子女を法廷に訴え、三人の子女に扶養義務を履行するように求めた。当の三人の子女はこの件を知った時、彼らはたいへんびっくりした。息子と娘達は思った。:母は食べて着るのを心配する必要はないのに、どうして私達を法廷に訴えるのですか?

法廷では、王先生は自分の本音を言い出しました。彼女は言った、私が三人の子供に訴えたのは、彼らから金が必要なためではない、私の唯一の要求は彼らに家にもどって私に会ってほしく、私に付き添って世間話をしてほしいのです。連れ合いがちょうど亡くなった時、彼らはまだ、よく帰って来てくれました。それから、来る回数はだんだん少なくなって、二三ヶ月に一度来るだけです。よく少し話をしないで行ってしまいます。

心中は、特に嫌な感じがするのです、私は孤独なことが嫌で、そのため、彼らが私に付き添うことができることを望むのです。三人の息子と娘が老人の話を聞き終わった後に、皆涙を流しました。彼らは司法官に対して言った、私達の仕事はとても忙しくて、しかも子供の勉強の指導も必要であるため、行く時間がとても少なくなりました、その上、いつも母は何も不足しいないと思って、ふだん電話をかけて、少し挨拶できたので、老人との交流を見落としました。三人の子女は司法官に向かって母の方に向かって謝罪し、そして相談して毎月一定時間、老人といっしょにいることを決めました。老人が幸せな晩年を過ごさせるのを保証します。老人は聞いて、笑って言った:司法官、「私は訴えません」、彼ら一家は楽しく家に帰りました。

司法官も満足に笑いました。彼は仕事に忙しくとも、両親と分かれて住む息子や娘達が常に必ず家に帰って見なければならない事が大切だと言う事にきがついたことでしょう。

 

<会話><核心家庭的问题核家族の問題.

現在、若い人は結婚の後でも、両親と一緒に住むのですか?

これに対して言うのが難しい、というのは現在の情況が以前とは異なるためなのです。

以前はどんなでしたか?

以前は、一般にはどこも大家族で、息子が結婚した後では、両親と一緒に住みました。両親が老いると、身辺を息子が面倒見ます。

;もし息子に子供があったら、両親も少しは(子供の)面倒をみる事を手伝うことができます。人々は常に”四世同堂”は幸福の家だと称賛しました。

現在はどうですか?

現在の情況は異なっています、多くの若い人は、結婚後、自分の小さい家庭を望んでいます、核家族なのです。

彼らは両親と一緒に住むことがあまり好きでありません。

この事は、西洋とたいして違いがありません。

こうなると、新しい問題があります。

どんな問題ですか?

老人によっては、とても孤独だと感じても、息子や娘が常に彼らに会いに来ることはできないのです。

どうしてですか?

息子や娘達は仕事忙しいし、家事を切り盛りして、また子供のめんどうをみなければならないので、時には老人との交流を粗末にしてしまうのです。

だから、ある母親は、子女を法廷に訴えたのです。

本当ですか?

これは私の書いた報道の一編で、見てみなさい。

 

59課 <十八年的秘密>18年の秘密

19985月、私は緊張して大学入試に受ける準備をしていましたが、お母さんが突然病気になり、その上、母の病気には大変重いものでした。

彼女は病院に入院しました。父は青年報の編集長で、仕事は非常に忙しい。しかしどんなに忙しいにも関わらず、彼は自分の手でチキンスープを作り、お母さんが最も食べたい料理を炒めて病院に送りました。私は父のお母さんへの愛に感動させられました。たぶん、他の人の眼には、お母さんは教養も何もなく、普通の女性労働者で、彼女とお父さんはつりあっていないと思ったでしょう。

しかし、私は知っています、彼らの間のギャップはどれぐらいあるのにも関わらず、彼ら二人とも深く愛し合っています。私は私達の家が世界一最も幸せなことを知っています。

しかし、このような幸福は、太陽が光り輝いているのに、午後突然なくなりました。その日に私と同級生の陳麗は本を買いに本屋へ行きました。私は偶然道にも道端にあるバーを見て、しかも、その情景を見て、私はぽかんと驚きました、もし自分の眼で見なかったら、どんな事を言われたとしても、信じなかったことでしょう:父はバーの中で座って、彼の向かい側には一人の40数歳の流行の服を着た女性が座っていました。その女性はハンカチを使って目を拭いていました、もう一方の手は、父の手の中にありました!陳麗も見て、彼女は静かに言った:”芸芸、あなたのお父さん、一人の女性といっしょにいるね。”

それ以降というもの、私は父を無視するようになりました。彼は依然として毎日病院に来て、依然として毎回行き来するのに慌ただしくしています。彼がお母さんと私にどのように関心を持とうと、私は自分の原則をしっかりと守って―彼を無視します。私が父に対して、冷淡なのを母さんさえ気が付きました。ある夜、父がいない時、母は私達を見て昔のことをやっと話した;”芸芸、もしもある日お母さんが本当にあなたから離れて(亡くなる)しまったら、あなたはお母さんに何が発生しようと、永遠にあなたのお父さんを愛するって一件約束して。”

私が七月の大学入試を受けた後、お母さんは亡くなり、永遠に私から離れてしまいました。お母さんは(あの世に)行ってしまい、父もやせました、彼は口数が少なくなりました。

誰が彼の心中がどんなに悲痛なのかわかるでしょうか。しかし私は依然として彼を無視し、自分で部屋の中で、閉じこもりました。

お母さんが亡くなって、二週間後のこと、ある午後、父は早く帰って来て、私を見つけ言いました:”芸芸、私はあなたと話しあいたい。あなたはずっと父さんのことを怒っているのではありませんか?”私は頭を低くして坐っている。この時、テーブルの上の電話が鳴った。私は当然のように受話器を取った。”ちょっとお聞きしますが、先生ですか?”私の父宛の電話です。私は分かっていました、間違いなくその女性です。私は受話器をテーブルの上に置いて、立ち上がって大きい目で父をにらみんでいました。父はすぐ電話を受け終わって、何か思いついたように、私に対して言った:”芸芸、これはお父さんの数年前の良い友達の一人で、半年前にちょうど米国から帰って来たのです、彼女はあなたと知り合いになる機会がほしいと言っている。”私はものを言わずに、また自分で部屋にはいり、閉じこもった。

間もなくて、私は北京大学の入学通知書を受け取りました。その時、私はすぐにでもこの家を離れたくて、また父にも会いたくありません。私は簡単な荷物に持って、北京行きの列車に着席しました。北京に着いた後に、父はしばしば私に手紙を書きましたが、しかし私は一通も返事を出したことがありません。

時間が経つのは本当に早く、あっというまに、第一学期が終わりました。ある日の午前、守衛が私のドアをノックして、言うには男が一人、手紙を彼に私宛に預けていったそうです。

私が手紙を開けると、なんとまた父が書いた手紙でした:

”芸芸、私はあなたがずっとお父さんに会いたくないこと、またお父さんに返事を出したくないことも知っています。しかしお父さんは一日も、あなたを思わない日はありません。あなたは私に対する誤解があまりに深く、このように冷淡になったのでしょう。芸芸、あなたのお母さんが亡くなる前に書いた手紙をあなたに見せるべきかどうかずっと考えていました。この手紙は、私とあなたのお母さんと苦心して18年に隠した秘密を明かすための手紙です。私はその秘密があなたを苦しませると恐れていました、だからぐずぐずしてあなたに知らさなかったのです。芸芸、お父さんは本当にあなたを思って、ついに北京までやって来ました。お父さんはあなたに対して言います:あなたは永遠にお父さんの唯一の娘です。”

封筒の中には、確かに整然と折られた一通の手紙が入っていました、お母さんが書いたのです。彼女はこう書いています:

19年前に、一人の若い軍人が新婚の妻に別れを告げて辺境の防衛前線に行きました。その時、父は一人の記者でした。

ある日、父は普段のように国境の警備の陣地に取材に行きました。わからないものだが、彼が写真を取っていた時、大きな石の塊が山の上から転がって落ちてきました。この危機一髪の瞬間、その若い軍人は父の体の上に倒れこみます。父はただ軽傷を受けただけでしたが、自分の安全を顧みないで、あなたの父を救助した若い軍人は、身を犠牲にしました。二ヶ月後に、父は辺境の防衛前線から戻ってきました。彼は若い軍人の遺物を持って、重慶でその軍人の妻に会いました。その時、彼女はもうすぐ子供を生むところでしたが、(生まれても)小さい頃から孤児となり、身の回りには身内が一人もいません

彼女のそのような物寂しい情景を見て、父は彼女の面倒をみるために重慶に残ることを決め、もう西安に帰りません。子供はすぐに生まれて、女の子でした。二ヶ月後で、父は恩人の妻と結婚しました。ここまで読んで、私は理解できました、と同時に驚いてぽかんとしました。恩人の妻はお母さんで、娘は私で、それに自分を捨てて人を救った若い軍人が私の父なのです。現在のお父さんは、私の養父!

お母さんは引き続き書いている:

”芸芸、あなたにもう一件教えなければならない、このことは、私があなたのお父さんと結婚して二年後にやっと知りました。あなたのお父さんは私と結婚する前に、すでにガールフレンドがあって、彼の大学の学友だった。彼らはとても深く愛しあって、もともと西安に帰って結婚するつもりでした、しかしあなたのお父さんが放棄したため、彼女は苦痛のあまり米国に行きました。それから彼女はやっとあなたのお父さんが離れた原因を知ったのです。18年来、彼女はずっとあなたのお父さんを忘れず、彼らの友情は純潔です。実は、あなたのお父さんに対する誤解を、私達は陳麗から知りました。しかしあなたのお父さんは、私に言わせませんでした。あなたの大学入試に受けるのに影響することを、恐れたのです。私はもうすぐあなた達と離れます、やっとこの手紙を書くことを決めました。。。。。”まだ手紙を見終わっていなかったが、私は泣き叫びました:”お父さん、私は間違っていました、私は永遠にあなたを愛します。”

 

<閲読><不知送的>誰が送ったかが分かりません

秋月という人が働いている仕事上での単位はとても大きく、数千人が働いています。秋月が単位の中でよく耳にするのは、誰が誰の恋人で、あるいはだれそれも恋人のうわさがあるということです。話が始まると、秋月はとても新鮮なことだと感じますが、聞くのが多くなると、彼女はつまらないと思いました。

ある日、一人の同僚と秋月は冗談を言います:”あなたの旦那さんはあんなにイケメンなのだから、恋人がいるのではないですか?”秋月の顔は赤くなり、言った。:”まさか、私の旦那さんはそのような人ではありません。”秋月は口ではでそのように言ったが、心理はその事を気にして、思わず暗く考えこみました、夫の手には権力が少しあり、ポケットの中にも金が少しある、イケメンの男に属して、彼は恋人がいないなんてことがあるだろうか?

週末の晩、食事をしながら、秋月は旦那に聞いた:”家英、あなたには恋人がありますか?”

”いないよ。”

”あなたのような男が、恋人がいないなんて、誰が信じますか?”

”他の人が信じるとか、信じないは関係ないよ。あなたさえ信じてくれればそれで良い。”秋月はそれを聞いて、心の中が蜜を飲んだように甘かった。しかし、彼女は旦那さんが言ったのが本当の話かどうか分かりません。バレンタインデーのその日、新鮮花屋の人は家英にバラの一束を送り届けました。花の中に一片のメモがあって、こう書いています:”楽しいバレンタインデーを!”しかし署名がなく、ただ書いてあるのは:”一人黙々とあなたを好きです。”家英の同僚達は笑って聞きます:

”どこの恋人が送って来たのですか?”家英はそこに立って、どう言ったら良いか分かりません。彼もとても奇怪なことだ思い、この花は誰が送ったのでしょうか?この事を、もし嫁さんが知ったら、彼女はどう考えるだろうか?

家英は仕事がひけて家に帰った、彼はドアから入ると、秋月は聞いた:”今日はバレンタインデーでしょ、誰か他の人が送った生花を受け取りましたか?”

家英は小さな声で答えた:”ありません。”

秋月はまた大声で尋ねた:”本当にありませんか?”

家英はただ正直に言った:”赤いバラ一束を受け取ったが、誰が送ったか知りません。本当のところ、私は元来あなたに教えたくない、いらぬ疑いをいだくのではないかと恐れるからです。あなたは私に尋ねたので、すぐ言うほかはなかったので。”

秋月はほほえんで言った:”これは正直に言いますね。私のイケメン、あなたに教えましょう、赤いバラは私があなたにあげたのです。私はあなたにまさかと思うような喜びをあげたかったのです。”家英は喜んで言いった:”天よ、丸一日私は’まさかと思うような喜び’にひたっています。”

 

<会話><《梁山伯与祝英台》(段)>《梁山伯と祝英台》

(伝統的な演劇の抜粋個所)

とても暑いね、ぼっちゃん、ここから杭州城までどれだけ遠いですか?

まだ18里もあるよ、休みましょう!

見て、人が三三五五群れをなしているね、なんとにぎやかなのだろう!俺達、二人とも、あいつらについていったらどんなに良いだろう。おーい、あなた達はどこまで行きますか?俺達は杭州城まで勉強しに行くのです。

あ!あなたは勉強に行くのですか。

おれは、ちがう、おれは、ぼっちゃんだ。

なんてうれしいんだろう、私達も杭州城に行って勉強するんだよ、お姉さん―――

姉さんは、家に居ます、あなたは彼女のことを言うの!

私は、お姉さんがもしも私達といっしょに勉強しに出て行くのなら、なんとすてきなのだろうと思っています!

そうですか!

こちらの兄いからどうぞ。

どうぞ。

どうでしょう、兄いも杭州城に行って勉強してもらえますか?

はい、兄い、あなたもですか?

そうです、ちょっとお聞きしますが、ご尊名は。

弟分の姓は祝といい、祝英台と言います。

よ!祝兄い。

恐れ入ります。まだ教えてもらっていませんが。。。。。

私は梁山伯と言います、私達が路上でめぐり会うなんて、本当に縁がありますね。

兄い、いろいろ指導してください。

いやいや、こちらの兄さんの話を聞くと、あなた家には、勉強したいお姉さんもいるとか。 

兄い、あなたは知らないかもしれませんが、家にいる妹は本を読み文章を書くことが好きなのです、しかし父親は彼女が一緒に杭州城に行って学ぶことを賛成しません。

男女は平等であるべきで、女子を学校へ行かせないのは、人情がないね。

私は天下の男子も皆同じだと思っている、兄い、が女子のために義憤を抱くのはめったにないことだ。

弟分である私が口を開くと、話をするにはふさわしくない。

率直に言ってください。

それで私は率直に言いましょう。もしあなたが嫌でなければ、私はあなたと義兄弟の契りを結びたいです。 

私達は縁があってここで契りを結びます、そのため私達は実の兄弟のようにいっしょに学ぶことができる。しかし線香とろうそくがない、

どうしようか?

大丈夫、私達は線香に代えて柳を挿し込みましょう。ちょっとお聞きしますが、兄い、あなたは今年、年は、いくつですか?

私は十六、あなたは?

十七。

私はあなたを兄貴と呼びます。

私を弟として扱いください。

 

60課 <珍珠真珠鳥

なんてすばらしい!友達が私に一対の真珠鳥を送ってくれました。簡易の竹かごの中に置いた、かごの内に干し草があり、それは小鳥にとって心地良く、またあたたかい巣になります。

ある人によると、人を少し怖がる鳥だと言う。私はそのカゴを窓の前に掛けた。そこにオリズル蘭がフランス式の鉢で育っていて、蘭の緑葉がカゴにかぶさり、二匹がジャングルに隠れ安全のようです。中から、細く高い声が聞こえます。特別に気持ちよくリラックスしているようです。

太陽が窓の外から射し込み、ここまで光が透り、蘭の葉っぱが、半分は黒影となり、半分は光が透き通っていて、まるでヒスイのようです;繁茂した緑です。小鳥の影はこの中間できらめいて、見てもはっきりしなく、時にはカゴさえ見てとれないが、彼らのかわいく、あざやかな赤い嘴が緑の葉から伸びてきます。

私は彼らを見るために、少し葉をよせました。彼らは私を見るために、だんだん大胆に小さい頭を伸ばしてきた。私達はこのように少しずつ知り合いになりました。

三ヶ月以降に、あの更に繁茂した緑の葉の固まり中から、か弱い叫び声を出しています。私は、それらは雛がいるのではと思いました。私はどうしたか?決して葉をめくって中を見ません、食を与え、水を加える時さえ驚かさないようにしました。それほどたたないうちに、突然、葉の間から小さい頭が伸びてきました。更に小さい、ひな!正にこのチビです!それは小さくて、簡単に竹のかごの中を行ったり来たりすることができます。見てごらん、なんと母親に似ています:赤い口赤い足、ブルーグレーの毛、ただ背中はまだ真珠のような丸く白い点が生えていません:それは良く肥えていて、全体の身体が絨毛のボールのようです。

最初に、このチビはカゴのそばで活動はじめ、それから家の中を飛びたち、飛び来る。しばらくサイドボードの上に降りたち、本棚の上に留まり、本の背にある字をつっつき;しばらくしてランプコードをぶつかって何度も揺れ動き、引き続いてまた絵の額縁までジャンプしました。大きい鳥がかごの中で怒って一声叫ぶと、それは直ちにカゴの中に飛び去ります。

私は気にかけないようにしました。このように時間が経つと、窓を開けても、それは最多でも、窓枠の上でしばらくただ立つだけで、決して飛びたちません。だんだんそれは大胆になると、私の机の上に降りてきます。それは私から比較的遠く離れ、私が彼を傷つけないとわかると、ほんの少し近寄って、その後、私のコップの上まで跳んできて、うつむいて下にある茶を飲み、斜めに顔を見て、私の反応を見ています。私はただ微笑して、依然としてものを書いています、さらに大胆になり、テーブルの上を走り、私のペン先の周りを動き回り、跳び近寄り、跳びさります。私は顔色ひとつ変えずに書いていて、黙々としてこのチビの友好的な愛情を楽しんでいます。このように、それは全く安心して、小さくて赤い口で私のペン先をつっついています。私は手でその絨毛をなで、それも恐がらず、かえって友好的に二本の私の指をつつきます。

ある時、それはなんと私の空いているコップの中に跳び込んで、ガラスを通して私を見ています。それは私が突然コップの口にフタをかぶせても怖がらないでしょう、はい、私にはできません。昼間、それは、そのようにいたずらっ子のように私の傍にいます。日がもうすぐ暮れて、それは両親の再三叫び声で、かごに向かって飛んでいき、まるい体を揺らしながら、それらの緑の葉を開いて潜り込みます。

ある日、私は書いている時、それはなんと私の肩の上に降りてきました。私の手にもったペンは思わず止まって、それを驚かして逃がさないように。少しを待つと、頭をまわして見て、このチビはなんと私の肩先で寄りかかるように眠ってしまいました、銀灰色のまぶたで瞳をしっかり覆い、小さくて赤い足はちょうどとても長い絨毛で覆われています。私はそっと肩をもちあげても、それは目が覚めません、よく眠っています!

私はペン先を動かすと、一時的な経験を書いています。:信頼は、すばらしい境界を作りだします。

 

<閲読><美猴王>覧猿王.

東勝神州、という海外に一つの場所があり、名前を傲来国と言います。それは海に接していて、海の中に名山が一つあって、花果山と呼びます。

山頂の上に、ひとつの仙人の石があって、仙人の胎児を抱いています。ある日、仙人の石は裂けて、1つの石の卵を産みました、円球は、大きなものでした。風に出会うとそれは、石猿に変化しました。 その石猿は山中にあって、歩き跳ね、野草の果実を食べて、泉の水を飲んで、一群のサルと一緒に遊びました。

ある日、このサルは少し遊ぶと、熱いので、小川の中で泳ぎます。サル達は言った:"この河の水は多いが、どこから流れ来ているのですか?私達は今日なにもすることがないので、河の水に沿って上へ歩き、川の源流を探しに行きましょうよ。"老サルは、大きな声で叫んだ:"行こう!"サル達は子供を連れていて一緒に上へ行きます。彼らは何度も山を越えて、以前は大きい滝だった、小さな川の源流を見つけだした。サル達はうれしさのあまりほえ、叫んだ:"良い水!水だ!ここは高山が連なってまた海に通じている。”老サルは言う:"あの(滝の)中に入ってみることができて、その上、体を傷つけなかったら、私達は彼を王にしよう。" 彼は三遍言うと、突然石サルがサルの群の中から跳びでると、大声で言った:"俺が入る、俺が入る!"

石サルは目を閉じると、身体をしゃがめ、力いっぱい中へ跳びこんだ。滝の泉の中に跳び込んで、眼を開けて、頭を上げると、そこのまわりには水がなく、1本の大きい鉄の橋でした。橋の下の水は、石が縫う中から逆流してきて、滝になっています。橋の門は覆い隠されている。石サルは橋のたもとに上がって、あたりを歩き、あたりを見回す。ここは人が住んでいるような、本当に良い場所だ!

石サルは橋の中間から跳んで、真ん中にひとつの石碑をみつけた、表面に一行の字を刻んでいる:"花果山は恵まれた所、小さな滝には水帘洞という洞窟がある。"石のサルはとても嬉しくなった。急いで身をかえして戻っていく、また目をつむって、身体をしゃがみこみ、

水から飛び出した。ハッハッと笑って言った:"ラッキー、ラッキー!"サル達は彼を囲んだまま、尋ねた:"中はどうでしたか?"石サルは言った:"とても良かったよ!ここは本当に暮らすには良い場所だ。中はとても広い、千百もの家族が住むことができます。私達は中へ入って、神様からのいじめを免れようよ。"

サル達はそれを聞いて、みなうれしく思った。みんな言った:"やはりあなたが先に行って、私達を連れて入って。"石のサルは、また目をつむって、体をしゃがめるとひとっとび、叫んだ:"皆私について入ってきなさい!入って!"度胸が大きくなって、皆跳び込みました;臆病なものは、大声で少し叫んで、同じように皆跳び込みました。

石サルは上面に座って言った:"各位、あなた達はこう言ったよ、誰でも能力があるなら入って来て、出て行って、その上、体に傷つけなければ、彼を王にすると。私は現在、中に入って来てまた出て行った、また出て行き、また中に入った、こんなに良い場所を探しだした、私を王にすべきでじゃあないか。"サル達は言った:"そうすべきだ!そうすべきだ"みんな年齢によって大小の列をうまくつくり、上に向かってお辞儀をした:"大王千歳!"それから、石サルは美猿王と呼ばれた。

 

愁>郷愁

小さい頃

郷愁は一枚の小ちゃな切手に

私はここに(居る)

母はあちらの方に(居る)

大人になってから

郷愁は一枚の細い乗船切符に

私はここに(居る)

私の新婦(奥さん)はあちらの方に(居る)

それ以降は

郷愁は、四角い小さな墓に

私は(墓の)外にいる

母は(墓の)中にいる

さらに現在

郷愁は港の浅い海峡に(居る)

私はここに居る

(しかし、)大陸はあちらの方に

 

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